日系投資銀行の就活番外編②<半沢直樹について>

もう銀翼のイカロスのあたりが始まってしまっているのでかなり出遅れた感が否めませんが、本だとロスジェネの逆襲に当たる1話から4話はもろに証券IBの話だったため、取り敢えず書いておこうと思った次第です。ただファイアウォール違反何回繰り返すねんとか証拠隠滅したらさすがにダメだろとかそういった話は金融クラスタの皆さんが指摘しているところですし、一大学生の私にはサイゼリヤの間違え探しぐらい荷が勝ちすぎる案件なのでそれは置いておこうと思います。ここではロスジェネの逆襲がいつの話なのか、証券業の歴史を振り返って考えてみたいと思います。



○ロスジェネについて

一応ロスジェネの逆襲なのでロスジェネについて簡単なおさらいをします。1990年代後半から続いた急激な景気後退に伴い人員の縮小を企業は模索していましたが、バブル期に大量採用した余剰人員を削減することは難しく新規の採用を抑制することによってそれを解決しようと試みました。その結果15歳から24歳の失業率は1990年時点で4%付近であったのに対し、2002年には11%近くまで上昇しました。さらに団塊ジュニア世代というコーホート的に人口の多い集団が重なったことで、若年層に大量の失業者を生みました。これがロスジェネ世代です。ロスジェネ世代の方の当時を振り返るお話を聞くと、上場企業の半分が採用を行っていなかっただとか、数十社受けるのが当たり前でそれでも受からない人が結構いたとのことでした。

ドラマだと賀来賢人演じる森山が30歳という設定らしいので、ロスジェネの方が30代というのは民主党政権ぐらいの年代と推察されますが、本当にそうなのでしょうか?
どの年代なのかを考える前にまずは金融と証券業の歴史を振り返ってみましょう。



○証券業の歴史

・戦後と高度経済成長(1950s~1980s)
戦後の日本は基本的に銀行を軸とした産業構造でした。これはアメリカと違い銀行による株式保有が認められていた一方で、戦後の財閥解体に伴う純粋持ち株会社の設立禁止によって財閥の保有していた株式が行き場を失っため、それらの株式を銀行が持つ形で「系列」が形成されました。「系列」は企業に対して安定的な資金供給先を提供するだけではなく、銀行にとっても資金準備を抑えられるというメリットがありました。このようにしてアメリカとは異なった形の、間接金融システムによる資金融通が戦後日本では主流であったために、証券業は現在とは役割の違う存在でした。さらに当時は増資が額面増資であって時価増資でなかったことも影響しており、市場はあまり機能しておらず、もっぱら個人投資家向けに証券を売りつけその売買手数料で稼ぐビジネスモデルであったと言えます。
1964年の証券不況の際、山一證券が取り付け騒ぎに遭い、日銀特融が決定されますが、同時に過剰供給であった株式を絞るために日本共同証券が設立されます。この設立に際して証券会社だけでなく都市銀行や地方銀行、信託銀行なども合わさって株式買い上げの資金を提供しました。株式市場が回復する1971年に解散したものの、これらは金融の世界において証券業よりも銀行業の方が影響力が大きかったことを端的に表していると考えられます。他にも証券会社の不振時には再建にあたってメインバンクから人材が送り込まれるなど、銀行は証券会社に必要な資源であるカネだけでなくヒトも提供していたことが分かります。このような時代は長く続きましたが、バブル崩壊により状況は一転します。


・バブルの栄華と衰亡、その後の金融危機(1980s~2000s)
バブルの時代には銀行も勢いに任せて子会社のノンバンクも駆使しながら積極的に融資を行い、証券は株価上昇を追い風に証券販売を加速させました。その中で銀行は怪しげな案件にも多額の融資を重ね、証券は損失補填も顧客に約束して売買を続けました。結果バブル崩壊により前者は担保である土地の価格が大幅に下落して融資が焦げ付き、後者はその後の株価低迷により顧客に約束した損失の補填ができない状況に陥りました。
しかし政府の金融機関に対する救済は、世論の公的資金注入に対する厳しい視線から遅々としたものでした。1997年には準大手証券の三洋証券の破綻から始まり、四大証券の一角である山一證券、都市銀行13行の一つであった北海道拓殖銀行が相次いで経営破綻しました(山一証券は自主廃業という形)。これに対し日本政府は1.8兆円の公的資金を準備しましたが、これを使うことで倒産寸前にあるのではないかという噂が広がることを恐れた金融機関は誰も使わず、むしろ危機は悪化しました。1998年には長銀、日債銀が相次いで国有化。最終的には25兆円の公的資金により危機は沈静化しました。しかし国内金融機関は弱体化し、13あった都市銀行はみずほ、三井住友、三菱東京、UFJ、りそなに集約されました。こうした再編は証券業でも起こり、先述の通り山一證券は自主廃業。日興証券はリテール部門とホールセール部門を分社化、前者を日興コーディアル証券、後者を米シティグループとの合弁事業として日興ソロモン・スミス・バーニー証券を設立しました。野村證券は業界の雄として独立を保ったものの、大和証券は住友銀行に助けを求め、ホールセール部門を分社化して住友銀行との合弁事業とした大和証券SBCM、のちの大和証券SMBCを設立します。このように野村を除いた四大証券はそれぞれ憂き目に遭うこととなりました。
さらにメガバンク体制となった銀行は、持ち株会社の解禁に伴いグループ証券会社の設立を画策します。みずほホールディングスは合併した各銀行子会社の、第一勧業証券、富士証券、興銀証券を統合しホールセール専業のみずほ証券を立ち上げました。そして本来日興証券が三菱系でしたが、シティに救済を求めて三菱グループを離脱。それに伴い東京三菱銀行は東京三菱証券を設立します。のちに東京三菱証券は、準大手証券の国際証券、そしてUFJホールディングスとの統合に伴いUFJつばさ証券とも合併を果たして三菱UFJ証券となります。このようにして日本の金融機関は再編を果たすこととなりました。

一方でこの時代に勢力を伸長した集団があります。それは外資系投資銀行です。すでにバブル時期には好調な証券市場を狙って外資系証券は日本へ進出し始めていました。黒木亮さんの小説「巨大投資銀行」の主人公のモデルとして有名なソロモン・ブラザーズ・アジアの明神茂さんが活躍したのは、まさにこのバブルの時期です。他にもゴールドマン、JPモルガン、パリバ証券(BNPパリバの前身)などが進出したのもこの時期です。モルガンスタンレーやクレジットスイス(クレディスイスの前身)などは進出したのはもっと前ですが、本格的に活動し始めたのはこの時期です。そしてバブル崩壊の煽りを食らった日本の金融機関を尻目に、先述の通りシティは日興証券との合弁事業を設立、ゴールドマンは2003年に三井住友銀行から計5000億円の増資を引き受けました。メリルリンチは自主廃業した山一證券を引き継ぎリテール部門にも進出しました。UBSも日本長期信用銀行との合弁子会社であった長銀ウォーバーグを乗っ取り、日本の現地子会社としました。
このような外資系投資銀行の勢力拡大の背景には、日本の金融機関の弱体化に伴う人材の流出がありました。日本興業銀行の副頭取であった石原秀夫氏は1994年にゴールドマン・サックスの日本法人会長に、日本興業銀行出身の桂木明夫氏は2001年にリーマンブラザーズの日本法人代表兼投資銀行本部長になるなど、優秀で日本の商習慣に明るい多くの銀行員が外資系投資銀行に転職しそして日本法人の舵取りを行っていました。
また橋本内閣から始まった金融ビッグバンも影響していました。日本の規制当局は、不良債権問題が日本経済全体に悪影響を及ぼしたのは銀行主体の間接金融が原因と考えていたため、直接金融への転換を狙って金融規制の緩和と国際化を進めました。国内金融機関の投資銀行業務強化と外資系投資銀行の日本における伸長はこうした政治的背景の所産とも言えます。
しかしリーマンショックによって、またしてもゲームチェンジが行われることとなります。


・リーマンショックとユーロ危機(2008年~)
リーマンショックは全米第4位の巨大投資銀行であったリーマンブラザーズが破綻することによって世界へと波及しました。しかしこれの原因もまた日本の金融危機の原因となった資産価格の下落でした。アメリカの場合住宅債権でも格付けの低いサブプライムローン、そしてそれを証券化したCDOが住宅価格の下落により信用不安から暴落。結果それを取引していたベアスターンズ、リーマンブラザーズ、メリルリンチなどといった名だたる投資銀行が経営危機に陥りました。これに対しトレーディング業務の比重が少なく被害も軽かった商業銀行がこれを救済合併することとなり、ベアスターンズはJPモルガン、メリルリンチはバンクオブアメリカに買収されることとなりました。しかしリーマンブラザーズは誰にも買い手がつかず破綻、最終的に北米事業はバークレイズに買収されることとなりました。
この対岸の火事に対して日本はトヨタや日立製作所が巨額の赤字を計上するなどの被害を受けたものの、不良債権などのバブルの負の遺産を清算し終えつつあった金融機関は比較的傷が浅い状況でした。これを機と見たかは分かりませんが、この時期に日本の金融機関は拡張へ転じます。三菱東京UFJフィナンシャルグループはモルガンスタンレーに9000億円の出資を行い日本事業でジョイントベンチャーを設立。野村證券は破綻したリーマンブラザーズの欧州・中東事業とアジア事業を買収。三井住友フィナンシャルグループは2007年以降シティグループ傘下にあった日興シティ証券のリテール事業とホールセールの一部事業を買収しました。三井住友側としては旧四大証券の日興証券と大和証券を統合し、野村證券を抜く日本一の投資銀行設立を画策していたようです。しかし傘下におさまることを嫌った大和証券はこれを拒否し、三井住友グループとの合弁を解消して独立系証券へと戻ります。みずほフィナンシャルグループはリーマンショックに伴い証券化商品による巨額の損失を計上した影響から、準大手証券会社である新光証券を買収したものの海外への拡張はメリルリンチやエバコアへのマイノリティ出資を行う程度に留まりました。こうして日本の証券業界は海外への足掛かりを得た上で、三菱UFJモルガンスタンレー、野村、大和、SMBC日興、みずほという今の五大証券体制へと移行します。

こうして日本で金融機関の更なる再編が起きていた時期に欧州ではユーロ危機が起こりました。ギリシャでの債務隠しが政権交代によって明らかになったことが発端で、PIIGS(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペイン)と呼ばれる国々での公的債務に関する不安が広がりました。これらの国債を多く保有していた商業銀行を中心とした欧州金融機関の経営危機に波及し、ユーロ危機へと発展します。さらにその後の欧州での超低金利、そして低成長は欧州系金融機関の体力をジリジリと消耗させてしまいました。加えてリーマンショックへの反省から自己資本規制などが課せられたバーゼルⅢが施行、他にも欧州における市場規制のMifidⅡにより規制が強化されたことから、バークレイズ、ドイチェ、クレディスイス、UBSなどは相次いで投資銀行業務の縮小を掲げています。こうした欧州系投資銀行の縮退の流れは日本法人でも同様であり、ドイチェは2019年に日本株から撤退、クレディスイスも2019年にDCMを縮小、バークレイズは2016年に日本株から撤退しました。


・まとめ
以上をまとめると、
戦後長らく銀行による資金供給が支配的であり、四大証券体制の証券業は主に売買手数料を収益源とするビジネスだった。しかしバブルによってそれら金融業はおかしくなり、結果失われた20年の間に日本の金融機関は縮小と再編を余儀なくされ、その間隙を縫って外資系投資銀行が進出した。だがリーマンショックが起こり、米系投資銀行が大きな損害を被った傍らで日本の金融機関は日本市場における復権と海外への拡張を試み、現在の五大証券体制へと移行する。さらにその後のユーロ危機と欧州経済の低調、厳しい規制の施行で欧州系投資銀行は縮退を余儀なくされている。
となります。

○東京セントラル証券はどこがモデルか?

歴史が超長くなってしまったのですが、これを踏まえるとロスジェネの逆襲の舞台はいつであり、どこなのでしょうか?結構始めの方で民主党政権下と予想されると書きましたが、これは歴史を踏まえると整合性が取れません。リーマンショック以降は五大証券体制に移行したことで各証券のプレゼンスは向上し、兄弟会社だからと言ってそこまで銀行と上下関係があるとは思えないからです。従ってこれはリーマンショック前のあたりだと見当がつきます。メガバンク系となると東京三菱、UFJ、三井住友、みずほが怪しいですが、三井住友は大和と合弁を組んでいたのでまず対象から外れます。みずほの場合は興銀出身者を据えて証券IBに注力してきたはずなので、あの描写はちょっとしっくりきません。
そうなるとやはり圧倒的な銀行、それに対する証券という構図では原作著者の池井戸潤氏が勤めていた三菱銀行の後身、2000年代の東京三菱フィナンシャルグループがモデルだと考えられるでしょう。もちろん2000年代のリーグテーブルを見ると三菱も上位にちらほら入っているので一概には言えませんが、それでも相対的にみると一番しっくりくるのは三菱だと思います。ロゴや社名の語感も意識している節がありますし。精査しなくても何となく気が付く感じはします。


以上ロスジェネの逆襲の舞台に関する考察?をしてみました。
ドラマの設定にマジレスしてんじゃねえというご意見はありそうですが、ウィキペディア、教科書×2、野村資本市場研究所のレポート、各証券のホームページ、ブルームバーグの記事とまあまあ読み込んで作ったので許してください。なおリーマンショックと証券不況のあたりはウィキペディアの比重が多いので注意してください。
あと承認欲求がとても高いので良ければいいねしてください。さかのぼってしてください。

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