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芝浜はシンプルがいい

最近、「芝浜」をやっている。この噺は二つ目になって2年ほどしてから覚えたので、10年以上はやっていることになる。だけど、一時期あまりやらない時期があった。「文七元結」をやるようになってその頻度が落ちたこともあるけど、一番の理由は「照れ」かもしれない。

特にこの噺の「照れ」の根源がおかみさんである。おかみさんが最後に独白するところは特に照れる。女性を演じることがあまり得手ではないこともあるが。
このおかみさんは、亭主が拾ったお金を「夢」と言う。亭主はそれを信じる。こんな嘘を信じる方も馬鹿なら、それで行けると思うおかみさんもまた馬鹿なのかもしれない。だけど、馬鹿というのはあまり良い表現なので、純粋というか正直というか、この夫婦は真っ直ぐなのかもしれない。

それと、この亭主が改心するのはもしかしたら時間の問題だったかもしれない。自分でもまずいと思いながら酒に溺れ、毎日その日暮らしをしていたからだ。だから、この芝浜の四十二両一件はそのきっかけに過ぎない。人間ってのはそういうちょっとしたきっかけ(四十二両見つけたんだからちょっとじゃないかもしれないけど)で立ち直る。

だから、私はあまりこの噺を壮大にはしたくない。落語らしく演じたい。この噺を初めてやったのはたぶん二十代後半。結婚もしてないし、子供もいないし、今よりも経験値が圧倒的に少ない。だから照れていたんだと思う。その照れを見せないように、過剰に演出している時もあった。やたらに間を取って感情を込めて。だけど、そんなものを若い噺家でやられたんじゃあお客さんもキツい。

「文七元結」をやるようになって、人情噺に対する考えが少し変わってきて、「芝浜」が変わってきたと思う。というよりむしろ、教わった頃の形に戻ってきているように感じる。よりシンプルに。人情噺は話の骨格がしっかりしていて、とにかくそのストーリー自体が主になっている。だから、滑稽噺と違って、そのままでも面白い。そこに戻ってきているように思う。工夫を減らすというのとは違って、むしろシンプルにするという工夫なのかもいしれない。

喜怒哀楽も出し過ぎず、お客さんに余白を感じてもらいたい。

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林家はな平
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