抜擢真打に思うこと
落語協会に久しぶりに抜擢で真打が誕生します。詳しくは落語協会のホームページをご覧ください。
東京の真打制度は協会によって差はありますが、落語協会では15年前後のキャリアになると真打のお声がかかります。
その数年前から人気があると、このように抜擢真打が誕生することがあります。普通より、1、2年早かったり、4、5年早かったり、その時のタイミングが全て決めます。
抜擢で真打になるというのは人気があるのはもちろんですが、タイミング(このタイミングについては書ききれないくらい細かい状況があります)が合ったということになります。
ただ今日はその抜擢真打の話はそこまでにして、抜かれてしまった人たちのことを考えたいです。
大前提として、「大きなお世話だ」とか「お前なんかが何を言ってんだ」と言われるかもしれないと分かった上で、私の思ったことを書かせて頂きます。
抜擢で真打になる人がいる一方で、抜かされる人がいるのもこの世界です。私はそちらの方々のことをどうしても思ってしまいます。大きなお世話かもしれませんが、もし自分が抜かされたらどんな気持ちになるだろうと考えてしまうのです。
なぜこんなことを考えるかというと芸人というのは常に悔しさとか嫉妬との戦いをしなければいけないと思っているからです。
みんな同じ落語をやっていて、もちろんキャリアは関係なく売れる人はどんどん売れて行きます。二つ目でもメディアに飛び出して行く人もいれば、賞レースでたくさん勝つ人もいます。その時も悔しいものです。その大会に出場していたらさらに悔しいですが、出場していなくても悔しいものです。
表では「おめでとう」と言っても心では悔しさはあるものです。芸人ってそういうもんだと思います。
ただ、いわゆる人が売れることに対する悔しさはどこかで諦めというか整理をつけて行きます。「自分は違う形で」という風に奮起するしかないんです。
私も二ツ目時代、出られるコンクールは出ましたが、箸にも棒にもかかりませんでした。その悔しさは今でも忘れられません。SNSやかわら版で活躍する仲間の様子が眩しいものです。でも「嫉妬する時間は人生において一番無駄な時間」と言い聞かして乗り切ってきました。
しかしです。この真打昇進に関しては、そういう悔しさとは違うものが押し寄せるんじゃないかなと思うんです。その時(真打昇進)が段々近くなってくると心の準備をし始めます。あと◯年かなとか、この次かなとか。それがいきなり待たされるわけです。コンクールで負けるとはまた違うと思います。
目に見えて香盤(名前の順番)も変わります。上下関係は変わりませんが。名前が先に行くという目に見える状況は、なかなか説明しにくい悔しさがあると思います。ここで私が抜かされたらと考えてしまうのです。
多分、事実を前に最初は辞めたいくらい辛いと思います。コンクールで負けても相当悔しい私ですから。自分が真打になるまで悔しいかもしれません。抜擢される人と自分を比較しまくるでしょう。だけど答えはなかなか出てこないし、ただ悔しさが残るかもしれません。
答えはないんです。
一つ分かっているのは、「抜擢された人がすごかった」ということだけで、抜かれた人が駄目だったわけではないということです。みんな一生懸命やっているし、それぞれ活躍しています。だけど、抜いた人は、ただただすごかったというだけです。
どの世界にも、人一倍売れる人はいます。落語界でもいます。
「その売れる人がたまたま自分のちょっと下に居て、通り過ぎていった」
こういうことです。それだけです。だから自分と比較する必要はないんですよね。
あとはこの事実を自分のストーリーにどうはめ込んでいくかだと思います。自虐的に笑いに変えるのか、悔しさをバネに鋭いキャラに変えるのか、何もなかったかのように過ごすか、どんな動きをしても僕は芸人として応援したいです。
抜擢真打になってお二人は、逆に何も思う必要もなくて、大いに誇りを持って真打披露に挑んで欲しいです。
余談ですが、政治学者の成田悠輔さんがどこかの大学の卒業式で、とても興味深いことを言っていました。
「世の中で抜きん出て成功を収める人は、普通の人では経験しないような出会いがあったり、幸運に恵まれて、才能もかなり持っている。一方、世の中の大半の人は平凡かそれ以下の人生しか送らない。だからそういう成功者の人の本を読み漁って、その人みたいになろうなんてのは早く辞めた方がいい。それよりもっと大事なのは、子供心を持って何事にも挑戦する気持ちだと思う。それさえあれば割と豊かな人生が送れると思う。」
これは決して夢を諦めろって意味ではなく、もっと現実的に目標を定めて生きろというメッセージだと私は理解してます。
真打二年目の林家はな平でした。