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青い半島に向かって【1.出生】

はじめに

 
 私の生い立ちを聞いて、友人たちはいつも「小説にでもすれば」と言った。あるいは、「映画にできるんじゃない?」と苦笑いした。
 しかし書いてみても、読み返すのが辛くなるぐらい暗くなるので、もう書くまいと思った。
 人生を半分ぐらい生きてみて、最近はようやく面白い人たちにも巡り合え、本当にやりたいことも見つかり、死ぬまで楽しく生きていけるような気がしている。

 この先、出会う人たちに、私の生い立ちを語ることがあるだろうか?
 それを語ったところで、人の役に立つことがあるだろうか。

 その時のために、少しまとめておく必要があるように思い、筆を(キーボードを)取る。 


1.出生


 私は東国にある青い半島、その付け根にある、二つの市の境界に近い産婦人科で産まれた。
 昭和61年、3月の大雪の日のことだ。
 産まれてしまった、というべきである。
 私は望まれない子だった。
 

 私を産んだ母親は、就職により上京してきた貧しい北国出身の祖父母の間に産まれた。
 この夫婦の因縁も深いので、先に祖父母夫婦のことも書いておこうと思う。

 
 祖母は中の上ぐらいの東北農家の家に産まれた。
 地元の小学校の事務員をしていたが、見合いの末、祖父のもとに嫁ぐことになった。
 祖父には熱烈な新興宗教信者の母親がおり、地元でも有名だったようだ。祖父の母親は、祖母の仕事帰りに待ち伏せして、露骨にじろじろ眺めまわし、品定めしていたらしい。祖母は地元では大変モテる女子だったそうだ。
 東京の祖父の元に嫁ぐと、住まいは貧乏アパートの一室で、大変辟易したそうである。そのうえ、心寄せる女(もちろん祖母ではない)へのラブレター等もそのあたりに打ち捨てられている。とても、花嫁を迎え入れる様子はなかった。
 もっとも、楽しいことに目がない祖母の方も、東京へ行けば東北の貧乏暮らしを抜けて、花の都で大いに華やかな生活が送れることだけを期待していたようである。

 さて、最初の事件。

 最初の子ができたは良いものの、まだ新入社員で若かった祖父は、経済的に子どもを育てられないと判断。
 祖母に一方的に堕胎を迫ったそうである。
 貧しい東北人は、口減らしに抵抗がなかったのであろう。
 祖母は泣く泣く堕胎に応じた。
 そのころの手術は医療が未熟で、出血が酷く、肉体的にも苦痛だったそうである。
 そして、母が誕生するころには祖父も仕事が軌道に乗っていたのだろう。(でなければ、また口減らしだ)
 その後、母の弟も誕生し、このサラリーマン一家は「4人」ということで続いていく。
 だが、この一家の水面下では、大きな亀裂が入っていた。
 祖母は運命の男性と出会ってしまい、関係を持つようになった。
 それというのが、母の弟の同級生の父親である。
 出会いはPTA役員だったらしい。
 祖父は分かっていて、復讐心から離婚を切り出さなかった。
 むしろ、離婚「してやらない」ことが最大の抵抗だったようだ。
 祖母はますますエスカレートして、露骨に外出することが多くなる。
 そんな一家であったので、母の性格も見えない部分でゆがんだのだろう。
 ちなみに、祖母の運命の人は、祖母の2人目の夫になった。
 祖父の死後、念願かなっての熟年再婚だった。
 

 そんな家庭で育った母は、高校を卒業すると、都心の生命保険会社で働くようになった。いわゆる花のOLである。
 ある時、通勤途中で原付事故を起こしてしまう。
 その担当警察官が、我が父親である。


 さて、この父であるが当時警察手帳に20人の女の電話番号を控えていたそうで、好色そのものといった野蛮な男であった。青い半島内陸部の農村出身。電車にも乗ったことのない田舎者であったが、時は学生運動真っただ中、空港占拠等の大事件が毎日起こっていた時期である。機動隊の大量導入が必要になり、頭が悪くても、農家出身でも、喧嘩が強ければ警察官になれたそうである。
 当時、ミス地元に選出されかけたほど見た目には恵まれ、モテた母親。この父親が放っておくわけがなかった。
 見事にお手付き、その後は私が「デキて」しまったのである。
 母も、満たされない心を父親との逢瀬で補おうとしてしまったのだろう。
 夜遊びが増える一方の娘が、知らない男とラブホへ向かうのを、街中に偶然居合わせた祖母が目撃してしまったのも、何という業の深さだろう。
 
 さて、修羅場が楽しくなってまいりました。

 やむを得ず、妊娠を祖父へ切り出す母。
 激高する祖父は「堕ろせ!」(また出た、口減らし!)の一点張り。
 その時の祖母(すでにほかの男と不倫真っ最中)の言葉、

「だめだよ、産まなきゃ!この子が育てられないなら私が養子にしてでも育てるから!ね!」

 祖母は、自分に水子がいるので、同じ思いを娘にしてほしくなかったのだと後に語っている。

 そういう訳で、私は幸か不幸か、祖母のおかげで命拾いをしたのである。

 父方の親族は、「責任は取らねえといけねえだろう」と結婚を決意。

 だがしかし!!!父には、将来を誓った本命の女がいたのである!!!(ここ重要、後で出ます)
 父親の不満たるやMax状態の結婚が進められることとなった。
 当の本人、母はもちろん母親になる覚悟の前に、出産を強いられることとなったのである。
 この時点で、母は出産・結婚の判断に対して自己決定がなく、全て他人任せであった。(ここも重要)
 両親の結納の日は見事に縁起悪く、台風並みの土砂降りだったそうである。
 
 そういう訳で、五黄の寅年、三月仏滅の日、私はこの世に誕生した。
 望まれない子に相応しい誕生日である。
 どっとはらい。

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