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私は私が生きるこの社会を『弱く脆い社社会』とはしたくない 作・三太


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 私には今の私を私たらしめていると感じている幾つかの『言葉』がある。
 先の原稿にも書いた呉秀三先生の『我が邦に生まれたる不幸』もその一つではあるが、ここではまた別の『言葉』について述べてみたい。

『ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合,それは弱くもろい社会なのである。』*1

 これはすでに40年以上も前のことにはなるのだが、1980年に国際連合(以下『国連』との表記も)で採択された『国際障害者年行動計画』の中の一節である。

 私は中学高校時代から障害者関連、福祉関連についての漠然とした関心があり、障害者施設に勤めている叔母の蔵書などを読ませてもらっていた。
 進学にあたってはどこか間違った知識のままに『施設職員になるには障害者教育について学んでおかないといけないのでは?』と教育学部を選択したのだが、これは実際の資格取得などとは当時はまったく関係の無い事柄であった。
 それでも大学でのサークルは視覚障害者が利用する点字本を作成するサークルや、そこで知り合った先輩に誘われて、障害者の交通権保障に向けたイベント企画、また当時のいわゆる『無認可共同作業所』について研究発表をしたりボランティアとして関わったりしていた。
 この作業所については卒業後に入職することになるのだが、それはまた別の話であるだろう。

 あの時代、1981年の国連における『国際障害者年』という言葉は、すでに世の中では一定の認識を得ていたようには記憶している。
 もっとも我が国においては、それが本来1992年までを見通した『長期行動計画』が元来であり、さらにはその10年の長期計画が終了した後も『アジア太平洋における障害者の10年』、さらにさらにその最終年に更なる10年の延長がなされ2012年まで続いた、およそ30年にわたる行動計画であったことを知る人は少ないのでは無いかと思う。

 これほどの長期に渡る国連の活動の中、採択された文章は多岐にわたり、その数、ボリュームともに膨大なものになるのだが、先に掲げた文章は、初年度である1981年の前年に決議されたものの一部なのである。

 私が最初にこの言葉を知ったのは、当時関わり始めた障害児者の権利保障運動の中心におられた先達からの言葉であったかと思う。
 おそらくその人は、当時の運動内部のトレンドとして語られたのだとは思うのだが、私にはかなり『引っかかる』フレーズであった。

 今のようにスマホやパソコンでそれらしき言葉を打ち込めばそれなりの情報が手に入る、等ということは想像すら出来ない時代だった。
 障害児教育専門の先生を訪ね、図書館に足を運び、私は出典元を一夏かけて調べたのだ。
 いわゆる引用文としてこの一節を取り上げたものはそれなりに見つかったのだが、なかなか『原本』に辿り着けないでいたのは、当時の私の情報検索力のお粗末さにもその原因はあったのだろう。
 それでも何とか確たる出典を探し出せたときは、妙に神経が昂っていた記憶が残っている。

 同時に見い出した各種の採択文書や過去の国連における宣言などを読みながら、私はこの一節が『国際障害者年』という、ある意味『目立つ』行動計画に突然浮かび上がっていたものでは無い、という思いに至ることになる。

 先に述べた『言葉』が生み出されてきた時代の変遷を、私なりの解釈を入れつつほんの少し振り返れば、次のような流れになるだろうか。

 第二次世界大戦後、基本的には戦勝国が主体となって(英語名称の引きずりもその表れかと私は捉えているが、それでもそこには二度とあのような戦争を起こしたくないという、各国の現場で働く人々の思いは強くあったかと思う)『国際連合』が組織され、1948年にはあの名高い『世界人権宣言』が採択された。
(なお日本の国際連合加盟は1956年のため、この宣言の採択には関わっていない)

 その翌年の1949年には国連にて『盲を含む身体障害者の全体的にリハビリテーション』が課題として取り上げ始められる。
 この時期の国連におけるこれらの議論の推移は、おそらくその背景に先の大戦における傷痍軍人の大量発生という現実に社会がどう対応していくのかを試されていた状況と、障害者の権利を保障するために世界がどうしていくべきなのか、現在に繋がる議論の先駆けになったのだと私は考えている。

 その後、60年代における経済社会理事会の『障害者のリハビリテーション』決議、1971年における『精神遅滞者の権利に関する宣言』、さらには1975年の『障害者の権利に関する宣言』へと続き、70年代後半の冒頭に述べた『国際障害者年』の提起へと続いていく。*2*3

 これらの流れを汲んだ『国際障害者年』の取り組みとその『行動計画』は、まだ10代だった私にとっては、なんとも崇高で、なんとも力強いものに思えた。
 そしてその思いは、この『言葉』を知った40年前と今とでも変わらずに、すでに還暦が近付いてきた『私』の中にも確かに存在し、あるときは燻りながらも、また別のあるときには燃え盛るような熱量を与えてくれる。

 私自身は男性としての性自認を持ちつつ同性に性的な意味で惹かれる同性愛者である。
 その自覚は小学生高学年ぐらいからはあったかと記憶しているが、自分なりに『少数派ではあるのだろうが、悲観するほど少なくは無いのでは』との思いもあった。
 これは私が、テレビなどでいわゆる『ゲイ雑誌』が嘲笑の対象として取り上げられたり、お笑いで『オカマが馬鹿にされる』風潮を見て、逆に『商業的に成り立つほどの購買層がいるのだな』と思う、賢しらな『子ども』であったせいだろう。

 そのような自覚をもっていたためか、自らの性的指向にはあまり悩まずに過ごしてきていた。
 それでも学校(特に小学校であったか)で見かける『いじめ』には、明確な嫌悪感を持っていたと思う。
 自分自身も『なよなよしてる=女みたいな』『運動音痴』などで対象となることがあったのだが、それも時々のことで、長期に渡るもので無かったことはありがたいことだったのかもしれないが。

 昨今のメディアやSNSの流行りを見ていると、性的少数派(最近は特にトランスジェンダーがピックアップされているように私には思える)や、肌の色、出身国や生育してきた文化圏、ネイティブとする言語、社会的な階層(ホームレスや貧困者・家庭等があたるだろう)など、それら様々な『社会の構成員』であるはずの人々が、排除・排斥されるような論調を見かけることが増えてきたように思う。
(もちろんここでの私による対象の羅列は、性的指向や人種等が『障害』であることを意味してはいないし、逆に障害が『変化しないもの』をも意味してはいない。)

 もう一度、冒頭に掲げた文章(言葉)を繰り返したいと思う。

『ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合,それは弱くもろい社会なのである。』

 私は、私が生きているこの社会を、この国を、『弱くもろい社会』には、したくない。

 そう思って、そう考えて、毎日を生きていく、生きていきたいと考えている。

*1
国連総会決議34/158
1980年1月30日採択
国際障害者年行動計画
事務総長報告A/34/154(1979年6月13日)
第63項(一部抜粋)

*2
障害保健福祉研究情報システム
「精神遅滞者の権利に関する宣言」ページより
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/un/unpwd/po14po19.html#014

*3
傷害保険福祉研究情報システム
「Ⅲ 国際障害者年の宣言と障害者年に向けて」ページより
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/un/unpwd/po28po48.html#35133


BY 樋口芽ぐむ