見出し画像

【短編小説】顎

「あいつドヤ顔するとき顎出るんだよな」
上司の話だ。競合他社から来たのだったか、偉い人のコネか何かで入社したのだったか、よくわからないけれど、求心力がちっともない。飲み会ではいつも、営業成績万年1位の先輩に馬鹿にされている。何もわかっていない素人だとか、上司のさらに上司にも呆れ果てられているとか、顎が出ているとか。私は顎の話が出るたびに、心の中で小さく「ひっ」と叫ぶ。叫びと言えるかわからない。小さく息を吸うように「ひっ」と。


高校3年生のとき、初めてまともな彼氏ができた。それまでも、デート的なことをした相手はいたけれど、きちんと付き合ったのはその人が初めてだった。同じクラスだった親友には、付き合う前から、デートがどうだったとか、どんなメールが来たとか、塾の帰りにファミレスで勉強したとか、逐一話していた。
彼は自慢の恋人だった。近くの男子校に通う、たいへん頭のきれる真面目な男の子。笑うと切れ長の目尻に笑い皺ができる。真っ黒い詰襟の制服からはいつも、海外の柔軟剤のような匂いがした。彼の話をするとき、決まって親友に指摘された。「ちょっと、顎が出てるよ。」

暇な夏休みのある日、2ちゃんねるの掲示板を見ていた。当時、学校ごとにスレッドがあって、先生に対する誹謗中傷とか、ひどいと特定の生徒に対するいじめめいた内容とか、そんなものが書いてあった。その中のコメントに、思わず凍りついた。

「うちの学校の顎が出てるデブと詰襟の男子校のダサい男がデートしてたよw」

2回ほど読み返した。それに対するコメントは特についていないようで安心した。私の学校は女子校で、彼氏ができたと知れると隣のクラスからも「ねえ、彼氏がいるの?」と聞きに来る人がいるような学校だ。そして、「顎が出てる」という言い方。自意識過剰なだけかもしれない。わからない。自分はあまり「顎が出てる」って表現、使わないけれど。他にもいくらでも顎が出る人なんているだろう。気にしすぎかもしれない。わからない。恥ずかしい。耐えられなくなって、ブラウザを閉じた。


例の彼氏とは2年半ほど付き合って、別れた。大学に入って、女の先輩が好きになったそうだ。親友だった子とは、大学以降もずっと仲良くしていたけれど、変な男と付き合いだして話が合わなくなり、25歳ごろを境に疎遠になった。あの投稿について話すことは、最後までなかった。

いいなと思ったら応援しよう!