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《備忘録》もうひとりの祖父

 2024年11月1日、青森県新郷村(旧・戸来村)にて。



 この言い方は極めて不自然というか、失礼というか、ちょっと自分でも困ってしまうのだけど、その人は私にとって「もうひとりの祖父」だった。

 血はちゃんとつながっている。離婚や再婚といった事情もない。その人はまぎれもなく僕の祖父だけれども、表象はいつも "the other" なのだった。

 6年か7年ぶりに八戸駅に降りた。一緒に来た弟に話しかけると、私の声が少しだけ南部訛りを含んでいて、自分で驚いてしまった。小学生の頃は、毎年の夏休みに10日間ほど新郷村に滞在していたから、そのたびに訛りを東京へと持ち帰ることになるのだけど、僕の身体はそれを記憶していた。そして、無意識のうちにそれが実践されたのだった。

 これが「帰る」ということなのか、と私は少しだけ思った。しかし、それと同時に、私の「帰る」ところがここにあるのだろうか、とも思った。新郷村では、私はいつも〈異人〉だったからだ。



崖の下には田んぼが広がっている。
コンバインで収穫すると、このような幾何学模様ができる。
新郷村で稲刈りが済んだ田んぼを見たのは初めてだった。
今まではずっと夏休みの訪問だったから。



 八戸駅から車で1時間弱ほどのところに、祖父母の家がある。新郷村の役場に就職した従兄弟が、午前休をとって僕たちを駅まで迎えに来てくれた。僕より3つ年上の彼は、僕のなかの記憶とあまり変わっていなかった。

 たわいない話をしていると、急に見覚えのある橋があらわれる。ここまで来ると、家はもうすぐそこだった。すぐそこと言っても、1kmほどの上り坂である。僕は彼と、この橋から家まで競走したことがある。年上で、しかも熱心な野球少年だった彼に勝てるはずもなく、くやしさと苦しさで胸を引き裂かれながら走った。彼は、そんな僕に「やるじゃん」と言った。そんなことを、ふと思い出したのだった。



祖父母の家の裏山は、広大な杉林になっている。
新郷村(旧・戸来村)は、かつては林業の村だった。
この杉が戦後復興から高度成長にかけての材木需要を満たしていた。
今ではもう、ほとんど手入れされていない。



 家に着くと、祖父が出迎えてくれた。彼はこんなに小さかっただろうか、と思った。「もう1ヶ月は持たない」と宣告された祖父は、僕の記憶のなかでも痩せていたけれども、それよりもさらに痩せ細り、背中も曲がって、しかし自分の脚で歩いてこちらまでやってきた。

 「元気?」とは聞けなかった。聞けるわけがなかった。



雑然とした倉庫に、いくつもの農業用機械が置かれている。
手前には、無造作にかぼちゃが転がっている。
空間の土臭さも含めて、これは私の記憶そのものだった。



庭にピーマンが捨てられていた。
これはパプリカではない。
緑色のピーマンを捨てたら、それが自然に熟して赤くなっただけだ。



この家の水道は、すべて湧水を引いている。
いつでも冷たくておいしい水がある。
その味がとても懐かしかった。



このドラム缶で、みんなでバーベキューをするのが恒例だった。
かつての夏休みには、私を含めて7人の「孫」がドラム缶を囲んだ。
祖父はいつも、少し離れてみていた気がする。
私の記憶では、ドラム缶はもっと大きかったはずなのだが。



小さな小さなノコギリクワガタが死んでいた。
小学生の頃は、虫取り網をもってカブトムシを探し回っていた。
ビニールハウスの外に捨てられた、腐ったトマトに群がっていた記憶がある。
このノコギリクワガタに祖父の姿を重ねてしまった。



 祖父の体重は、もう36kgしかないという。9月の稲刈りのときにはまだ元気だったのだが、10月になって急に体調を悪くしたそうだ。現時点ですでに余命が1ヶ月ないというのだから、何という早さだろう。

 彼は、腕時計のベルトが緩くなった様子を僕に見せた。こんなに緩くなった、と彼は笑った。僕も笑ってやった。彼自身が心配をかけまいとしているのだから、僕はそのゲームに乗るしかない。たぶん、上手く笑えなかった。

 話したいことはたくさんあった。

 奥入瀬渓流でイワナを釣ったこと。釣りのエサは、牧草地でつかまえたバッタだった。牧草地を歩くと、驚いたバッタが一斉に飛び跳ねる。それを素早く捕まえてビニール袋に入れていく。その袋をもって渓流に降りていき、釣り針にバッタをつけて川に流す。上手くいけば、イワナがバッタに食いついて針に引っかかる。針から逃れようと身をよじるイワナの重さを、僕はいまだに手の感触として覚えている。これも恒例のイベントだった。

 竹を割って流しそうめんをしたこと。祖父の知り合いが持っている竹やぶに入り、良さそうな竹を選んで根元からノコギリで切る。切ったところから水があふれてくる。それを軽トラの荷台にくくりつけて、家まで運ぶ。僕は荷台に乗って帰ったはずだ。それで、ナタで竹を半分に割って、ハンマーで節を抜いて、割れた皿でささくれを取って、流しそうめんをした。そうめんだけではなく、トマトやピーマンも流した。水の勢いが強すぎて、そうめんが途中で地面に落ちることも少なくなかった。それは飼い犬が食べた。これも恒例のイベントだった。

 しかし、昔話をしようとすると、なぜだか泣きそうになってしまって、話を切り出そうとしては止めるのを何度となく繰り返した。しばらくして、やっとの思いで「イワナ釣ったの、覚えてる?」と聞けた。彼はただ、頷いただけだった。



ビニールハウスのなかで祖母が「選別」の作業をしている。
その様子を、祖父が座って見ている。
2人は何か話しているが、訛りがきつくて聞き取れない。
この体験こそが、幼い僕をして〈異人〉にさせたのだ。



 その日のうちに、僕は東京に帰ってきた。

 新幹線のなかで、ふと違和感に思い当たる。私は、祖父が腕時計をしているのを、かつて一度も見たことがない。腕時計は農作業の邪魔になるし、お洒落してどこかに出かけるような人でもなかった。

 僕たちを迎えるために、彼はお洒落していたのだ。彼が腕時計のベルトが余っている様子を見せたのも、瘦せたことを伝えるためではなくて、ちょっとした自慢というか、そういう類いのアピールだった。

 僕には確かに「帰る」ところがあった。私は〈異人〉などではなかった。東京へと帰る新幹線のなかでそれに気がつくとは、何たる皮肉だろう。自然と涙がこぼれた。おそらく、これが今生の別れである。



 私が中小企業論を志したことの、もうひとつの(ふつう言及されない)背景には、新郷村での原体験があったはずだ。その証拠に、私における「中小企業」はつねに農林自営業を含む社会的カテゴリーだった。




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