《備忘録》もうひとりの祖父
2024年11月1日、青森県新郷村(旧・戸来村)にて。
この言い方は極めて不自然というか、失礼というか、ちょっと自分でも困ってしまうのだけど、その人は私にとって「もうひとりの祖父」だった。
血はちゃんとつながっている。離婚や再婚といった事情もない。その人はまぎれもなく僕の祖父だけれども、表象はいつも "the other" なのだった。
6年か7年ぶりに八戸駅に降りた。一緒に来た弟に話しかけると、私の声が少しだけ南部訛りを含んでいて、自分で驚いてしまった。小学生の頃は、毎年の夏休みに10日間ほど新郷村に滞在していたから、そのたびに訛りを東京へと持ち帰ることになるのだけど、僕の身体はそれを記憶していた。そして、無意識のうちにそれが実践されたのだった。
これが「帰る」ということなのか、と私は少しだけ思った。しかし、それと同時に、私の「帰る」ところがここにあるのだろうか、とも思った。新郷村では、私はいつも〈異人〉だったからだ。
八戸駅から車で1時間弱ほどのところに、祖父母の家がある。新郷村の役場に就職した従兄弟が、午前休をとって僕たちを駅まで迎えに来てくれた。僕より3つ年上の彼は、僕のなかの記憶とあまり変わっていなかった。
たわいない話をしていると、急に見覚えのある橋があらわれる。ここまで来ると、家はもうすぐそこだった。すぐそこと言っても、1kmほどの上り坂である。僕は彼と、この橋から家まで競走したことがある。年上で、しかも熱心な野球少年だった彼に勝てるはずもなく、くやしさと苦しさで胸を引き裂かれながら走った。彼は、そんな僕に「やるじゃん」と言った。そんなことを、ふと思い出したのだった。
家に着くと、祖父が出迎えてくれた。彼はこんなに小さかっただろうか、と思った。「もう1ヶ月は持たない」と宣告された祖父は、僕の記憶のなかでも痩せていたけれども、それよりもさらに痩せ細り、背中も曲がって、しかし自分の脚で歩いてこちらまでやってきた。
「元気?」とは聞けなかった。聞けるわけがなかった。
祖父の体重は、もう36kgしかないという。9月の稲刈りのときにはまだ元気だったのだが、10月になって急に体調を悪くしたそうだ。現時点ですでに余命が1ヶ月ないというのだから、何という早さだろう。
彼は、腕時計のベルトが緩くなった様子を僕に見せた。こんなに緩くなった、と彼は笑った。僕も笑ってやった。彼自身が心配をかけまいとしているのだから、僕はそのゲームに乗るしかない。たぶん、上手く笑えなかった。
話したいことはたくさんあった。
奥入瀬渓流でイワナを釣ったこと。釣りのエサは、牧草地でつかまえたバッタだった。牧草地を歩くと、驚いたバッタが一斉に飛び跳ねる。それを素早く捕まえてビニール袋に入れていく。その袋をもって渓流に降りていき、釣り針にバッタをつけて川に流す。上手くいけば、イワナがバッタに食いついて針に引っかかる。針から逃れようと身をよじるイワナの重さを、僕はいまだに手の感触として覚えている。これも恒例のイベントだった。
竹を割って流しそうめんをしたこと。祖父の知り合いが持っている竹やぶに入り、良さそうな竹を選んで根元からノコギリで切る。切ったところから水があふれてくる。それを軽トラの荷台にくくりつけて、家まで運ぶ。僕は荷台に乗って帰ったはずだ。それで、ナタで竹を半分に割って、ハンマーで節を抜いて、割れた皿でささくれを取って、流しそうめんをした。そうめんだけではなく、トマトやピーマンも流した。水の勢いが強すぎて、そうめんが途中で地面に落ちることも少なくなかった。それは飼い犬が食べた。これも恒例のイベントだった。
しかし、昔話をしようとすると、なぜだか泣きそうになってしまって、話を切り出そうとしては止めるのを何度となく繰り返した。しばらくして、やっとの思いで「イワナ釣ったの、覚えてる?」と聞けた。彼はただ、頷いただけだった。
その日のうちに、僕は東京に帰ってきた。
新幹線のなかで、ふと違和感に思い当たる。私は、祖父が腕時計をしているのを、かつて一度も見たことがない。腕時計は農作業の邪魔になるし、お洒落してどこかに出かけるような人でもなかった。
僕たちを迎えるために、彼はお洒落していたのだ。彼が腕時計のベルトが余っている様子を見せたのも、瘦せたことを伝えるためではなくて、ちょっとした自慢というか、そういう類いのアピールだった。
僕には確かに「帰る」ところがあった。私は〈異人〉などではなかった。東京へと帰る新幹線のなかでそれに気がつくとは、何たる皮肉だろう。自然と涙がこぼれた。おそらく、これが今生の別れである。
私が中小企業論を志したことの、もうひとつの(ふつう言及されない)背景には、新郷村での原体験があったはずだ。その証拠に、私における「中小企業」はつねに農林自営業を含む社会的カテゴリーだった。