中小企業研究は再興されねばならない
2024年10月30日、私の決意表明として。
西 大成
論旨
私の主張は極めて明快である。
まず、中小企業研究の社会的責任は極めて大きいにもかからわず、現代の中小企業研究はそれをまったく果たしていない。それどころか、その実態は「学問」ですらない。さらにひどいことに、この状況に危機意識をもつ研究者がほとんどいない。つまり、中小企業研究は絶望的な状況にある。
並びに、私の決意は極めて明快である。
中小企業研究の社会的責任を果たすべく、私はそれを再興する。
中小企業研究の社会的責任
中小企業は、日本の企業の99.7%を占める。労働者数で言えば、日本全体の7割を占める。三大都市圏を除けば、9割以上の有業人口が中小企業(自営業を含む)に包摂されている。
つまり、「日本経済」や「日本社会」という構成体を、中小企業を無視して語ることはできない。それゆえに、中小企業の実態的な研究があってこそ、それらの大きな概念を論じることができるはずである。当然ながら、経済政策の立案にも中小企業の実態研究は欠かせない。
ごく単純に言えば、中小企業研究は政策科学であって、それも直接的には国民の7割という超重厚な社会層のための学問なのである。それに参加する研究者は、中小企業の実態を把握し、国会や省庁や世論へと研究成果を還流させ、政策の方向性を誘導していかねばならない。もちろん、その研究と政策は、中小企業のみならず、国家ひいては世界のためであり、さらには我々の未来のためである。
しかし現在、ほとんどの中小企業研究者は、そのような社会的役割と責任を果たしていない。ここでひとつ、具体例を示そう。この度の衆議院選挙ではほとんどの政党が「最低賃金を1500円に!」と叫んでいた。このような経済政策の背景には、生産性の低い中小企業が淘汰されれば日本の生産性が高まるはずだ、という世界認識がある。しかし、これがどれほど見当違いかは、まともな研究者ならすぐに分かるはずである。
数少ないまともな研究者のひとり、港徹雄 (1945-現在) は、このような経済政策を鋭く批判する。
この主張をまとめるならば、中小企業は決して怠惰なのではなく、むしろ日本の経済構造において低生産性を強いられているのである。大企業が生産性を高く保っていられるのは、中小企業に低生産性工程や低生産性事業を押し付けているからであり、さらには交渉力の差を背景に不等価交換を強いているからにほかならない。つまり、大企業が中小企業の生産性を押し下げることによって、大企業の生産性が高く見えているのであって、日本経済の停滞の原因はむしろ大企業の側に求めなければならないのである。
「最低賃金を1500円に!」という言説は、日本経済の実態をまったく捉えておらず、それが新自由主義者や都市住民からはバラ色に見えるからこそ、日本経済の実態を知る研究者がそれを強く批判していかなければならない。国会や省庁や世論へと働きかけて、未来のために政策を誘導することが「研究者」たる者が果たすべき社会的責任である。
しかし、それなりに存在しているはずの中小企業研究者は、そのような声をほとんど上げなかった。それどころか、このような認識すらも共有していない研究者が大多数を占めると思われる。
経済政策が新自由主義的な傾向を強めるなかで、それを誰よりも批判するべきは中小企業研究者である。しかし、私はそのような論文や論考をほとんど見たことがない。港徹雄のこの論文は、数少ない例外である。研究者たちはむしろ、経営論的な研究を量産し、生産性が低いのは企業の努力不足だと言う新自由主義的世界観を補強しているのである。さらに悪いことに、経営論の研究者たちは、自らの研究のイデオロギー的な帰結にきわめて無自覚であり、学者としての最低限の責任意識と反省性さえ持ち合わせていない。
先に引用した港徹雄は、まもなく80歳を迎えようとしている。日本でまだ生きているまともな研究者は、その大半が彼と同じ世代に属する。これがきわめて絶望的な状況であることは明白であるにもかかわらず、そのことを現役の中小企業研究者たちはほとんど認識していない。
絶望的な状況を自覚していない状況こそが真に絶望的なのであって、この研究分野の果たすべき社会的責任の重大さを鑑みると、私は悲愴な決意を固めざるを得ないのである。
現在の中小企業研究は学問に非ず
「学問」とは、膨大な蓄積である。
社会の現実を見て、さまざまなデータを集め、現実を上手く説明するための理論を形成する。しかし、改めて現実を見てみると、既存の理論では説明できない事象が発見される。それを新たにデータとして取り込み、理論を修正したり発展させたりして、新しい理論で現実を説明する。これを大規模かつ厳密に繰り返しているのが「学問」と呼ばれる営為である。
当然、学問には膨大なデータと理論が蓄積される。新たな研究とは、これらの蓄積をすべて参照したうえで、それでも説明できない現実が発見されたときに行われる。こうして、さらに学問が蓄積される。
この「学問」の基準に照らすなら、現在の中小企業研究は「学問」ではない。なぜなら、研究の蓄積が放棄されているからである。やはり数少ないまともな研究者のひとり、三井逸友 (1947-現在) は次のように語る。
これに加えて、インタビューの最後でも、三井逸友は「せっかく中小企業研究が100年近い歴史、戦後だけでも70年以上の歴史があるのだから、先行研究は一通り知っておいてもらいたい」と語っている。
彼はとても穏やかに諭しているが、先行研究を把握するというのは研究者に求められる最低限の課題であり、本来的には、これが欠けた人間は「研究者」として認められるはずがない。なぜなら、それこそが「学問」の要件だからである。学問が膨大な蓄積となるためには、先行研究の把握こそが第一の要件になるのだが、それを中小企業研究は満たしていない。
実際に、中小企業研究は「学問」の実態を失っている。学問としての中小企業研究の中核には「中小企業とは何か」という本質論的な問いがあるべきだが、それがもはや消失しているのである。そのような本質論的研究の最後の砦、黒瀬直宏 (1944-現在) は、次のように現状を批判する。
「中小企業論としてのアイデンティティ」は、中小企業研究の蓄積の積極的な活用にこそ求められるはずである。先行研究を共有資産として活用するからこそ「中小企業論」としての一貫性が生まれ、研究者間での議論も活発になるのだが、そのように研究活動が行われていない現在においては、研究者間での議論はほとんど生じていない。互いに批判し合うことによって理論を洗練させていくのが「学問」の本来的な営為だが、そのような活動がまったく見られないのが現在の中小企業研究である。
けだし、たとえ拡散しているとしても、中小企業の実態的な把握がなされていればそれで良いではないか、という再批判があるかもしれない。しかしながら、それすらも有効な批判にならない。渡辺幸男 (1948-現在) は、研究者に対して次のように呼びかける。
簡単に言えば、現在の研究者が把握しようとしているのは個別の中小企業であり、社会的カテゴリーとしての「中小企業」では決してないのである。黒瀬直宏の言う「経営的視点に立つ各論的な中小企業研究」は、業績回復や事業転換といった興味深い事例を紹介するだけで、「中小企業」とは何か、あるいは「中小企業」はどのような状況に置かれているかという問いには答えない。そのような経営論的な研究は、特異な事例に注目し、大多数の一般的な中小企業には焦点が当たらない。
しかし、大多数の一般的な中小企業こそが分析の対象にならなければいけないのである。渡辺幸男の「中小企業の実態にきちんと基づき〔…〕産業のダイナミズムを把握すべきである」という指摘は、このような文脈に基づいている。ほかの研究者たちにこの指摘が理解できたかどうかは疑問だが。
付言しておくなら、ここに挙げた3名の研究者、三井逸友、黒瀬直宏、渡辺幸男は、いずれも1940年代の生まれである。彼らは10年以上も前に大学を定年退職した世代である。このような世代の研究者が、口をそろえて同じような批判をしているという現実は、重く受け止められなければいけない。
中小企業研究の未来
私が中小企業研究を再興する。
そのために、私は主に二つの仕事をしなければならない。まず一つは、中小企業研究の膨大な蓄積を継承すること。そしてもう一つは、「中小企業」という社会的カテゴリーの実態を把握することである。
中小企業研究の蓄積を継承するためには、さまざまな学問分野に精通している必要がある。少なくとも理論的には、マルクス主義経済学、新古典派経済学、新制度派経済学、経営学、社会学、政策学あたりだろう。加えて、過去の研究の背景にある社会状況を理解している必要があるため、戦後日本を中心とする歴史社会学の知見は必須である。そして、私はこれらの知見に精通している。私は、中小企業研究の蓄積を独力で解読できる、きわめて稀な研究者である。
そして「中小企業」という社会的カテゴリーの実態を把握するためには、現実の中小企業を歩くことが必要である。そのためには、中小企業とのコネクションが求められるが、私はそちらもクリアしている。日本全国に広がる「マネジメント・ゲーム」のコミュニティを私は活用できる。おそらく中小企業の皆さんも私に協力してくれるだろう。
中小企業研究が果たすべき社会的責任はきわめて重大である。しかし、現在の中小企業研究は絶望的な状況にある。だとするならば、「きわめて稀な研究者」である私が動かなければいけない。もちろん、私だけの力ではどうにもならないが、それでも私が立ち上がらないことには始まらない。
以上、私の決意表明である。
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