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《書評》安田武彦[編著]『中小企業論』

前文

 この文章は、3週間前の私がSFC JOURNALに投稿しようと思って書いたものだけれど、心境が変わってnoteにアップすることにした。「批判しても仕方がない」というのは、この文章を書いた僕への忠告である以上に、僕が批判していた対象の心情なのだろう。

 ここ数ヶ月――あるいは数年――の私を捉えて離さなかったもの、それは「怒り」であった。何に対しての怒りだっただろうか。それを問うことに意義はない。怒りの対象を説明することほど無意味なことはない。「なぜなら怒りとは、あまりにも複雑な状況を単純化するための、手あたり次第の魔術的な試みでしかないからだ」(『サルトル全集』第34巻, p.45)。

否定性は、止揚の不可欠の一契機である。怒り、等々の否定性の感情は、人が今ある存在を実践的にのりこえ、変革してゆくときに不可欠の前提である。しかし、この怒り、等々の感情は、それがあまりにも直接的で、なまなましくわれわれをおそうとき、われわれの超越への意志を緊縛し、あらがいがたい強力をもって、われわれを内在性のうちにひき戻してしまう。情況に対していったん距離をおき、これを明晰に総体的に把握することを許さない。怒りはわれわれを、情況のたんなる否定性、同位対立者としての境位に呪縛してしまう。

見田宗介『まなざしの地獄:尽きなく生きることの社会学』p.66-67

 もちろん、『聖ジュネ』と『まなざしの地獄』は過去に読んでいた。にもかかわらず、私はN・Nになっていた。このことの記録として、以下の文章を公開する。テクストの次元における他者批判としてではなく、メタテクストの次元における自己批判として、書評を読んでいただきたい。



《書評》
『中小企業論:組織のライフサイクルとエコシステム』
(安田武彦[編著], 同友館, 2021年)


1. はじめに

 中小企業論は、社会学や経済学、経営学、政策学、地域論などを横断する「総合政策学」である。また、日本の雇用の約7割が中小企業によるものであり、経済社会の実態把握や政策立案の必要性を鑑みれば、中小企業論の社会的意義は極めて大きいと言える。しかし、総合政策学を掲げ、社会的意義の大きな研究のプラットフォームたるSFCにおいて、中小企業論はほとんど注目されていない。それ故にこそ、この場を借りて当該書を紹介しようと思い至った次第である。

 当該書は、大学生を念頭に置いた「中小企業論」の入門テキストとして2021年に出版されており、最新の部類に属する。また、編著者の安田氏は現時点で日本中小企業学会の理事であり、同理事の許氏と土屋氏、同幹事の鈴木氏も執筆陣として参加している。さらに、学会において当該書が批判されている様子はなく、実際に諸大学で教科書として使用され始めている状況である。これらの事情を踏まえると、当該書は学会動向を反映した表象としても解釈でき、評者はこの視角から書評を行うものとする。

 ただし、評者の当該書に対する立場は極めて批判的である。評者は当該書を薦めるためではなく、むしろその問題点を明確にし、さらには学会動向に警鐘を鳴らすことを目的として書評を行う。


2. 当該書の概略

 当該書の目次と執筆者は以下の通りである。

  • 第1章 中小企業をどう捉えていくか(安田武彦)

  • 第2章 中小企業の誕生(鈴木正明、土屋隆一郎、水村陽一)

  • 第3章 中小企業の発展・成長(村上義昭)

  • 第4章 中小企業の企業間連携・集積・クラスター(許伸江)

  • 第5章 中小企業の経営者引退と事業承継・廃業(安田武彦)

  • 第6章 中小企業のオーナー経営者の引退とM&A(杉浦慶一)

  • 第7章 中小企業の金融(鶴田大輔)

  • 第8章 中小企業政策(安田武彦)

 第1章では、中小企業をライフサイクルという視点から捉える、という当該書のコンセプトが提示される。企業のライフサイクルは、誕生期、成長期、衰亡期に区分され、それぞれのライフステージにおいて中小企業だからこそ直面する課題があるとされる。そのうえで、誕生期については第2章、成長期については第3章と第4章、衰亡期については第5章と第6章で、それぞれ扱われる。最後に、第7章と第8章では、中小企業のライフサイクル全体を取り巻く社会的基盤、すなわち金融と政策について説明される。


3. 当該書が批判されるべき点

3.1 中小企業論のテキストに求められる要素

 中小企業論の入門テキストに求められることは、中小企業論という学問的蓄積の紹介と、中小企業の実態の紹介である。もちろん、学問的蓄積と学問的対象の紹介は、あらゆる学問の教科書が果たすべき役割に他ならない。

 日本において、中小企業論はおよそ100年の歴史を持つ。時代とともに中小企業の社会的地位や経営状態は変化し、それに合わせて中小企業論も変化してきた。その歴史と学問的蓄積を踏まえることによって初めて、中小企業の実態を把握することができ、並びに中小企業論という社会的営為に参加することができる。これらは中小企業論の入門テキストに求められる最低限の要素だと言えよう。

 しかし当該書では、「中小企業論」というタイトルとは裏腹に、学問的蓄積と中小企業の実態がほとんど紹介されない。字数の制約のため、ここでは中小企業の存立基盤と社会的地位という二点に絞って批判するが、いずれも中小企業論のテキストとしては致命的な欠陥である。

3.2 中小企業の存立基盤について

 当該書の第1章「中小企業をどう捉えていくか」で、編著者の安田氏は、日本経済における中小企業の存在感の大きさを指摘し、「群としての中小企業の安定的な存立基盤とは何であろうか」(p. 13)という問いを提起する。これに対して安田氏は、企業規模が小さいことそのものが大企業にはない独自の強みであり、具体的には「ニッチ市場への適応」と「経営の機動性」が中小企業の存立基盤であると答えている。

 しかし、この回答は現実に即しておらず、中小企業論の学問的蓄積をも無視している。中小企業の存立基盤は第一に低賃金労働であり、先駆的には有澤(1937)によって指摘されている。これは有澤に特異な議論ではなく、1980年までの中小企業論をレビューした瀧澤(1985)においても「低賃金労働が日本中小企業の主要な存立条件であるという見解」が支持されている。この論調は、地域間賃金格差や階級間年収格差が最小化する「一億総中流」の1970年代(橋本, 2009)には下火になるものの、1980年代以降にグローバリゼーションが進行していくと、日本製品の国際競争力の背景には中小企業や自営業における広範な低賃金労働があるという研究が増える(池田, 1982; 高田, 1989)。1990年代以降は中小企業の存立基盤が改めて問われなくなった印象を評者は持っているが、それが低賃金労働であることは現在に至るまで変わっていない(渡辺, 2022)。中小企業庁(2022, p. 71-72)は、大企業と中小企業の労働生産性に中央値ベースで2倍ほどの格差があることを指摘しているが、それでも中小企業が営業を続けられるのは労働力を相対的に低賃金で利用しているからである。なお、統計上の労働生産性の規模間差異が〈効率〉の問題か、それとも〈分配〉の問題かという論点には立ち入らない。

 このように、低賃金労働が中小企業の主要な存立基盤であることは、中小企業論では定説に属する知見であり、最新の経済統計に表れる労働生産性の企業規模別格差もそれを証明している。当該書で強調される「ニッチ市場への適応」という存立基盤も、中小企業が大企業の賃金水準では収益化が難しい市場へと追いやられているのが実情であり、低賃金労働を利用できるからこそニッチ市場に適応できているのである。

 しかし、当該書ではこれらが無視され、中小企業の労働生産性と賃金水準が大企業に比べて大幅に低いことが最後まで言及されないまま、独自の競争優位性を持つ社会的カテゴリーとして「中小企業」が説明される。これは学問的蓄積と現実社会の両方を冒涜しているだけでなく、読者に対して中小企業を優良誤認させる不誠実な書き方である。この点だけを見ても、当該書が教科書として相応しくないことは明白だろう。

3.3 中小企業の社会的地位について

 当該書では、中小企業や自営業の従属性が隠蔽されている。従属性という社会的地位は、低賃金労働という存立基盤と密接に関係しているため、低賃金労働の隠蔽によって従属性もまた隠蔽されることは当然であるが、やはり許されることではない。

 日本の中小企業論には100年ほどの歴史があり、現在に至るまで中小企業の従属性が問題視されてきた。たとえば、戦前の研究を総合した山中(1948)は、中小工業の本質を「隷属性」として定義し、大資本経営に対する従属性こそが「窮乏」や「低労賃」といった中小工業問題を生み出していると論じた。このような問題意識は、1970年代から1980年代にかけての日本経済の絶頂期には下火になるものの、有田(1997, p. 2)において「中小企業の経営がかりに内面的に合理的であったとしてもなおかつ外部的な作用によって経営問題が生じる」というように継承され、黒瀬(2022)の実証的研究においても1990年代以降の中小企業の従属性が改めて強調されている。このように、中小企業の実態と歴史的形成過程を語るうえでも、中小企業論の学問的蓄積を語るうえでも、中小企業の従属性に言及しないわけにはいかないのである。

 しかし当該書では、中小企業の社会的地位への言及が徹底的に避けられる。たとえば第2章「中小企業の誕生」を担当する鈴木氏は、起業の主要な動機が「望ましい働き方の実現」であることを示したうえで、「ただし、起業によって望む働き方が常に実現できるとは限らない。たとえば、欧州では『従属的な自営業主』 (dependent self-employment) の存在が問題視されている」(p. 37)と述べている。ここで自営業主の従属性は例外的な現象として言及されただけであり、また、日本では中小企業や自営業の従属性が問題視されたことがないかのように誤認させる記述である。このような書き方は、内容が誤りではないとしても、中小企業論の教科書としては不適切である。

 第3章「中小企業の発展・成長」を担当する村上氏は、コンビニエンスストア業界を、成長企業が新市場を創出した事例として高く評価する。ここで村上氏が注目しているのは、あくまでも本部の大企業とコンビニ市場の成長であり、フランチャイズ契約を締結した加盟店の側には一切言及がない。しかし、加盟店は独立した中小企業に他ならず、コンビニ業界の中小企業はきわめて従属的な存在である。向山(2022)が指摘するように、加盟店の経営は自営業主や家族従業者、アルバイトのハードワークによって成立している。中小企業論の教科書であれば、10兆円という市場規模の背景に、加盟店の従属性と低賃金労働があることにこそ言及するべきではないだろうか。

 第4章「中小企業の企業間連携・集積・クラスター」を担当する許氏は、中小企業の企業間関係のうち、従属性の生じない類型を選択的に説明する。そのため、企業の「垂直連携ネットワーク」という概念は紹介されるものの、藤田(1965)や渡辺(1997)に代表される下請制論の学問的蓄積は一切紹介されず、建設業や製造業における中小零細経営の従属性は無視される。たしかに企業間連携に生産性向上の効果があることや、産業集積にイノベーションを促す効果があることは事実だろうが、企業間関係のポジティブな側面のみが論じられることには首肯できない。また、許氏は日本における産業集積の類型として「企業城下町型集積」や「産地型集積」を紹介しているが、そのような産業集積の実態は中小企業が従属的な地位を強いられていた空間であった(高田, 1989)。この第4章は、当該書において企業間関係が本格的に論じられる唯一の部分であるからこそ、許氏がポジティブな企業間関係の記述に終始し、中小企業が現実的に直面するネガティブな企業間関係が言及されないことは、少なくとも教科書としては欠陥であると言わざるを得ない。


4. 当該書は何を論じているのか

 前節では、当該書を、中小企業論の教科書として書かれるべき内容が書かれていないと批判した。当該書は、中小企業の実態を紹介せず、中小企業の実態と対峙してきた中小企業論の学問的蓄積を紹介していない。それでは、当該書は何を論じているのだろうか。

 端的に言えば、当該書は、いまだ/すでに中小企業ではないものを論じている。具体的には、中小企業が誕生するプロセスや、中小企業が大企業へと成長するプロセス、あるいは中小企業が経済から退出するプロセスである。

 まず第2章では「起業」に焦点が当てられ、起業することの社会的意義は何か、いかにして人間は「起業家」になるのか、なぜ国家によって開業率に差異があるのか、なぜ日本の開業率は低迷しているのか、起業家はどのような課題に直面するか、といった内容が説明される。続いて第3章では「成長」に焦点が当てられ、成長企業の社会的意義は何か、いかにして企業は成長するのか、成長企業はどのような課題に直面するか、といった内容が説明される。ここで楽天やトヨタなどの大企業が事例として言及されていることからも、執筆陣が中小企業そのものに関心を抱いていないことが分かる。そして第5章では「廃業」や「倒産」に焦点が当てられ、中小企業の後継者問題や、廃業の実態の多様性、倒産後の経営者はどうなるか、といったことが説明される。

 このように、当該書では中小企業そのものには焦点が当たらない。編著者の安田氏は、これを「ライフサイクルの視点から議論を進めている」(p. iii)と正当化するが、それならばタイトルを「中小企業のライフサイクル」にするべきであり、「中小企業論」というタイトルは断じて許されない。中小企業論とは、およそ1世紀にわたって中小企業の実態と対峙してきた学問的蓄積であり、それを無下にする当該書に「中小企業論」を掲げる資格はない。


5. おわりに

 繰り返しになるが、当該書の編著者は日本中小企業学会の理事であり、その他に複数名の理事や幹事が執筆陣として参加している。学会の存在意義のひとつは学問的蓄積の継承であるはずだが、執筆陣はそれを全く果たしておらず、当該書が学会で批判されている様子もない。当該書が学会動向を反映した表象であるとするならば、これは学会が機能不全に陥っていることを意味するのではないか。

 中小企業論の社会的意義が大きいからこそ、その教科書は未来の研究者たちが学問的蓄積を継承するための最善の手段であるべきだと評者は考える。


参考文献

  1. 有澤廣巳(1937)『日本工業統制論』有斐閣.

  2. 有田辰男(1997)『中小企業論:理論・歴史・政策』新評論.

  3. 池田正孝(1982)「電子部品工業の下請企業再編成」日本中小企業学会編『国際化と地域中小企業』同友館.

  4. 黒瀬直宏(2022)「戦後日本の中小企業問題の推移」渡辺幸男、他『21世紀中小企業論[第4版]:多様性と可能性を探る』有斐閣.

  5. 瀧澤菊太郎(1985)「「本質論」的研究」中小企業大学校・中小企業事業団・中小企業研究所編『日本の中小企業研究 第一巻:成果と課題』有斐閣.

  6. 高田亮爾(1989)『現代中小企業の構造分析:雇用変動と新たな二重構造』新評論.

  7. 中小企業庁(2022)『中小企業白書小規模企業白書:2022年版 (上)』日経印刷.

  8. 橋本健二(2009)『「格差」の戦後史:階級社会 日本の履歴書』河出書房新社.

  9. 藤田敬三(1965)『日本産業構造と中小企業:下請制工業を中心にして』岩波書店.

  10. 向山雅夫(2022)「中小商業経営と商人性」渡辺幸男、他『21世紀中小企業論[第4版]:多様性と可能性を探る』有斐閣.

  11. 安田武彦編著(2021)『中小企業論:組織のライフサイクルとエコシステム』同友館.

  12. 山中篤太郎(1948)『中小工業の本質と展開』有斐閣.

  13. 渡辺幸男(1997)『日本機械工業の社会的分業構造:階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣.

  14. 渡辺幸男(2022)「中小企業で働くこと」渡辺幸男、他『21世紀中小企業論[第4版]:多様性と可能性を探る』有斐閣.



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