「教育対策」の誕生(前編)
※2020年度と2021度の2年間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』のバックナンバーから厳選した100本の掲載文(コラム)を転載してきましたが、2022年度からは『ごかいの部屋』掲載文にかぎらず過去に書いた文章を毎月1~2本、時系列に転載することによって私の自称 “体験的不登校・ひきこもり論” の進展をたどりながら理解と対応の参考にしていただけるよう進めています(執筆時から年数が経っていることで修正する場合があります)。
※2022年度からは「原則として2年前までの文章を転載する」という方針で更新しており『ごかいの部屋』掲載文にかぎらず30年余り前の文章から選んで時系列に転載を進めてきました。ただ、先月と今月はグッと遡って、21年前の3月に配信した創刊間もない『ごかいの部屋』の掲載文を2本転載。拙著『不登校・ひきこもりが終わるとき』には収録しなかった、ひきこもり時代の記憶が鮮明だったため詳しく書いたほうの体験記の一部転載は、心理への理解を深めていただけるうえ自分自身にとっても記憶を整理し直すのに役立ちます。
※今月は、当時連載していた『ひきこもりを7年かけて卒業した男の話』という6回シリーズの第4回を転載します。先月の続きになりますので、先月分をお読みでない方はそちらを先にお読みください。
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絶望のどん底へ
前回お話しした構想を進めていた頃、高校時代の同級生が児童養護施設の保育士に転職したことを知り、私は興味を抱いて、初めて福祉業界のことを調べて驚きました。教員免許を持ち、大学で教育学を専攻した自分が、児童福祉施設職員の有資格者だったことがわかったからです(転載者注:現在は社会福祉士などの資格が必須だが当時の応募要件は緩かった)。
「この分野こそ自分の求めていた職業だ」と感じた私は、児童福祉施設に加えて、当時増加の一途をたどっていたサポート校(通信制高校の全日制補習塾)など、子ども関係の職場に就職したいという思いがフツフツとわき上がり、就職活動を始めました。
施設の見学や受験、サポート校教員などへの受験を通じ、福祉の現場や民間教育機関などへの見聞が、急速に広まりました。
しかし、ここでさまざまな障害にぶつかりました。
まず、年齢の壁。当時30才を越えていた私は、希望の受験先の年齢制限に引っかかることがよくありました。
次に、履歴書の空白。このことには、同じ状態の誰もがぶつかっていると思います。
さらに、仕事をしている他人との比較。就職活動を始めたとたんに、前述の同級生のような、燃えながら、悩みながら仕事をしている人々への負い目や嫉妬心に苦しむようになってしまったのです。
このような障害は、ここまで来た以上、どうあがいても取り返しがつかないことです。私は、わかっていたものの、やはり社会の現実の厳しさと、仕事をしていない自分の無価値ぶりを痛感し、強烈な不安と焦りと劣等感と後悔の念に、押しつぶされそうになっていきました。
毎月通っていたスクールソーシャルワーク研究会にも、最近知って毎週通っていた自助グループ「EA(感情面で新しい生き方をしようとする人の集まり)」にも、つらさの余り行かれなくなりました。
それほどの精神的苦痛のために “死への誘惑” にかられるようにもなってきました。自殺を試みることはありませんでしたが、死ぬことがとても身近に感じられるのです。
このような苦しみのなか、結局就職活動は足かけ3年にも及び、受験したすべての希望先に不合格という結果に終わりました。
ひきこもりに終止符を打つべく就職を模索したのに、すでに手遅れだったという思いが、自分が存在価値のない人間だという絶望感に、私を突き落としました。
それはまさに「万策尽き果てた」という感覚でした。
「自分の力でできることはもう何もない。」
「今まで親に対して怒ってたことに何の意味があるのか。」
「自分はほかの誰よりも劣っている。」
「誰にも認められずに生きて、死んでも誰にも悲しまれない時期が、そのうち来るんだろうな。」
今となってははっきり思い出せませんが、こんな思いが、頭のなかをぐるぐる巡っていたように記憶しています。
自分の人生に絶望していました。
<後編に続く>