自己紹介❷ 〜アメリカ駐在前期〜
前回自己紹介❶の記事で「楽しかった最初の駐在同行と帰国後の辛すぎた子育て」について書いてきました。
記事はこちらから。
今回は続くアメリカ駐在同行生活の前半について振り返ってみたいと思います。
アメリカ生活前期
〜第2の暗黒期〜
夫と当時2歳過ぎだった娘と私でのアメリカ生活が始まりました。
当初3年程度の任期と言われていたので、
娘の小学校入学くらいのタイミングで日本にまだ戻ってくる心積もりで来米。
既に仕事を辞めていた私は娘と2人だけで日本に残る理由もなく、
夫の辞令が出て2ヶ月後には家族3人でアメリカに引っ越していました。
ですが、家もなく、当然娘の学校も決まっておらず、
日本から送った船便の荷物も届いていません。
まさに「ないない尽くし」
海外引っ越しは2回目で当然予想されたことではあったのですが、
夫婦2人だけだった前回と比較し、
まだ幼い娘も一緒の新生活立ち上げのハードさは予想以上でした。
時期的になかなか空室も少なく、
良い条件の物件がマーケットに出ても
即決まってしまいます。
(後から知ったのですが、ちょうど大学卒業シーズンで新卒の人たちが数人でシェアする物件を探すタイミングと重なっていた。しかも彼らは内見はせずに条件と場所くらいで決めるらしい。)
そんな感じで家探しは難航。
幸いとても理解がある夫の上司が
「家探しを含め、まずは仕事よりも新生活のセットアップに注力して」と
言ってくれていたので、夫も来米後即仕事、
みたいなことはありませんでした。
が、友人もいない慣れないアメリカで、
娘と2人、狭い最低限の設備のみのサービスアパートメントで
過ごす毎日。
偏食気味の娘はその時々のマイブームの食材以外は食べたがらない。
当時はカブとしめじばかり食べていて、
入手するためにほぼ毎日日系スーパーを巡っていました。
絵本が大好きな娘のために、
日本から可能な限りの絵本は持参したのですが、
すぐに読みきってしまい、
図書館を回って日本語の絵本を探す毎日。
来る日も来る日も近くの公園でブランコに乗りたがる娘を延々と押す日々。
今も鮮明にその時のしんどさや
先が見えない不安な気持ちを覚えています。
その頃は毎晩帰宅してきた夫に
「明日も同じような辛い1日だったら、日本へ帰る飛行機のチケット取るから‼︎」と気持ちをぶつけていました。
「わかった。じゃあひとまずもう1日だけ様子見てくれるかな。」と
返される、という押し問答を繰り返す毎日。
母国である日本でさえしんどさを感じていた子育て。
場所を変えたからと言ってそう簡単に好転するはずもありません。
そして当時は「母親は子どものために自己犠牲するのが当たり前。
まずは新環境で不安になっている娘のケアが最優先。」と思っていました。
その考えが自分をより追い詰めていたことには気付いていませんでした。
そんなアメリカ生活のスタートでしたが
人間は慣れる生き物です。
少しずつ友人ができたり
子どもがプリスクールに週3で通い始めたり
積極的に出かけるようにしたり
を少しずつ積み重ねていくうちに
段々と楽しく思うことも増えてきました。
そんな矢先、未曾有の大混乱に陥ったのです。
次回は『コロナ禍でロックダウン〜文字通り家族4人缶詰生活〜』
について書いてみようと思います。