人生という名のフルスイング①
第1章:新しい街での出会い
小学1年生のある日、父親がぽつりとこう言った。「来年、山梨から神奈川に引っ越すことになった」。ぼくは転校を告げられても、それほど驚かなかった。もともと幼い頃から父の転勤が多く、保育園だけで三つも通ったくらいだから、「またか」という気持ちが強かったのかもしれない。ただ少し、富士山が見えなくなることが心残りではあった。けれど、ぼくは小さく「わかった」とだけ答えた。
神奈川の新しい学校は最初こそ少しばかり緊張したが、ほどなくしてぼくは野球と出会った。まるで運命のようなものだと今でも思っている。放課後の校庭で、はじめてバットにボールが当たった時の感触を今でも鮮明に覚えている。家に帰るとすぐに壁当てをし、素振りをし、新聞紙を丸めたボールを紐で物干し台に吊るしては、繰り返し打ち込んだ。ぼくはとにかく野球に夢中だった。
小学5年生のある日、友だちとホタルを捕りに行こうと自転車で山に向かっていると、下り坂でバランスを崩して転倒し、頭を5針縫う怪我と右手首の骨折をしてしまった。同行していた友だちへの申し訳なさと、少年野球チームへの謝罪の気持ちで胸がいっぱいだったのを覚えている。
小学6年生になる頃には、「エースで4番」の座を手にしていた。肩に違和感を覚えた時も、「これくらい乗り越えられるさ」と高をくくっていた。それがすべての始まりだとは思いもしなかった。中学への進学を前に、肩が上がらなくなり、ぼくは親に言われるがままに港湾病院を訪れた。診断は「投げ過ぎ。中学でピッチャーは無理です」というものだった。あれほど夢中になっていた野球が、ぼくからどんどん遠ざかっていく気がして、胸が締めつけられるようだった。
第2章:新しい場所、大阪へ
中学に進学しても、肩の痛みは消えなかった。友人に誘われて入ったのは陸上部だった。足腰を鍛え直すつもりで、何も考えずに長距離走を選んだが、これがまた大変な毎日の始まりだった。200メートルを10周、さらにペースを上げてのビルドアップ走。息が上がり、体は重く、ただ苦しいだけだった。走る時はいつも顔が真っ赤になっていたらしいが、そんな姿を恥ずかしく思う余裕さえなかった。
それでも中学2年の秋、突然、先輩たちの走りについていけるようになった。体が軽くなり、ビルドアップの30周も難なく走れるようになった。仲間の苦しそうな顔を横目に、ぼくは「まだいける」と確信した。中学生の駅伝レースで小さな区大会の区間賞を取り、マラソン大会でも3位に入った。楽しくなってきた頃だった。父がまた転勤を告げた。「今度は大阪だ」。
転校には慣れていたはずのぼくだったが、お別れのとき、陸上部の友人たちが見送りに来てくれた時はさすがに寂しかった。
大阪の学校で最も印象的だったのは、関西弁だった。「なんでやねん!」と飛んでくる突っ込みに、「大阪に来たんだなぁ」と実感したものだ。ある日、友だちと二人乗りをしていたら、見知らぬお兄さんが自転車を止め、「メンチきっとんのか」と、例のフレーズで絡んできた。こんなにも文化が違うのかと、なんだか愉快になった。そうして気づけば、ぼくはいつの間にか関東弁を話すのが少し恥ずかしくなっていた。
やがて高校に進み、ぼくは再びバットを握ることにした。「今度こそ」という気持ちだった。
第3章:夢の挫折と浪人生活
朝が来ればバットを振り、夕方にはボールを追い、夜が来てもそれは変わらなかった。放課後のグラウンドの隅で、僕たちはいつもひたすら練習に励んでいた。その頃、僕にとっての世界は極端な話、野球の打球音と、湿ったグラウンドの匂い、そして沈む夕陽で成り立っていた。だが、高校1年の春頃に、ある出来事が僕の「世界」に微妙な歪みをもたらしたのだ。
ある日の昼休み、僕は友人と肩車で廊下を歩いていた。自分でもなぜ肩車をしていたのかはよく覚えていない。ただ、ほんの冗談みたいなことだったはずだ。ふと視線を上げると、廊下の天井に点検口が見えた。点検口の中がどんな風になっているのか、ほんの少し気になったのだ。それは本当に些細な疑問だった。友人と顔を見合わせ、笑いながら、僕は彼の肩に乗ったまま点検口を開け、中に頭を突っ込んでみた。中には何もない、ただの空間が広がっていた。
けれどもその空間に僕が入り込んでから、わずか3秒ほど経った時だった。僕の体重に耐えきれなくなった天井が突然崩れ、下には廊下が見える。それからの数秒間、どうやって廊下に落ちてきたのか、僕にはよく覚えがない。ただ気づいた時には、廊下に立っていた何人もの生徒が僕を指さし、腹を抱えて笑っていた。学校中の生徒の笑い声が、廊下に響き渡っていた。
天井に大きな穴をあけてしまった後、僕は担任の先生に謝りに行った。先生は最初、僕の顔をじっと見つめ、それから静かにため息をついた。それは長く、そして重いため息で、僕には何も言葉を返すことができなかった。
「とにかく、授業に戻りなさい」と彼は言った。その言葉が一種の決定的な判決のように響き、僕は少しうなだれながら「はい」とだけ答えた。そうして教室に向かう廊下を歩き始めた頃には、時刻は既に5限目に差し掛かっていた。
教室のドアを開けた時、教室の空気が一瞬にして僕を見た。皆の視線が、一斉に僕に注がれる。何か重大な告白でもするかのように僕は静かに歩を進めた。だが、次の瞬間、教室全体が再び爆笑の渦に包まれた。クスクスと控えめな笑い声から始まり、次第に大きくなり、やがて部屋全体を埋め尽くすほどの笑い声になった。まるで、僕がどこかのコメディ番組の主人公にでもなったようだった。
その時の気恥ずかしさと、何とも言えない妙な心地が同時に僕の中を駆け巡ったが、僕はただぼんやりと席に座ることしかできなかった。なぜ人はあんなにも笑ってしまうのだろうか。そんなことを、漠然と考えながらぼんやりと窓の外を眺めていた。
今にして思えば、あれはひどく愉快で、それでいてちょっと切ない、そんな瞬間だったのかもしれない。
その夜、僕は静かに自分の行動の代償について考えてみた。僕があけた穴は、確実に「埋めるべきもの」だった。それで僕は高校1年から新聞配達を始めたのだ。早朝に新聞を配り、配達の道中で頭を空っぽにしながらお金を少しずつ貯めるという作業は、案外僕には合っていた。そしてその配達の日々は、気がつけば僕の心のどこかの「穴」をも埋め始めていたように思う。
高校3年生の進路相談で、ぼくは「教師になりたい」と宣言した。自分の経験を生かし、悩む学生を支える存在になりたい、そんな思いがあった。しかし、現実は厳しかった。受験勉強は予想以上に難しく、あっという間に浪人生活に突入した。1年、そして2年と経過し、気づけば高校時代から付き合っていた彼女が専門学校を卒業して社会に出る頃、ぼくはまだ合格を勝ち取れずにいた。
3浪目に突入したとき、ようやく諦めが胸をよぎり、「どうしても教師になれないのなら、せめて大学に行こう」と教育学部を諦め、私立大学に進学することを決意した。
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