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40年前の看護学生の体験記

 今の看護師にも 共感されない実態 私は今 看護師として働いている。


 40年前は、看護学生として、病院の寮に入り同期6人と働きながら勉強していた。


 当時学生は看護学校に入れる代わりに病院に行った年数を [お礼奉公する] と言うシステムが常態化していた。


 私に振り分けられた仕事は、救急対応で とにかく言われた事を 「たやすく」覚えてしまう(使い勝手の良いやつ)絶対法律には引っかかるでしょう(免許持ってない頃)


 電話が 受付からかかってくる「何分にどんな患者が来ます」と伝達され レントゲンの起動、採血機械の起動、医師に連絡 来たらバイタルを測り、指示に従い検査人員を呼ぶ。(ほぼ毎晩続く)


 オペが決定したら、看護師に伝え オペナースを呼び、来る間までに 手術準備をする。
(今は、学生の仕事じゃないよ。)と言いたいが、当時は淡々とやっていた。(無知は恐ろしい)時に切断などの手術もあった。


 勿論、授業中寝ていた。唯一の 睡眠時間だったから。
 オペで学べるのは 解剖学くらい?「看護とは」の講義に全然刺さらなかった。(学校の先生方は同情してくれていたと思う)


 このような生活だから、夜はずっと救急体制で働いていた。(今は体を壊すレベル)
また、学生はそれぞれ病棟に振り分けられていて、朝の仕事に追われる。今で言う環境整備と雑用


 私の朝の仕事は、採血業務だった。沢山採血があり、採れない人は他の人にやってもらう みたいな内容だった。(通学前の朝活の話)


 学業のテストには、同期が変わる変わる 教えてくれて、ギリギリの点数で看護師になった。


 24時間拘束されているため、遊びに行く為には「監督医師」に事前申請して行かねばならない。(遊びに行ってもまったく楽しくない)


 3年目に遂にストレス(当時は分からなかったが)がマックスになり、体調が壊れた。  


 親に電話して、かなり体調が悪く、仕事の内容が おかしい事がわかってもらった。


 地元の有力な人が 私の状況をしり、労働が荷重で、お礼奉公の期間を考慮せず辞める事を事務長に説得し、呆気なく辞めるに至った。月額5万円で働いてたのも驚きだ。


 多分かなりの疲労が 自分自身 わかってなくて、幻聴やら 身体の不調に寝込む程だった 学生監督の医師夫婦は目を背けていた。


 明らかに使い捨ての様に扱っていた事に気づいていなかっただろう。家族経営だからなのか?


 実家に戻り、休養した。有給消化して退職になるとか、退職金とか 事務長が今までしなかった、当たり前の措置を初めて実効したらしい。


 今で言う「うつ状態」だったと思う。フルスロットルで働いてた事を 同期が教えてくれた。休むって大事だ。


 勿論 携帯やパソコンの無い時代 本当に自分を守る事が 困難だったなぁ!と感じる。 


 客観的に見て 「話を聞いてくれる第三者がいなければ、異常さがわからなかった。」と感じる。


 私のエピソードであって、周りが全てそうではない と付け加えておきたい。



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淺野 lightsdew
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