美技の双璧


 翔太は昔から格闘技が好きだった。幼い頃、テレビで観た総合格闘技の試合に魅了され、小学生の頃には空手を習い始めた。中学に上がると柔道にも興味を持ち、部活に入って基礎を学んだ。高校ではボクシングをかじり、大学では趣味としてキックボクシングのジムに通い始める。

 だが、翔太にとって単なる技術習得以上に、格闘技の「魅せる部分」に惹かれる気持ちが強かった。勝ち負けだけではなく、技の美しさ、戦いの駆け引き、そして観客を熱狂させるパフォーマンス。そうした要素をすべて備えているのが、彼にとっての「女子プロレス」だった。

 最初はなんとなく動画を見ていただけだったが、次第に試合の奥深さに気づき、次々と名勝負を漁るようになった。特に翔太が夢中になったのは、「美技の双璧」と呼ばれる女子プロレスのタッグチーム――美咲と玲奈の存在だった。

 美咲はスピードとテクニックを武器にする選手で、関節技や締め技を得意としている。試合中はクールな表情を崩さず、鮮やかなムーブで相手を翻弄する姿が印象的だった。一方の玲奈は、華やかな見た目とは裏腹に、強烈な打撃とパワフルな投げ技を得意とするファイタータイプ。試合中に見せる挑発的な笑みと、相手を圧倒するフィジカルの強さが特徴的だった。

 2人のタッグマッチは、まるで舞台のように計算された美しさがあり、彼女たちの技を浴びる相手すらも魅せられているように感じた。翔太は試合のたびに彼女たちの実力に驚かされ、すっかりファンになっていた。

 そんな翔太の休日の過ごし方は決まっていた。ジムでのトレーニングを終えた後は、自宅でプロレスの動画をチェックする。時には試合の技を真似しようと、自分でフォームを研究したり、シャドーレスリングをしてみたりすることもあった。

「首4の字固めって、こうやって…いや、実際にかけられたらもっと苦しいんだろうな」

 そう呟きながらスマホの画面を見つめていたその日、翔太はある告知を目にすることになる――美咲と玲奈による、ファン向けの特別イベントの情報だった。

翔太は、いつものように仕事を終えると、ジムに向かった。格闘技が趣味とはいえ、本格的なプロを目指しているわけではなく、週に数回、トレーニングをして汗を流すのが習慣になっていた。

 ジムでは軽くミット打ちをこなし、サンドバッグを蹴りながらフォームの確認をする。最近は女子プロレスの技にも興味が湧いており、時々寝技の練習も取り入れるようになっていた。

(プロレスの技って、格闘技の技術と通じる部分も多いよな)

 関節技や絞め技は柔道や柔術にも通じるし、打撃や投げ技の要素も取り入れられている。女子プロレスを観るほどに、その奥深さを実感し、いつか実際に技を体験してみたいという気持ちが芽生えていた。

 トレーニングを終え、シャワーを浴びてジムを出ると、翔太はスマホを取り出してSNSをチェックした。すると、女子プロレス団体の公式アカウントが投稿した最新情報が目に飛び込んできた。

『美咲&玲奈のスペシャルイベント開催決定! 直接指導&エキシビションマッチ!』

 その文字を見た瞬間、翔太の心臓が高鳴った。

「えっ、マジか…!? 直接指導って、つまり実際に技をかけてもらえるってことだよな…?」

 詳細を確認すると、イベントはファン向けの公開スパーリングとミニ試合を含むもので、参加者の中から希望者がいれば、美咲や玲奈とエキシビションマッチを行うことができるという。

(こんなチャンス、滅多にない…!)

 翔太は迷うことなく申し込みページへと進んだ。募集枠は限られており、応募者多数の場合は抽選になるようだ。とはいえ、応募しなければ始まらない。

 必要事項を入力し、申し込みを完了させると、翔太はスマホを握りしめたまま、興奮が収まらなかった。

「もし当選したら…美咲や玲奈とスパーリングできるってことだよな…? それどころか、彼女たちの技を実際にかけられる可能性も…?」

 想像しただけで、心が躍る。翔太は女子プロレスを観て楽しむだけでなく、その技の「本物」を知ることができるかもしれないのだ。

 その日から、翔太はイベントの当選結果が届く日を心待ちにしながら、より一層トレーニングに励むようになった。


 イベントの当選通知が届いたのは、申し込みをしてから数日後のことだった。

 仕事の休憩中、何気なくスマホの通知をチェックしていた翔太の目に、あるメールが飛び込んできた。

『【当選通知】美咲&玲奈 スペシャルイベント』

「…っ!」

 一瞬、心臓が止まるかと思った。指が震えそうになりながら、急いでメールを開く。

『おめでとうございます! たくさんのご応募の中から、あなたがイベント参加者に選ばれました! 当日は直接、美咲選手&玲奈選手の指導を受け、希望者はスパーリングに挑戦できます!』

「やった…!」

 思わず小さくガッツポーズをする。周囲に人がいたため、大声を出すのはこらえたが、内心では興奮が抑えられなかった。

(本当に、2人とスパーリングができるんだ…!)

 それから翔太は、イベント当日までの間、さらにトレーニングに打ち込んだ。プロレスのスパーリングとはいえ、相手はトップクラスのレスラー。無様な姿を晒したくはなかった。少しでも技を受け止められるように、打たれ強さを鍛え、受け身の練習も念入りにこなした。

 そして迎えたイベント当日。

 会場は都内の小規模なプロレスジムで、リングの周囲には観客席が設けられ、すでに多くのファンが集まっていた。翔太は受付を済ませると、控室で参加者用のウェアに着替え、軽くストレッチを始める。

 「おっ、君も参加者? なんか緊張するよな」

 同じく参加するらしい男性が話しかけてきた。翔太は「ですね」と笑いながら応じるが、内心では緊張よりも期待のほうが大きかった。

 しばらくして、スタッフの案内でリング前に移動すると、そこには今日の主役である美咲と玲奈の姿があった。

 「みんな、今日は来てくれてありがとう!」

 玲奈がマイクを握り、観客に向けて元気よく挨拶する。美咲も「今日は私たちがプロレスの楽しさをたっぷり教えてあげるから、楽しんでね」と微笑む。その表情はリングの上で見せるクールなものとは少し違い、どこか柔らかさを感じさせた。

 そして、いよいよイベントがスタート。最初は基本的な技のレクチャーが行われ、美咲と玲奈が参加者に対して関節技や投げ技の指導をしていく。翔太も実際に技を体験しながら、その精度の高さに改めて驚かされた。

 (やっぱりプロの技はすごい…こんなに力を入れなくても、完璧に決まるんだな)

 技のレクチャーが終わると、次はエキシビションマッチの時間になった。希望者の中から抽選で数名がリングに上がり、美咲や玲奈とスパーリングを行う。

「それじゃあ、最初の挑戦者を発表するね!」

 司会が封筒を開き、最初の名前を読み上げる。

「エキシビションマッチ、最初の挑戦者は……翔太さん!」

 一瞬、時間が止まったような感覚に襲われた。

 (俺だ…!)

 周囲から歓声が上がり、視線が集中する。翔太は深呼吸をし、意を決してリングへと足を踏み入れた。

 「よろしくね♪」

 玲奈がニヤリと笑いながら手を差し出し、美咲も「手加減はしないから、頑張ってね」と静かに微笑む。

 こうして翔太は、憧れの2人とのスパーリングに挑むことになった。


 翔太はリングの中央で構えた。肩の力を抜き、呼吸を整えながら、美咲と玲奈の動きをじっと見つめる。

 「さあ、来てみなさい。」

 玲奈が挑戦的に言うと、翔太は思わず気圧されそうになる。彼女の目には、確かな自信と余裕が宿っていた。翔太は深く息を吸い込み、動き出す。

 まず、間合いを取ることから始めた。基本的なジャブで距離を測りつつ、少しでも隙を見つけては攻撃を仕掛けようとする。しかし、玲奈はその動きですぐに反応し、スッと踏み込んで翔太のパンチを避けた。

 「遅いよ。」

 玲奈の足が翔太の体を捉え、腰をかけるようにしてスッと引き倒す。翔太は床に激しく背中を打ち付けられた。

 「うっ…!」

 次の瞬間、玲奈はすでに上から身を乗り出して翔太の体を押さえ込もうとしていた。だが翔太も反応が遅いわけではない。すぐに体を捻り、何とか両足で彼女を蹴り離し、素早く立ち上がった。

 「うわ、やっぱり速いな…。」

 でも、その瞬間に翔太は感じていた。玲奈はただ「速い」だけではない。彼女の動き一つ一つに、計算された間合いと反応速度が備わっている。攻撃を避けるにしても、相手のミスを誘うように誘導している。

 「もう少し、本気を出さなきゃいけないかな?」

 玲奈の言葉に少し焦りを感じた翔太は、今度は自分から仕掛けていく決心を固める。再び間合いを詰めるために前に出ると、今度は上段蹴りを放った。しかし、玲奈は一瞬でその蹴りを読み、下から上に跳躍しながら翔太の顔を狙っている。

 (やばい!)

 翔太がわずかに後ろに下がると、玲奈の膝が通り過ぎた。しかし、その反撃の予兆を察した翔太は、すぐに低い姿勢で再度仕掛ける。

 その時だった。美咲が翔太の視界に入った。彼女はほとんど動いていなかったが、その冷静な目がしっかりと翔太の動きを捕えていた。

 「いけると思った? 甘いよ。」

 美咲は一瞬で翔太の背後に回り込んだ。翔太が気づいたときには、すでに美咲の手が翔太の肩を掴んでいた。そのまま彼女は小さな動きで翔太の体をひねり、背後から強引に腰を押し込む。翔太は一瞬、完全に力を抜いて背中が床に倒れ込む。

 「うっ…! くそっ!」

 そのまま美咲は翔太の体を動かすことなく、彼を固定するように乗っかって、立ち上がった翔太の動きを封じる。

「速すぎる…。」

 その瞬間、翔太は完全にプロの実力の差を思い知らされた。美咲の動きは無駄がなく、無駄な力を使っていなかった。それに比べて自分の動きは、まだまだ粗さが目立ち、相手を引き込む隙を作ってしまっている。

 その後も、玲奈と美咲の攻撃が次々に翔太を圧倒していった。お互いに一歩も引かず、攻撃を仕掛けてくるが、その間合い、タイミング、反応の速さがまるで違った。

 翔太が一度、逆転のチャンスを狙って美咲に近づこうとすると、彼女は視線を一度交わし、無駄なく素早く一歩踏み込むと、翔太の腰に足を絡めてそのまま倒した。

 「くっ…!」

 その体勢ではほとんど動けない。美咲はわずかに体をねじるだけで、翔太の動きを完封する。すぐに立ち上がり、睨みつけるように翔太を見下ろす美咲。

 「まだまだだね。」

 その一言が、翔太の胸にズシリと重く響いた。プロのレスラーたちの技は、ただ強いだけではない。完璧なタイミング、精度、そして冷静さ――その全てが揃っていることを実感した瞬間だった。

 「これが、プロの実力か。」

 翔太はその時、ようやく心の中で納得した。自分にはまだまだ足りないものがある。その差を埋めるには、ただの努力では足りない。計算された動き、即座の判断力、そして冷静さ――全てを身につけることが必要だと痛感した。

翔太は倒れ込み、息を荒くしながら体を支えようと必死だった。彼はすでに二人の圧倒的な力に悩まされていたが、それでも何とか反撃のチャンスを掴みたい一心で体を動かす。

「どうしたの、翔太くん? まだ動けるつもり?」

玲奈が冷ややかな視線を向け、再び翔太の体を引き寄せようとする。美咲はその間隙を突いて、翔太の後ろに回り込んでいた。

「まだ、動けると思ってるなら、試してみて。」

美咲の言葉に、翔太は反応し、立ち上がることを試みた。しかし、玲奈がすぐに彼の足元を取り、その足を絡めてきた。翔太はバランスを崩し、倒れそうになったが、なんとか踏ん張ろうとする。

その瞬間、美咲がすばやく翔太の背後に回り込む。そして、彼の首を素早く引き寄せ、首4の字固めを仕掛けた。翔太はその感覚を一瞬で感じ取り、首が締められるのを感じた。

「うっ…!」

翔太は息を詰めながらも反撃しようと足をばたつかせるが、玲奈がさらに足を絡め、翔太の両脚をしっかりと抑え込んでしまう。足4の字固めだ。玲奈の脚が翔太の足を素早く交差させ、彼の動きを完全に封じ込める。

「どう? もう動けないでしょ?」

玲奈は冷静に言い放ち、翔太の脚にさらに圧力を加える。その瞬間、翔太の体は完全に支配された。首と脚、両方に圧力がかかり、自由を奪われた翔太は、苦しそうに息を吐く。

「痛い…!」

美咲はそのまま体重をかけて翔太の首を締め上げ、玲奈は足元を固め、翔太は完全に動けなくなった。体を動かすことさえできず、痛みだけが彼を支配していく。

「まだだよ、翔太くん。」

美咲が冷ややかに言いながら、さらに首を締め上げる。翔太は必死でその力に耐えようとするが、次第に視界がぼやけ、体が言うことを聞かなくなる。息も苦しく、もはや逃げ道はない。

その時、玲奈がさらに翔太の足を引き寄せ、足4の字固めの体勢をさらに強化した。足を交差させる角度を変え、脚に強烈な締め付けを加えていく。翔太の太ももに走る痛みは、もはや耐えられる限界を超えていた。

「ギ、ギブアップ…!」

翔太はついにその言葉を発するしかなかった。彼の体は完全に二人の力に支配され、もう何もできなかった。

玲奈と美咲は、翔太の体を軽く押し戻して、静かに立ち上がる。それぞれが、翔太の動きを完全に封じ込めたその瞬間に満足げに微笑む。

「どうだった、翔太くん? これがプロの力よ。」

玲奈が余裕を見せながら言い、続けて美咲も言葉を続ける。

「力だけじゃなくて、どんなに逃げようとしても、相手の動きを読んで封じ込めることが大切なんだよ。」

翔太は息を整えながら、二人の技に圧倒された自分を痛感した。彼の体力は完全に奪われ、二人の完璧な連携技に対抗する術がなかった。

「次はもっと、戦えるようになりたい。」

翔太はその思いを胸に、次の挑戦へと意識を向けるのだった。

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