変わらぬものはない(全訳)
アチャン・チャー
私たちは、師匠から教えを聞いても、よく理解できないことがあります。その場合、自分の考えと異なるという理由で納得がいかないことが多いのですが、本当は師匠が教えることには、すべて理由があるのです。信じられないかもしれませんが、これは本当のことです。私も修行を始めたばかりの頃、座る瞑想に何の効果があるのか、理解できませんでした。ただ目を閉じて、座っていることに何の意味があるのかわからなかったのです。歩く瞑想についても同じです。この木から向こうの木まで、同じ場所をゆっくりと歩いて、行ったり来たり。
「こんなことに何の意味があるんだ?」
といつも思っていました。でも、今なら分かります。歩く瞑想と座る瞑想は、とても効果のある瞑想法なのです。
人によって、歩く瞑想が好きな人、座る瞑想が好きな人がいますが、どちらが欠けてもいけません。経典には、立つ、歩く、座る、横になるという4つの姿勢で瞑想をするよう説かれています。私たちの生活は、この4つの姿勢で成り立っています。ですから、自分の好みは脇に置いておいて、4つのすべての姿勢において、瞑想実践をしなければなりません。
経典には「4つの姿勢で均等に実践するように」と説かれています。私は最初に経典を読んだとき、この「均等に」という意味がよくわかりませんでした。横になった姿勢の瞑想を2時間やり、立った姿勢の瞑想を2時間やり、歩く瞑想を2時間やり……ということなのだろうか? と思ったわけです。そう考えて、自分でも実践してみましたが、うまくいきませんでした。そのやり方は、不可能だったのです。経典に書かれていたのは、4つの姿勢で均等な時間、実践をするという意味ではありませんでした。「均等に」というのは私たちの心、言い換えるなら気づき(サティ)のことを指して言っていたのです。気づき(サティ)の力によって、心を照らし、智慧(パンニャ)を育てなければなりません。どのような姿勢のときであろうと、智慧は必要です。ですから、私たちは常に気づいて(サティ)いる必要があるのです。気づきがあれば、立つ、歩く、座る、横になる、それぞれの時にいつでも、私たちの心の状態は無常(アニッチャ)、不満足(ドゥッカ)、無我(アナッター)なものだということがわかるでしょう。これが「均等に実践する」ということです。これなら、実践は可能です。ですから、どの姿勢でおこなう瞑想が好きだなどと選り好みせずに、常に気づき(サティ)を忘れないようにしてください。
常に心に気づき(サティ)を保ち続けていれば、修行の勘所が分かってきます。世間でよいとされる経験をしても、悪いとされる経験をしても、我を忘れることはなくなります。よい出来事や悪い出来事によって、自分を見失うことがなくなるのです。ただひたすら真っすぐに、修行の道を歩むのです。常に気づき(サティ)を絶やさないことは可能です。淡々と修行を続けていれば、褒められようが、叱責されようが、それはただ、それだけのことです。気づき(サティ)のある人は、褒められようが、けなされようが、それに一喜一憂しません。なぜでしょうか? それは、そうしたことに反応してしまうことが危険であると、分かっているからです。褒められることも、けなされることも、どちらも危険であると、常に意識しておく必要があります。世間一般の人々は、機嫌のいいときは心も明るくなり、機嫌が悪くなれば心も暗くなりますが、これは瞑想実践者の在り方とは言えません。常に、気づき(サティ)を保つことが大事です。
自分の心の状態に気づいており、それに執着していることが分かっているのなら、それは修行が正しい方向に進んでいるということです。これは、今起きていることに気づいているが、まだ手放すことができていないという段階です。頭ではそれが正しい実践ではないと理解していても、よい状態に対して執着してしまい、手放すことができません。このときの瞑想実践の達成の度合いは、50%から70%といったところでしょう。まだ執着を手放せていませんが、手放すことが正しいことであると、理解はできています。好きなことも、嫌いなことも、賞賛も非難も、同じように有害な結果をもたらすものだと理解できるまで、観察を続けてください。何があろうと平静でいられるようになるまで、心を育てるのです。
世間の一般の人々は、責められたり批判されたりすると、すごく怒ります。けれども、反対に賞賛をされるとすごく喜びます。私たちが自分の心というものをよく理解し、賞賛や非難に執着することの結果や、何かに執着することの危険性を知れば、自分の心の動きに対して、より敏感になるでしょう。そうしたものに執着することは、苦しみを引き起こすだけです。苦しみ(ドゥッカ)をよく観察し、その苦しみの原因が執着にあることをよく理解してください。この段階に至れば、よいこと、悪いことの双方に執着しても、苦しみを生み出すだけだとわかってきているはずです。ですから、ここからは執着を手放す方法を探求していきましょう。
では、どうやって執着を手放せばよいのでしょうか? 仏教では「何事にも執着してはならない」と説きます。修行を通じて、この言葉を聞かない日はないくらいです。これは何かを「持たない」という意味ではなく、その対象に執着しない、ということです。ここにある懐中電灯を例に話してみましょう。私たちは何かを見つけると
「これは何だろう?」
と思いますよね。そこで手に取ってみて、
「あぁ、懐中電灯だな」
と分かったら、元に戻します。このように、私たちは物を持ちます。もし、何も持たなかったら、何ができるでしょうか。何も物を持たなかったら、歩く瞑想も、何もできません。ですから、まず初めに私たちは物を持ちます。確かに、物を持つことは欲につながります。ですが、それは同時に私たちを波羅蜜へと導くものでもあります。例えば、ジャガーロ長老は、ここワット・パー・ポンへとやってきました。そのとき、彼はまず最初に、ここへ来たいと思う必要があります。もし、彼がワット・パー・ポンへ来たいと思わなかったのなら、ここに来なかったでしょう。誰でも、何かを得たいと思って、ここワット・パー・ポンへと来ているのです。しかし、そのことによって、心の中に欲が生じたら、それを握りしめてはいけません。懐中電灯の例えを思い出してください。
「これは何だろう?」
と思って手に取ってみて、
「あぁ、懐中電灯だな」
と確認したら、それをそっと地面に置くのです。何か物を持つのは構いませんが、それを「握りしめる」のではなく「手放す」のです。私たちは対象をまず知って確認し、それから手放します。簡単に言うと「知ってから、手放す」ということです。観察してから、手放します。世間の人々はよく
「これは評判のいい品だ。これは、よくないと言われている品物だ」
などと話しています。そうではなく、私たちはまず対象を知って、その後、手放すのです。対象のよい点も、悪い点もすべて知って、それでいて執着することなく、それらを手放すのです。盲目的に執着するのではなく、智慧を備えて「持つ」。こうした態度で、修行に臨んでください。常に変わらぬ態度で、淡々と実践することが大事です。こうした心の状態を保つことによって、智慧が生じます。心に智慧が備わっているのなら、それ以外に何を求める必要があるというのでしょうか?
私たちは、自分がこの僧院になぜいるのか、省みる必要があります。何のためにここで暮らしているのか? 何のためにここで修行をしているのか、考える必要があります。世間では食べていくための収入を得るために働いている人がほとんどですが、比丘の在り方はそれとは少し異なります。比丘は、何かをしても、その対価を求めません。私たちは、何の報酬も求めずに働くのです。世間の人々は、あれが欲しい、これが欲しい、何か利益を得たいという理由で働きますが、ブッダは私たちに、ただ働くためだけに働き、何の見返りも求めてはならないと説きました。見返りを求めて何かをすれば、それは苦しみの原因になります。自分自身で試してみてください。心を穏やかにするために、座って瞑想をしようとすると、苦しむことになりますよ。実際にやってみれば、分かります。仏教の修行法とは、もっと洗練されたものです。仏教では、何かをしたら、その後、手放します。やっては手放し、やっては手放すということの繰り返しです。
生贄を捧げる儀式をおこなうバラモンを見てください。彼らは欲望からそうした行いをしているので、その儀式は苦しみ(ドゥッカ)を超越する助けとはならないでしょう。修行を始めたばかりの頃は、何か心の中に欲を持って実践をするものです。ですが、いくら修行を続けても、そうした欲が満たされることはありません。ですから、私たちは、見返りを求めない実践、つまり手放すための実践に到達するまで、修行を続けるのです。これは自分自身で確かめ、理解しなければならないことです。少々深い教えですので、分かりにくいかもしれません。皆さんは涅槃にたどり着きたいから修行をしているのかもしれませんが、そう思っているうちは、涅槃に到達できないのです! 心の平安を求める気持ちは、自然なものです。ですが、それは本当に正しい修行の態度とは言えません。私たちは、何の見返りも求めずに修行をしなければならないのです。もし、何も欲さなくなったら、何を得るのでしょうか? 何も得なくなるのです。この世界では、何を得ても、苦しみの原因になるだけです。ですから、私たちは、何も得ないことを実践するのです。
このことを、「心を空にする」と言います。空ですが、何も動きが無いわけではありません。この空というものは、普通の人々には理解できないものですが、そこに到達した人は、その価値をよく理解しています。空とは、「何もない」ということではありません。ここにあるものも、その本質は空なのです。この懐中電灯もそうです。私たちは、この懐中電灯を空なるものとして見るべきなのです。何も見えない空間のようなものが空なのではないのです。そういうものでは、まったくありません。そのように空を理解している人たちは、皆間違っています。私たちは、自分の身の回りにあるものを見て、その中に空を見出さなければなりません。
何かを得るために修行をしている人は、自分の願いを叶えるために生贄を捧げるバラモンのようなものです。そういう人は、私のところへ「聖水」をかけてもらいに来る人たちと変わりありません。私は彼らに
「なぜ、聖水なんか欲しがるんじゃ?」
と聞いてみました。すると彼らは、
「病気にかからず、楽しく快適な人生を送りたいからです」
と答えました。なんということでしょう! そんな態度では、苦しみ(ドゥッカ)を超越することなどできません。世間の人々は、何か見返りがあってはじめて行動をしますが、仏教では、何の見返りも求めずに行動をすることを説きます。世間の範囲でも、原因と結果の法則は理解できるでしょう。しかし、ブッダの教えはより深遠なものであり、私たちは最終的には原因と結果、生と死、幸福と苦しみといった二項対立を乗り越えなければなりません。どこにも住むところがなくなったことを想像してみてください。私たちは普段、家に住んでいますね。家を出て、知らない場所へ行く。そうしたら、どうすればいいのかわからないでしょう? なぜなら、私たちはいつも何かになろうとし、何かに執着して生きているからです。ですから、何にも執着しなくなったら、どうすればいいのかわからなくなってしまうのです。
ですから、世間のほとんどの人々は、涅槃に関心を示しません。涅槃とは、まったく何もない場所だからです。この僧院の建物をよく見てください。上にあるのは屋根で、それは変わりません。下にあるのは床で、これも変わりません。私たちは床や屋根の上には立てますが、床と屋根の間の空いた空間には、立つことはできません。何もない空間には、立つことはできないのです。この一瞬も留まることなく、常に変化している場所こそ、空なる場所であり、率直に言えばこの空こそが涅槃なのです。ただ、このことを聞くと、怖気づいてしまう人も多いようです。涅槃に達することによって、もう自分の子どもや親戚に会えなくなってしまうのではないかと、心配になるのです。
ですから、私たち比丘は在家信徒を祝福するとき、
「皆さんが長生きし、健康で、幸福でありますように」
と言うのです。そうすると、彼らは喜んで
「サードゥ!」
と言います。在家の人々は、このように祝福されるのが好きなのです。そして、私たちが空について語り始めると、それを嫌がり、変化しないことに執着します。しかし、皆さんは若者のように美しく、健康な老人というものを、見たことがありますか? そんな人、実際にはいませんよね。それなのに、
「皆さんが長生きし、健康で、いつまでも美しく、幸福でありますように」
と祝福をすると、在家の人たちは心の底から喜んで、一人残らず
「サードゥ!」
と言うのです。これは、バラモンが自分の願いを叶えるために、供物を捧げるのと同じです。仏教の修行とは、願いを叶えるために供物を捧げたり、何らかの見返りのためにするものではありません。仏教では、何の見返りも求めずに修行をするのです。何かを欲するということは、まだ何か欲しいものがあるということです。そうではなくて、ただ心をやすらかにして、そのままでいればいいのです。でも、こんな話は、またこの世界に「再生したい」と願っている皆さんは、聞きたくないかもしれませんね。
ですから、在家の瞑想実践者の皆さんは、比丘に親しみ、彼らの修行に取り組む姿を見てみるべきなのです。比丘に親しむことは、ブッダに親しむこと、ダンマに親しむことと同じです。ブッダは、
「アーナンダよ、熱心に修行に励みなさい。修行を完成させなさい。ダンマを見るものはブッダを見、ブッダを見るものはダンマを見るのだ」
と説きました。ブッダは今、どこにいるのでしょうか? 私たちは、ブッダはもうこの世にいないと思っています。ですが、ブッダはダンマそのものであり、今もここに在るのです。
「あぁ、私もお釈迦様のいた時代に生まれていたら、涅槃に達することができただろうに」
とこぼす、愚かな人もいます。ブッダは今もなお、ここにいます。ブッダは真理です。誰が生まれようが、亡くなろうが、真理は変わらずここにあるのです。真理はこの世から消えることはなく、ずっとここにあります。ブッダがこの世に生まれようが、生まれまいが、この世に真理を知る人がいようが、いまいが、真理は常にここにあるのです。ですから、私たちはブッダに親しみ、自分の心を観察し、ダンマを見出すべきです。私たちがダンマに達すれば、ブッダに達します。私たちがダンマを観れば、そこにブッダを観ます。そしてそのとき、すべての疑念は解消されるでしょう。
例を挙げると、これはチョウ先生のようなものです。彼は教師になる前は、ただのチョウさんでした。やがて彼は勉強をして、教師の資格を取得し、今ではチョウ先生として知られています。彼はどのようにして教師になったのでしょうか? 教師になるために必要な勉強をしたので、「チョウさん」から「チョウ先生」になったのです。チョウ先生が亡くなっても、教師になるために学ぶべき科目は残っており、それを勉強すれば、誰でも教師になることができます。教師になるために学ぶべき科目がこの世界からなくならないように、ダンマが失われることはありません。ダンマを知ることで、ゴータマ・シッダッタは悟りを開き、ブッダとなりました。ですから、ブッダは今もここにいるのです。ダンマを実践し、ダンマを見るものは、ブッダを見るのです。最近の人々はすっかり勘違いをして、ブッダがどこにいるのか分からなくなっています。そんな風だから、
「あぁ、私もお釈迦様の生きていた時代に生まれていたら、彼の弟子になって、悟りを開いていただろうに」
などということを言うのです。そんなことを言うのは、愚か者のすることです。このことを、きちんと理解しなくてはなりません。
雨安居が終わったら、還俗しようなどと思わないでください。そんなことを考えてはいけません。ふとした瞬間、心に悪が芽生え、人を殺してしまうようなことすら、世の中にはあります。同じように、ある瞬間、心に善が芽生えれば、もうあなたは善人になっているのです。瞑想をするためには、長期間出家する必要があるなどと、思い込まないでください。正しい修行の場というのは、業を作り出すまさにその瞬間にあるのです。私たちが気づかぬようなほんの刹那、心に悪が生じたなら、もう悪業を犯したことになります。それと同じように、ブッダの弟子たちは皆、長い間修行をしていましたが、悟りを開いたのは、ほんの一瞬の出来事でした。ですから、どんな些細なことにも、放逸であってはなりません。比丘たちに親しみ、熱心にその生活を観察すれば、比丘の生活というものがよく分かってくるはずです。そろそろ法話を終了しましょう。眠くなってきた人もいるようですしね。ブッダは眠そうにしている人には、ダンマを説くべきではないとおっしゃっていますから。
アチャン・チャー『A Taste of Freedom』より
"A Taste of Freedom", by Ajahn Chah. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/atasteof.html .