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ハナニラ

 風が頬を凪いで目が覚めた。真夏の、まるでフイルムが白飛びしているような光の中だった。窓は少しだけ開いていて、閉めていたはずのカーテンが風ではためいていた。

 私はゆっくり起き上がる。いつもこうして、休日は昼寝をしてしまう。特にこの一週間は、毎日こうして午後の遅い時間に目が覚めた。心地よい日だまりの中ゆっくりと意識が遠のくのは至福なのだが、いつも目が覚めるとすでに陽が落ちていて、部屋の中は暗く音一つ無い。まるで絶望と孤独の中で目覚めるようで、いつか死ぬのだとしたらきっとこの夕暮れに耐えられずに死ぬだろうと思っていた。

 しかし、今日はまだ陽が残っているうちに目覚めることができた。ほっとして、起き上がる。飲みかけのソーダ水が、グラスの中で泡もなく光っていた。

 私の住むこの町は、鎌倉の隣にある。地名は知れているが主立った観光地がないため、観光客が来ることはほとんどない。あるとすれば夏、海を目当てにくる人ばかりだ。駅も未だに昭和の面影を色濃く残していた。だが、活気だけはあった。駅から海の方に続く商店街はいつも人でにぎわっていて、平日でも休日でも、いつでも店という店が人で埋まっていた。

 私は行きつけのカフェで夕食を取ることにした。こじんまりとした店だが味は確かなので、いつ行っても先客がいる。この日も入口から最も離れたテーブルで、カップルが2人、仲良く喋りながら料理を待っていた。

 陽が落ちて夜になれば、次々に来客がある。一人客が歓迎されない時間帯に突入するので、できるだけ邪魔にならないように小さなテーブルに腰掛けてウエイターを待つ。しかしその日は予約でも入っていたのか、なかなかウエイターがテーブルに来てくれる気配がない。思い切って声を上げてみたが、気づいてもらえないようだ。カップルも、私を気にすることなく会話を続けている。

 今日はそういう日なのだ。私はそう切り替えることにした。今度また、こられたらこよう。そう思って、そっと席を立つ。ドアを開ける私の後ろで、ウエイターが「お待たせしました」とカップルにサーブしている声が聞こえた。

 

 結局、夕食を食べ損ねた私は行き慣れたスーパーのイートインに行くことにした。他のカフェに行こうかとも考えたが、実のところ、そこまでお腹が空いていないことに気がついたからだ。ひどく喉が渇いたので、こうしてイートインスペースの一角に座っている。昔ここでバイトをしていたので、買いものの予定がなくても気兼ねなく入りやすいのがよかった。

 この町は小さな町で、隣町に出ようと思うと、トンネルを通るか山を越えなければたどり着けない。どの方向に行くにしてもそうだ。鎌倉に行くためには、いわくつきのトンネルを抜けなければならなかったし、横須賀に行くのもそう。反対方向には葉山の町があったが、葉山に行くのも、長いトンネルを通り抜けてさらに山を一つ超えるか、海沿いのトンネルを通り抜けるかしなければならない。車を持たない私はなかなか隣町まで足が向かず、一日のうちほとんどの時間をこの町の中で過ごしていた。

 町には大きなスーパーが二つだけ。イートインがあるのは、一つ。そしてそのスーパーはいつもたくさんの人でごった返していた。朝は、お年寄りたちがかごいっぱいに食べものを詰めて。昼は近くで働く人たちや主婦の人たちが、お昼ごはんを買いに。夕方は家族連れが。そして休みの日には、葉山に行ったり近くの海に行ったりする観光客の人たちが溢れていた。

 イートインは入口の近くにある。ただ、利用している人はあまりいない。ここだけはいつも閑散としていて、たまに母親の買い物を待ちくたびれた子どもが座っていたり、お年寄りが買い物を済ませて一休みしている姿を見るだけだった。

 そのスペースに座っていると、レジに一人の女性の姿が見えた。バイト仲間だったともちゃんだ。

 私はスーパーのバイトを辞めてからも、毎日のようにこのスーパーに買い物にきていた。だからともちゃんがシフトに入っているときは、ともちゃんのレジに並んで一言二言雑談をして帰るのが日課になっていた。

 今日はあいにく買いたいものがないのでレジに並ぶ必要がないのだが、せっかくともちゃんを見かけたので手を振ってみる。一瞬だけ目が合ったような気がしたが、ともちゃんは手を振り返す暇もないようで、せわしなくレジに立って接客を続けていた。

 「忙しそうだな」

 ついつぶやいてしまう。ひっきりなしにレジには客が集まっていて、とても顔を上げる余裕もないようだ。夕暮れは混雑する時間帯だから邪魔をするのも野暮だと、私は立ち上がりスーパーを後にした。

 

 外に出ると、空一面が金色に染まっていた。夏、スコールが一瞬だけ降って上がったあとや台風みたいな厚い雲がたちこめているときにだけ見ることができる空の色だった。太陽が雲を力強く照らしていた。けれど、雲に隠れて太陽の姿はない。

 夕暮れは刻一刻と変化してゆく。金色から、マゼンタへ。マゼンタから、薄紫へ。その移りゆく光があまりに美しくて、ひとときも見逃したくなくて、私は必要もないのにただ町をぶらぶらと歩いた。

 

 ああ、家をきれいにしておくんだった。

 

 唐突に思った。書きかけの日記もそのままだ。月末の引き落とし、足りるだろうか。母にどうやって知らせればいいだろう。友だちにもメールしておくんだった。ともちゃんにも、同じくバイトの同僚だった多恵野さんにも、言いたいことがまだある。

 

 空から光がどんどん去って行って、やがてマジックアワーと呼ばれる時間がきた。光はあるのに、影ができない時間。一日のうち、ほんの数十分しかない時間。

 この時間が終わったら、夜がくる。夜は全てを飲みこんでいくだろう。夜が早いこの町では、夜が深くなるにつれ、街から一切の音が消える。闇に包まれるのだ。そして長い夜の果てに、またいつもどおりの朝がやってくる。

 今年はまだ海にも行っていない。あの山の中にあるお茶屋さんのかき氷も食べていない。うだるような夏の気配に気がせいた。今年は海の家にも行ってみようと思っていたのに。

 もう少しだけでいいからここにいたい。そんなことを思いながら、私は歩き続ける。でも、気が済んだらもう行かなきゃならない。

 

 

 家族連れが延々と列をなしていたのがようやく落ちついた。それを見はからって、多恵野が友美に声をかける。

 「友美さん、上がっていいよ」

 「あ、つぎ多恵野さん? あとよろしくお願いします」

 いやあ、今日も人が多いよねえ、と多恵野が苦笑する。夕暮れどきは特に買い物客が多い。店には五つのレジがあるのだが、毎日全てのレジで長蛇の列ができる。このラッシュが終わると、昼からバイトに来ているスタッフはようやく休憩か終業となる。

 「今日は晩ご飯何にするの?」

 「何にしようかな、七時だから惣菜が安くなってるし、ちょっと悩む」

 友美は一人暮らしだ。帰ってご飯を作る相手もいないので、この時間にレジのバイトを上がるときには、いつもスーパーで惣菜を買って帰る。

 「友美さんの家って、レンジないんでしょ? イートインにあるレンジで温めて帰りなよ」

 イートイン、といわれて思い出した。

 「あ、そういえばさっき……奏美ちゃんがいた気がして」

 「え?」

 「イートインのところに」

 「そう……お別れ言いに来たのかもしれないね」

 「もう行ってしまうのかな」

 「もう一週間になるもんね、あれから」

 奏美ちゃんはこの町が好きだったから、もう少しいるんじゃない? そういって多恵野が笑った。友美はその目に光るものに気づかないふりをして、エプロンに手をかけた。

 

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