【精神病院への入退院】
私は、三回精神病院に入院したことがあります。そのうち二回は、措置入院でした。
今回は、その精神病院入院した経緯についてお話ししたいと思います。
まず、最初に入院したのは、2002年でした。きっかけは、当時まだSNSが盛んに行われていなかった頃でした。私は、自分の考えを多くの方にわかって欲しく独自でHPを開きました。
私は、うつ病で1995年から精神科に通院しています。精神疾患の人と交流を持ちたく、私のHPを見て頂いている方とメル友になりました。その中で、Aさんともメル友になりました。
最初はたわいもない話をしていましたが、ある日、彼女から「今、リストカットをした」と言うメールが届きました。当時、私にはリストカットの意味がわからず、リストカット即手首を切り死のうかとしているのではないかと思い、彼女には、リストカットした後連絡がつかず、どうしたら良いか動揺し始めました。彼女は大丈夫だろうかなど、いても立ってもいられず、自暴自虐な思いになりました。
あまりに家中で暴れ、手を付けられなくなり、両親は警察に通報しました。二、三十分経ったでしょうか、五、六人の警官が我が家に来ました。私は、警官が来たにも関わらず、暴れ続けました。そのうち、警官に抑え込まれ、人間がすっぽり入ることができる袋の中に入れられ、警察車両に運ばれ、警察に。
警察に着くと、袋に入れられたまま留置場のようなところに入られました。私は袋に入れられ身動きができなくなっても、なんとかこの袋から出ようと必死なって出ようと試みます。しかし、どうにもなりません。
しばらくする、警官が来て私は留置場のようなところから出され、車に乗せられ、どこかに行かれるようです。車中でも私は拘束され、車窓から外の様子を見ることは出来ましたが、深夜であったため外は真っ暗。どこを走っているかもわかりません。一時間経ったでしょうか、目的地に着きました。
ここから、私の記憶はありません。多分あまりに私が暴れて手が付けられない状態であったため、安定剤か眠剤で眠かせられていたのだと思います。
私の両手両脚は、しっかりと拘束ベルトに繋がれ動けません。しかも、オムツを付けられているようです。目だけは目隠しされることなく、部屋の中を見渡せます。どうも頭上に小さな窓があるだけの個室に入れられているようでした。後に分かることですが、そこは、保護室と呼ばれるところでした。
三、四日が過ぎたでしょうか、私は両手両脚拘束されていた拘束ベルトとオムツが外され、自由に動き回ると、便器が備え付けられており、そこで用を足すようでした。
食事の時は、私に手の障害があるため、看護師が食事介助をしてくれました。その時、用をしたくなったら、どうしたら良いかと訊いてみると、中から大声で怒鳴れば良いと言われました。それに従い、用をしたくなったら、大声で看護師を呼びます。しばらくすると、流れます。
お風呂も週に二回入れます。唯一保護室から出られる時間です。保護室から出ると、その入り口には、私の着替え類が無造作に置かれていました。
この病院に一ヶ月ほど入院していたでしょうか、その後、私が住んでいた精神病院に転院。そこでも、半月は保護室で過ごしました。精神的に落ち着いていましたので、看護師から本を貸してもらい一日を過ごします。どこからか「助けてくれ!もうしませんから」と叫ぶ声がしてきます。
私は、その喚き声を聞きながら、「そうだよなぁ。早くここから出たいよなぁ」と独り言を呟いてました。
一週間か、十日後、私は保護室から閉鎖病棟に移りました。四人部屋でカーテンはなかったと思います。ある患者さんと親しくなり、色々と話を聞かせてもらいました。例えば、「解放病棟は良いようだが、すぐに物を盗まれる」等。
そのことを聞かされた直後に、私のウェットティッシュが、隣の人の床頭台の上にあるのではありませんか。しかも、ウェットティッシュの横側には、もうその人の名前が書かれてありました。私はすぐに看護師に訴えます。じきに彼は保護室に入れられてしまいました。
さて、この病院の私が受けたリハビリは、午前九時から十時くらいまで行われました。行なっていたのは、手芸習字そして、ワープロでした。私はワープロを選択し、本などを打っていました。
病棟リハビリは、カラオケや散歩などがありました。
携帯の持ち込みは禁止でした。
さて、我が家のことについて少し説明したいと思います。
2016年に、父が掃除機を持って階段から降りてくる途中、残り三段というところで、踏み外し床に滑り落ちてしまいました。病院で診てもらうと、大腿骨骨折と診断され、即入院。入院した日が土曜日であったこともあり、手術は週明けの月曜日です。手術は成功しましたが、父には、少し動かすと徐脈になってしまう心臓疾患があります。本格的にリハビリが開始しましたが、少しのリハビリでも徐脈になってしまい、リハビリになりません。
我が家には、父が施設に入所する入居費と月々の維持費を支払うだけの蓄えがなく、母と私は持ち家を売却し、アパート暮らしになりました。
2017年に父は他界しました。母も高齢であり、物忘れもひどくなり、物忘れ外来に通院し始めました。母の主治医から、訪問看護を受けた方が良いと言われ、主治医の指示のもと訪問看護が週に一回バイタルを取り、一週間の薬のセットをしてゆきます。
私も2017年に脊柱管狭窄症を患ってから、三十分ほどしか歩けなくなり、私も月に一度健康チェックで訪問看護、そして、週に一度訪問リハビリを行うようになりました。
アパートの駐車場には、我が家の車が停まっており、訪問看護師さんの為の駐車場を母の銀行の口座からネットバイキングで引き落とされるようにしました。
その頃は、まだ母も物忘れはあるものの、しっかりしていて運転も大丈夫で、生活に支障をきたすことはありませんでした。
急激に認知症の症状が出始めたのは、2019年頃です。交差点で大曲がりし過ぎて、ブロック塀に車がぶつかり、破損事故を起こし、その車は廃車になりました。同じことを何回も聞き返されました。私もそう言ったものを聞き逃せれば良かったのですが、それができずイライラし、母に当たってしまいました。母は怖がり、警察を呼びます。私は以前措置入院の経験から、警察が来ることがわかると、大人しくなります。
その年の十二月もそうでした。少々暴れ、警察が来ました。度重なって母が警察に通報するので、警察も、この時は黙って帰らず、私をパトカーに乗せ警察に連れてゆきました。警察の留置所に入れられた当初は、大人しくしていましたが、時間の経過とともに、なぜか憤りを覚え暴れてしまいました。すぐに留置所に出され、車に乗せられ、どこかの病院に連れて行かれました。
ここで、暴れてはまた措置入院になると思い、大人しく精神科医と話をし、措置入院にはなりませんでした。
その翌週、私はこの先のことを考えていくうちに、死にたくなり、精神安定剤や眠剤を大量に飲んでしまいました。母は訪問看護師さんを呼び、これからどうしようかと話している話し声は聞こえたものの、それから先のことは記憶にありません。
私が目を覚ましたのは、病院のベッドの上でした。どうもそこは、市民病院の集中治療室で、朝昼夕夜中まで看護師さんが室内を行き来しています。一週間そこにい、その後集中治療室の隣の四人部屋に移され、昼間は集中治療室のナースステーションで過ごすことになりました。
母のことが気になる一方で、病院のケースワーカーさんがちょくちょく顔を出してくれます。
そして、母のことで地域包括支援センターの方と母のケアマネジャーの方が、面会に来て下さり、母が施設に入所したことを聞かされました。
私は、自分が行った天罰だと思い、全て諦めました。
その後ケースワーカーさんから、転院先の病院について説明を受けました。
市民病院に入院し半月後、A病院の閉鎖病棟に転院しました。まず最初の診察時に主治医から措置入院であることを告げられました。入院当日は、トイレがある個室。要するに保護室に入れられましたが、翌日からは四人部屋に変わりました。
リハビリはと言うと、カラオケ、音楽鑑賞、映画鑑賞、レクリエーションの四個のうちからの三個選択でした。前回入院した病院にあったワープロやパソコンはありません。私は、音楽鑑賞と映画鑑賞、レクリエーションを選びました。また、病棟リハビリというものもあり、こちらは音楽鑑賞、座って行うストレッチ。強制的な参加ではなく、自由参加。私はこちらにも参加しました。
また、この病院では前回入院した病院とは異なり、スマホやタブレットも持ち込み可能でしたが、私は持ち込み禁止だと思い、両方とも持参しませんでした。
どの病院にも、盗み癖のある人がいるようで、同じ部屋になった人が、昨日私が着ていた服をちゃっかり着て歩いているではありませんか。私は大急ぎでナースステーションに駆け込みました。すぐに看護師さんがその人を注意し、私に服を返してもらいました。
転院二ヶ月後頃より、退院後どのように一人暮らしを送って良いかということで、市のケースワーカーさん、相談員さん、訪問看護師さん、通院などでお世話になっている移動支援の事業所さん、そのほか二人の方計六人の方が一同に介し集まって頂きました。
私には、一人暮らしがどういうものかわからぬまま、話は進んでいく感じです。
脚の具合は、どうであったかについて説明したいと思います。市民病院でもA病院でも、車イスでの移動でしたので、退院時には、室内だけしか歩くことができなくなり、外では車イスになってしまいました。
さて、三ヶ月が経ち退院の日を迎えました。自宅へは、移動支援の事業所の車で帰りました。帰る途中、スーパーによりとりあえず一週間分の食料を買い込みました。
家に着いて一時間もしないうちに、五人のヘルパーさんがやって来て、色々夕食の準備を始める一方、責任者の方と契約を交わしました。
また、母と同居していた時に取っていた食材の宅配業者とも連絡し、再開しました。
ところで、家の家賃や光熱費に関しては、母と同居している時は、母の銀行口座から引き落とされていましたが、母が施設に入所し、その施設の入所費や維持費を母の銀行口座から引き落とされます。アパートの家賃等も払う余裕もありません。それら全て今度は、私が払うことになりました。
しかし、私の収入はと言うと、障害者年金のみ。月々の家賃だけで手一杯です。足りない分は蓄えを切り崩す切り崩す格好でした。これでは二、三年のうちに底をついてしまうと思い、県営住宅に応募しました。七月に当選通知が届き、戸籍謄本や住民票、非課税証明書等を送付しなければなりません。住民票や非課税証明書は市役所で良いので、移動支援で大丈夫ですが、戸籍謄本は鎌倉ですので、移動支援は使えません。介護タクシーでの移動となりました。すぐに一万円が飛んでゆきます。
必要書類は送付しましたが、県営住宅の事務所からは、空きがないと言う連絡がある一方、この当選有効期限翌年の二月までであることも言われました。
私は早く空きが出ないかなぁと思いながら、毎日を過ごしていました。そんなある日、母の取引先の銀行から一通のメールが届きました。そのメールには、「振り込まれませんでした」となっており、どうなっているのか分からず、母の携帯に電話を入れると、「通帳を紛失したから、警察に紛失届を出した」とのこと。
母が取引している銀行に電話を入れると、「紛失届が出されているため、ネットバンキングからの送金ができなくなってます」と言う回答。
私は焦りました。なぜなら、一度こちらの手違いで、駐車料金が振り込まれないことがありました。そのとき、すごい剣幕で駐車場の大家さんから「まだ、振り込まれていませんけど、どうなっているんでしょう」と電話があったからです。
このまま放っておくと、また、すごい剣幕で電話が掛かってくるだろうし、引き落とされるには、母が直接銀行に行かなければなりません。母は施設に入所中、しかも、このコロナ禍で外に出してくれないと、以前母と電話で話をした時にそのようなことを言っていました。
もう私の頭の中は、駐車場の大家さんにどのように説明し、母の通帳からまた引き落とせるようになる方法は、どうしたら良いかで一杯になってしまいました。本当にパニック状態になり、過呼吸を引き起こしたり、十月であったにも関わらず、大汗をかく有様。緊急で訪問看護師さんを週に二回も呼んでしまいました。このような状態を見た訪問看護師さんから「入院した方が良いのではないか」と。私も、それに賛同し、A病院に任意入院することにしました。
入院してすぐに私が行ったことは、駐車場の大家さんにしばらく振り込めないことを伝えることでした。私が電話をしても、言語障害があるため、いたずら電話ではないかと思って切られてしまうと思い、病棟の看護師さんに経緯を説明し、私の代わりに電話を掛けてくれるように頼みました。看護師さんも嫌がらず掛けてくださり、また、駐車場の大家さんも渋々承諾してくださりました。
また、ネットバンキングの件ですが、母の身元保証人の方が銀行に出向いて再びネットバンキングを再開させることができました。
私が入院した当初、主治医から「年末年始はヘルパーさんも、人手不足になると思うから、年末年始は病院で過ごした方が良いでしょう」と言われました。
母のネットバンキングの件が片付き、私は今まで募っていた不安から取り放され、年末年始を待たずに退院できないものかと、主治医に詰め寄ってみましたが、ダメでした。
さて、このコロナ禍で病院でのリハビリは、映画鑑賞や音楽鑑賞、カラオケ、レクリエーションすべて中止となっており、ただ病棟リハビリである音楽鑑賞や軽いストレッチは続いていました。
私が入院した精神病院は、二か所です。リハビリも共通するものやしないもの色々あります。リハビリを受けて思ったことは、これってなぜ行うのかなぁと言うことでした。個人情報になるため、控えているのかも知れませんが、同じ精神疾患を抱えた者同士で話し合いができるそんなプログラムがあっても良いのかなぁと思いました。
最後になりましたが、県営住宅の件、退院して半月後に書類と一緒に一個の鍵が送られて来ました。部屋は四階。四階だと車イスの私にはダメだと思い、念のためネットでその棟を調べてみると、エレベーター付きの棟で、どうして四階の鍵が送られて来たのかがわかりました。
退院が一ヶ月遅かったら、県営住宅に入れず、経済不安から右往左往していたでしょう。
何しろ家賃が、78,500円から8,200円となり、経済的な不安から取り放されました。