見出し画像

掌編小説『ふんわり』(773字)失踪したA君。彼が語った奇跡。一話完結

 A君が出社してこない。電話にも応答しない。どうしたのだろうと、同じ班の男女二人が彼のアパートを訪ねた。
 チャイムにも応答しないので、管理人に連絡を取り、合い鍵で中に入った。
 ドアを開けた瞬間、三人とも声にならない声を上げた。目の前にゴミの壁がそそり立っていたのだ。同僚の女性は、彼の軽妙な一面を知っていただけに、異臭の山を一瞥して「怖い」と立ちすくんだという。

 意を決して同僚二人が靴のままゴミ山に分け入る。孤独死の可能性を感じながらも彼を探し回ったが、見つからなかった。
 管理人には会社を通して家族と連絡を取って対処させることにして、合い鍵を受け取り、二人は会社に戻った。
 その日のうちに家族と連絡が取れ、事情を説明したところ「またですか」とのことだった。どうやら二度目の失踪のようだった。警察への対応は家族に任せた。会社では数日間彼からの連絡を待ったが来ず、結局免職扱いにした。

 九〇年代初め。バブル崩壊が誰の目にも明らかになってきた時期だ。A君は当時三十歳過ぎ。私と直接仕事上の付き合いはなかった。たまに気軽に雑談していたので、病んでいるとは思えなかった。
 A君は青森県三厩村出身。青函トンネルの掘削工事現場のあった竜飛崎で育った。当初寒村だったところに工事関係者の流入が始まって、急激に村が変貌していく様を見ていたという。

 岬一帯は高さ百メートルほどの海食崖がそそり立っている。津軽海峡は年間を通じて北西風が吹き、殊に竜飛崎に強風をもたらす。
 A君の話では就学前、崖っぷちで足を滑らせ、転落したが、強風に持ち上げられて、ふんわり岩場に軟着陸したとのこと。その場にいた皆が嘘だと声を上げたが、彼は笑って、本当のことだと言った。失踪後の消息は不明だが、彼は再び軟着陸できたのだろうか。
                         (完)

いただいたサポートは資料集めに利用させていただきます!