短編小説 追跡~その3~
鴨志田志津はゼミの1年後輩だった。
ふっくらした頬と少し目尻の垂れた大きな眼が愛らしく、入学してきてまもなく、男子学生たちの多くが彼女のことをマークしていた。
人懐っこくて誰とも気軽に話すため、彼女の周りには先輩後輩を問わず、幾人もの男女が集まっていた。
僕は自分からは彼女に近づいていこうとはしなかったが、同じゼミということもあって志津は屈託なく「センパーイ!」とよく声をかけてきた。
新入生歓迎コンパの席でも、「リョウ先輩!ここいいですか?」と志津の方から僕の隣の席にやってきた。まんざら悪い気はしなかった。
夏までの間に何人かの男子学生が志津にアタックしたみたいだが、志津は誰ともつきあわなかった。誰とでも仲良くなるが、一線は越えさせない。そんな女の子だった。
噂では、地元に彼氏がいるから大学では誰とも交際しない。そんな風にも聞いた。
「ワタシねぇ・・・。ホントは大学なんて来るつもりなかったの。地元の専門学校に行って歯科衛生士になろうと思ってたんです」
「へぇ・・・。じゃ、なんでこの大学に来たの?」
「なんか推薦受けろって、先生が言うから・・・」
志津はちょっと自慢げに言った。
僕たちが通っていた大学の推薦入学制度はかなりの狭き門で、高校での成績が抜群の者だけしか合格しない。その意味で、高校時代の志津の内申書は突出して素晴らしかったに違いない。
夏休みに入る頃には志津と僕はかなり親密になっていた。空き時間にはキャンパスでよく一緒にいたし、食事やドライブにも行った。
「リョウは志津を落としたんじゃないか」なんて噂されてたらしいが、残念ながらその一線はやはり越えさせてはもらえなかった。
夏休みに入って数日後、ゼミの仲間で飲み会が開かれた。
夏休みを故郷に帰って過ごす学生はそろそろ大学を離れ始めていた。
僕も地元の京都に帰ってバイトをすることに決まっていた。
大学の周辺に残ってバイトをする学生も多く、「しばしの別れ」ということでみんな集まろう、ということになったのだ。
飲み会の席では、例によって志津は僕の隣に腰掛けた。
志津は明日、帰省することになっていた。
「リョウちゃん、お前も帰省すんだろ?もうすぐ」
守谷が訊いてきた。
「ああ。2-3日したらな」
「京都でバイトか?何やるんだよ?」
「リョウ先輩はねぇ・・・。人力車曳くんですって。嵯峨野で」
志津が僕の代わりに答えた。
「へぇ~。すげぇバイトだなぁ」
「大変なんですって。暑い中体力もいるし。それだけじゃなくて、いろいろ観光案内もしなきゃならないから、京都についての試験もあるんですって。いろんなうんちく話の」
「そうなんか!?」
「ああ。去年の夏は、それを知らずに申し込んだもんだから、試験に受かるまでに夏休みが半分終わっちゃてさ。何しに帰省したかわからんかったよ」
「今年は大丈夫なんか?また試験受けんの?」
「ああ。でも去年の実績あるから、カタチだけだ。すぐ現場に出れると思うよ」
「志津ちゃんは何やるの?地元で」
「内緒!なんてね・・・。たぶん、観光案内所かなんかのカウンターお姉さんかな?明日帰るんですよ」
「じゃあお二人さん、今夜限りでお別れなんじゃん!こんなところで飲んでていいのかよ?二人っきりになんなくて?」
僕は横目で志津を見たが、志津は聞こえないふりをしていた。
飲み会が終わり、僕は志津を送って彼女のアパートの前までやってきた。
志津も僕も、大学まで歩いて通える学生街のアパートに住んでいた。
「しばらく、お別れだね」
志津は僕の顔を見ずに、下を向いてそう言った。
「そうだね・・・」
「先輩も元気でね。京都で浮気しちゃダメだよ」
志津は少し体をくっつけてきた。僕は志津の腰に手を回した。
「浮気なんかしねえよ・・・」
僕は志津の顎の下に指をいれて顔を少し上向かせて、唇を重ねた。
志津との初めてのキスだった。
志津はおとなしくしていたが、やがて体を離し、「じゃあね。先輩。お元気で」
そう言ってアパートの階段の方に行こうとした。
「志津ちゃん。オレの部屋、来ない?」
志津は振り向いて、首を振って笑った。
「そういうのは、夏休みが終わってからね・・・」
志津を見たのはそれが最後だった。
夏休みが終わって、学生たちが大学に戻ってきても、何故か志津は現れなかった。
理由は誰も知らなかった。
いや、知っていた者もおそらくいたのだろうが、誰もそれを語らなかった。
僕は志津の実家の連絡先を知らなかったし、連絡をとろうと積極的に行動することもしなかった。
いずれ現れるとタカをくくっていた部分もあった。白状すれば2ヶ月以上も離れて暮らしていたためか、少し気持ちが離れていた部分もあった。
けれど、志津は現れなかった。
そのうちに、志津が帰省先で行方不明になったという噂がひっそりと広がり始めた。
真偽は確かめようもなかった。
誰かが大学の学務部に行って聞いてきた、という話もあったが、それ自体が本当かどうかもわからなかった。
ゼミの教官も口をつぐんでいた。
残暑の季節が過ぎて、学内のすずかけの木が色づいても志津は現れず、学生の口から志津の話題がでることも次第に減っていった。
そして、そのままになった。
学生たちは大学を卒業し、社会に出て、日々の暮らしの中で、学生時代に数ヶ月だけ在学して姿を消した鴨志田志津という娘がいたことを、数々の記憶の中に埋もれさせていった。
それは、僕も同じだった。
別の女性と出会い。恋をして、別れた。
会社員になり、歳月を重ねて、その夜、香川県のその街で酒を飲んでいた。
そしてその街は、鴨志田志津の生まれ故郷だった。
(次回に続く)