悠々とたゆたう雲 1998/11/8 菊花賞 (GI)
※この記事は1998年の2冠馬セイウンスカイのファンサイトに掲載していたものの再掲です。
山での調査が終わると、夕飯を食べお風呂に入った後は、いつもならテレビを見るくらいしかする事がない。しかし私はテレビのスイッチを入れることなく、山奥の温泉宿で一人炬燵にもぐり、町のコンビニで買いあさった何紙ものスポーツ新聞を広げた。赤や青のチープな色で飾り立てられた見出しが、あっという間に日焼けた畳の上に散乱した。「横山スカイ」とか、「セイウン2冠」とか。「恐れ入った」とか「痛快」とか。いろんな言葉いろんな賛辞が、あの芦毛馬と鞍上の大きな写真の周りを、隙間無く取り囲んでいた。
不思議な気分だった。こんな風に、新聞をでかでかと埋め尽くすような出来事だったのだ、あれは。
胸を震わせ、人目も憚らず泣いてしまった京都大賞典から、どんなにこの日を待ち焦がれただろう。菊花賞のその日、京都大賞典の時と同じ小春日和、というよりはインディアン・サマーといった方がしっくりくるような天気だった。日にさらされたスタンドは、じっとしているだけで汗が滲んでくるほどで、陽射しは強く、向こう正面は白く霞んでよく見えない。例によって競馬場前で徹夜をし、横断幕を張った私は、朝から外れ馬券ばかりを買いあさり、パドックとスタンドをせわしなく往復し、じりじりとした気持ちでメインレースまでの時間をやり過ごしていた。
朝起きてから約9時間。財布も寒々としてきたところで、ようやくメインレースの馬達がパドックに現れた。夢中で写真を撮る。パドック周辺の人々の熱気は最高潮に達しており、身動きを取るのも難しいほどだ。馬達の脚下には大分長い影が伸びて、秋の深まりを感じさせた。約一月ぶりに見るセイウンスカイはというと、前回よりはおとなしくパドックを周回していた。ただ、少し早足なのか、前を歩くミツルリュウホウの後ろにぴったりとくっついてしまい、写真が撮りづらい。馬達が3周程したところでパドックを後にし、スタンドへと人をかき分けかき分け走った。何となく、落ち着き過ぎているような彼の様子が気に掛かった。調教が厳しすぎたのだろうか……。 (ただし、後日ビデオで見ると、周回を重ねるごとにイレ込みがきつくなったのか、かなり煩い様子だった。)
スタンドはびっちりと人で埋め尽くされていた。ゴール板前で馬達の本馬場入場を待つ。陽射しは多少柔らかくなったものの、今度は逆光気味になっていて少し眩しい。いよいよ、入場。早くも歓声が上がる。セイウンスカイはイレ込んでしまっているのか、首を上げ下げしながら芝コースに入ると、いきなりガーッと走り出してしまった。他馬を追い抜き、ぐんぐん小さくなっていく。おーい、レースはまだだぞー。と心の中で呼びかけながら、何となく笑ってしまった。一方のスペシャルウィークは、スタンド前のラチ沿いを歩く間も、実に落ち着いた様子だった。
事ある毎に歓声を上げ、手を叩く観衆に少しばかり辟易していたが、自分の鼓動や、今にもわななきそうな手足の方が余程始末に負えない。私が緊張してどうするんだ、落ち着け、落ち着け、と自分に向かってつぶやく。が、どうしようもない。時間の進行と共に自分の中の心のネジが巻き上げられていくようだ。向こう正面のゲートも馬達も白く霞み、逆光気味の光の中にいる。
スターターが台に上る。歓声がひときわ高く上がる。ファンファーレと手拍子。そして、ゲートが開いた。
レオリュウホウを内からすっと交わして先頭に立つセイウンスカイ。不思議とそれを目にして、それまで嵐のようだった私の心は、深いところですっかり凪いでしまっていた。一周目の直線、先頭でセイウンスカイが駆け抜けていく。観客の振り上げる手に邪魔され、写真は撮れなかったが、ファインダー越しの彼は実に楽しそうに走っていた。それを私は微笑んで見送った。しっぽの白い穂先が靡いていく。
そして向こう正面。16頭の馬を引き連れ、悠々とセイウンスカイは駆けていた。雲のようだなあ。のどかに私はそう思った。ゆっくりと流れていく遠い雲の連なり。薄墨の伸びやかな曲線を描く、中国の絵の雲のようだ。一片の雲だけ離れて先をゆく、そう、あれには孫悟空が乗っているのさ……。そんな風に妙な想像を巡らす間にも、3コーナーの下り坂に掛かる。京都大賞典ではここで「死んだフリ」をしたのだ。しかし、さーっと彼は後ろとの差を広げていく。そして。
最後の直線、の筈だった。セイウンスカイは変わらず2周目を先頭で回ってきた。後続との差は未だ詰まっていない。周囲の人々が口々に叫び始める。私もそれに倣って、「そのままーっ」と叫んだ。しかし、叫びながら、これって本当に最後の直線なんだろうか、と訝かしんでいた。もう一周あるのでは?だってこんな……。差は詰まるどころか、拡がっていくようにさえ、見えた。何馬身も離れた向こう側で、熾烈な競り合いが繰り広げられている。目は、セイウンスカイを追い、その後ろの馬達を望んだ。そして、ゴール板前を一頭で通過する彼の姿を捉えた。
まず身体が、反応した。歓声を上げ、共に応援していた友達の肩を叩く。足ががくがくと震え始める。涙が、滲む。それでも、私は拍子抜けしていた。というより、心の一番大事なところがすっぽり抜け落ちてしまったかのようだった。今思えば、どう反応して良いやら心そのものが戸惑っていたのかも、しれない。ひたすらに嬉しい事だけは確かだったけれど。長い影をそれぞれの脚から伸ばしながら、駆け抜けていった先を見つめながら、レースが既に終わってしまったことが信じられずにいた。
そして、掲示板に「レコード」の赤い文字。着順の一番上には「4」の数字。どよめき、驚く人々に混じって、どこかほけっとしている自分がいた。
やがて、「菊花賞」と金の刺繍を施された紫の肩掛けを揺らし、セイウンスカイが現れた。すっかり傾いた銅色の光の中で、彼はとても美しかった。それまで私が心に描いていたよりも遙かに。夢のような、光景だった。
最終レースの後、横断幕を外し、待ち合わせをしていたセイウンスカイファンの人々と話し込んでいた。すると、見知らぬ人々が、横断幕と記念撮影をしたいと声を掛けてきた。それも二組も。撮影している脇で、まるで人ごとのようにそれを見守っていた。最後に、暗くなりつつある競馬場で自分たちも記念撮影をした。「やっぱり応援している馬が勝つと、気分いいよねえ」何て言い合いながら。
京都の町で祝杯を挙げ、すき焼きをつついた後、東京へ向かう夜行バスに乗り込んだ。すぐ消灯となり、私は備え付けの毛布を被り目を閉じた。自然、悠々と逃げる彼の姿が浮かんでくる。そして、レコードの赤い電光文字。私はその遠い姿に向かって無言でつぶやいた。いいんだよ、そんなに一生懸命走らなくても。ハナ差だって勝ちは勝ちなんだから。レコードなんか出さなくていいから、少しでも長く、元気で走り続けてね……。彼は聞いちゃいないようだった。実に楽しげに逃げながら、暗闇に融けていった。
しんとした宿の部屋で新聞に囲まれ、「凄いヤツだよ、君は」と私は写真に向かってつぶやいた。今の私にはとても捉えきれない。あのレースの凄さも、君の強さも。悠々と悠々とたゆたう雲のように、この手に掴める筈もなく、遠い高みをゆっくりと過ぎるように見えて、実は速く。記憶を重ねていくうち、少しは君の大きさが分かってくるのだろうか。
出張から家に戻り、ようやくビデオを見返した。何度見ても、彼は先頭でゴールし、掲示板には「レコード」の文字が光った。横山騎手が背を愛撫する後ろ姿が過ぎ、厩務員さんに額を撫でられて得意気なセイウンスカイがいた。そう、何度見てもそれは同じで、私は小さなため息をついた。「凄いヤツだよ、君は」。