リサイタルズ 「888月 〜夏にも程がある〜」の歌詞は本当に意味不明なのか。
神曲が生まれた。
リサイタルズの 新曲、「888月 〜夏にも程がある〜」である。
曲を聴いた率直な感想。
あまりにも夏。この漢たち、夏である。
これからの夏はこの曲を聴かなければ始まらない、そう思わせてくれる名曲である。
しかしながら、そこはリサイタルズ。
キャッチ―なメロディーに反した、抽象的な歌詞。(そこが魅力なのだが)
よく「歌詞に意味がないけど面白い曲!」などと言われているが本当にそうなのだろうか。リサイタルズの作詞担当であるエースことしばゆーは実は歌詞にしっかりと意味を込めているのではないだろうか。
そこで今回はリサイタルズ 「888月 〜夏にも程がある〜」の歌詞考察を行っていく。
初手、7334。
わけがわからない。一体なんの数字なのだ。もう考察をやめたい。
ただ、「二毛作」という重要な言葉が置かれている。
ここから読み取っていこう。
二毛作とは、同じ土地で一年間の間に2種類の作物を栽培することであり、季節の変化に応じて栽培するものを変えることに目的がある。
したがって、
雪により農業に困っている7334人の人々への二毛作の提案
と読み取ることが自然だろうか。
まぁだからなんだという話なのだが。
申し訳ないがここはお手上げだ。
「煩悩」の繰り返し。煩悩とは本来、人間の心の迷いといったマイナスな意味で使われることが多い言葉だが、それがMy everything(=私のすべて)といい、かつ、「褒めちぎれ」と言っている。
これはまさに、自分たちがやりたいこと、という欲望を徹底的にやることで職業へ昇華させたリサイタルズだからこそ辿り着いた表現だと思う。
ここはとてつもなく夏を感じさせる詞だ。
ここでの防波堤は夏の思い出を守るためのもので、ザッハトルテ、つまりコーティングするということでより思い出を守りたいという気持ちが読み取れる。
シャワーヘッドをひまわりに変えるのも夏の思い出を流さないためだ。
ISO感度が高くて写真が白飛びする。
これは比較的わかりやすい歌詞だが、実はその裏には別の意味があると思われる。ここでMVを見てみよう。
なんと現像された写真が老いたリサイタルズになっているのだ。
このことからおそらく、White=年をとる ということだろう。
年をとると若いころの夏の思い出は消えていってしまう。
しかし、それを砂に絵(画)として残し、ラミネートして保存する。
なんという表現だろう。こんな普通じゃ出てこない。
やはりしばゆーは天才である。
この後はお得意の言葉遊びで夏を表現している。
そして、極めつけは謎単語「シャイ甚平」。
こればっかりは何なのか本当にわからない。
ただ、少し話は逸れるがあなたは井上陽水の「少年時代」という歌をご存知だろうか。
歌詞にこんな一節がある。
冒頭の「風あざみ」という言葉。実はこの言葉は存在せず、井上陽水自身が作り出した造語だというのは有名な話である。
「シャイ甚平」。意味不明な言葉にもかかわらず、ここまで私たちの頭から離れないのはしばゆーが井上陽水と同等の作詞センスの持ち主であることは明らかである。
サビも夏を感じさせる言葉が多く散りばめられている。
テトラポットとテトラトッポギの言葉遊びは非常に美しい。
そして特に美しいのは曲名にもある「888月」。
夏を強調する際に「そうだ、桁を増やそう」という発想が出るしばゆー、恐るべしである。
(唐突に出てくるセッター多すぎ問題、ワイパー破損による車検はまるで理解ができなかった。)
Dメロもまた訳が分からない歌詞だが、ここでの「ホバー」とはおそらくホバーボードなどで使われるhover=空中に停止することだと私は考える。
満潮だろうが干潮だろうが関係ない。空中に浮けばいいのだ。
フィーバーお地蔵さん。・・・どういうことだろう。
ラップパート。しっかりと韻を踏んだ歌詞とリズムは非常に心地良い。申し訳ないがもうこのラップパートに関しては難解すぎてお手上げである。歌詞を改めてみて夢かと思った。
ワイプで出しておく。ワイプとはテレビ番組でスタジオにいる出演者がVTRを見る際に映し出されることを言い、基本的にはスタジオ全体の反応がわかるように出演者全員を映し出す。
ただし、「ワイプで出しといて 君だけ」。
他の人はいらない。見ていたいのは君だけ。
なんてロマンチックな歌詞だろう。
そして、「あの太陽掴んだら案の定熱かった」。
当たり前である。そりゃ熱いに決まってる、太陽は。
しかしながらどういうわけか耳に残るし、サビ前の盛り上がりとして最高である。カラオケで一番力を込めて歌いたい。
最初のサビでは「大マンゴー」だったのがここでは「ドライマンゴー」になっている。ここでのマンゴーは夏の思い出のことだろう。
それを「乾燥させてあんこ包んでいく」。
乾燥させる=保存するの意だろう。
更に甘いもので包み込むことによって思い出をより良い状態で保存することができる。
そして白滝みたいな花火は蝉の声を打ち消す、と言っている。
夏の風物詩である蝉の鳴き声を消すことは一見すると、「夏の否定」に捉えられそうだが、そうではない。
これは蝉=夏という浅はかな考えの否定であると考える。
夏と思ってしまえばいつだって夏!だということを伝えたいのだと思う。そう裏付ける根拠は歌詞の続きにある。
8月を超えた88008月なのである。
つまり、夏とは既存の概念に縛られない。しばゆーは地球の暦に縛られないのだ。
煩悩とかけた"Bone knows"。私はここに少し引っ掛かった。
なぜなら、イタリア語で「すばらしい」を表す"buono"でも良くないか?と思ったからだ。
韻も踏めているし東海オンエアにはイタリア人もいるし、何も問題ないではないか。
つまり、しばゆーはこの部分をあえて"Bone knows"にしていると私は予想した。
ここで歌詞を訳してみよう。すると、
"Bone knows my everything.(骨は私のすべてを知っている。)"
となる。
骨という人間の身体を構成する基盤となる部分。身体の最も内側にあるものがすべてを知っている。
しばゆーは我々に、もっと自分の内面に目を向けることの大切さを伝えたかったのでは。
最後の"Four men chin guilty rain"=「褒めちぎれ」は「自分のことを褒めちぎれ」ということなのかもしれない。
<まとめ>
今回はリサイタルズ の新曲 「888月 〜夏にも程がある〜」の歌詞に込められた意味を考察していった。この曲はしばゆーの計算尽くされた詞によって完成されていることがよくわかったと思う。
嘘。適当こいてそれっぽく書いてみたのが正直なところである。
まぁ何はともあれ名曲であることに違いない。
はやくみんなでカラオケに行って大声で歌えるような世の中になることを切に願う。