なるほど、それは理にかなっているね。だけど...


 合理性が生活のあらゆる場面に入り込んでくる。こればかりは避けて通れないことなので、どうすれば合理的か、情報を集めてそれらを用いることで行動を選択する。
 身の回りにある情報だけでは、なかなか合理的とはいえない行動になりそうだから、インターネットという、膨大な情報の海をサーフィンし、海の恵みを獲ってくる。大漁すぎた。選択肢が膨大で、どれを選べば良いかわからない。選択肢Aを選んだら、Bよりも時間を17分節約できるが、410円のコストがかかる。バイトの時給が1000円だから、25分程度、よし、Aのほうがいいぞ。あれ、今度はCのほうがいいかもな。でも、今は時間がなるべくはやいDがいいのかな。
 こんなことをアルファベットの数では収まらないほどに考えて、もう1時間が経過した。今は17時。休日の終盤に差し掛かっている。まったく合理的とはいえなかった選択肢Kは、開けることのできないショーケースのなかでいまや黄金の輝きを私に照らし出す。
 こんな調子を毎日繰り返し、今までを生きてきた。私が合理的な人物であると言う人は誰もいないだろう。そのことを私は最も知っているのだから。選択肢がないこと自体が良いことであるというわけではない。多すぎて何もできなくなったり、選ばなかった選択肢、すなわち存在しないものに対して過度な執着を持ったりすることが、私を憂鬱にさせる。究極な合理性などに期待すべきではない。
 さらに私は、人生そのものに合理性を求めてはならないと思っている。何故なら、人生の結果は死なのであって、到達するための本源的な資源である時間を最短にしようと思うと...倫理についても似たことが言える。

(ここでの合理性は、効率ってことでよろしくお願いします。)


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