兵庫県知事選 なぜこんなことに…
なぜこんなことに……
投票日直前に感じていた最悪のシナリオが現実のものになってしまった。
選挙当日のニュースで、投票率が上がっている…と報じられた時、悪い予感がしたが、まさかこんなことになるとは…
地方自治に携わるものとして、今回の出来事を自らの地域に置き換え、重く受け止めると共に、検証しなければならないだろう。
そして、反省しなければならない点が多々あると実感した。
あの独特な記者会見から始まり、百条委員会、そして告発者の自死。
前例のない全会一致での不信任案可決により知事失職、そして選挙。
もし、失職から選挙までの時間が短かったなら、まず間違いなく斎藤氏再選はなかった。
それは、各世論調査を見ても明らかだろう。
ほんの数週間である、ここで世論が大きく動いたわけだ。
この間におこった大きなうねりの正体は何だったのだろうか。
今回、斎藤氏に投票し、斎藤氏を再選に導いたのは、投票率そして得票数を見てもわかるが、あの立花氏をはじめとする「アレ」な人々のコアな支援者や、政治団体、宗教団体の組織票ではなく、日頃からそれほど政治にかかわりがなく、組織にとらわれない若年層から50代までを中心とした、いわゆる善良な市民の投票行動だろう。
それは年代別の出口調査からも十分に推測できる。
問題は、なぜそのような層の人々が斎藤氏に投票したのかという事だ。
もちろん最大の要因は、SNSを中心としたネット上に広がった虚実織り交ぜた情報であることは間違いない。
しかし、同様に反斎藤の情報も相当あふれており、ネット情報の質や量の違いがその投票行動を分けた最大の要因では無いと考える。
私が思う最大の要因は、斎藤氏側が組み立てた「ストーリー」にあまりにもピタッとはまる状況が揃っていたからではないだろうか、と考える。
既存メディアに対する信頼性の凋落
まず、今の若年層は「主なメディアの平均利用時間」の統計を見ても明らかだが、テレビがあってもテレビは見ない。そして、テレビ自体が無い家庭も増えている。
新聞も読まない。
50代でやっとネットの利用時間とテレビの利用時間の差がなくなり60代以上では圧倒的にテレビの利用時間が多くなる。
若年層における情報の入手先はもっぱらネットからである。
では、ネットの情報を無批判に受け入れているのかと言えば決してそうではない。間違いなく選んでいるのだ。
デジタルネイティブである若年層は、ネット上にある情報が玉石混合であることは十分に理解している。
もちろん、新聞や大手メディアの情報もネット上に数多くあるが、それらの情報も、SNS等その他のネットメディア情報も、「信頼性は変わらない」と考える人々は増えている。
逆に、新聞や大手メディアの情報にはない真実が、SNS等のネットメディアには転がっていると感じている人々も多く、事実その様なケースがあることも否めない。
既存の大手メディア等は、責任の所在を明らかにしたうえで苦情窓口等を設け、内容に関する第三者機関も存在する。
加えて放送法にかかるメディアには「公安及び善良な風俗を害しないこと。」「政治的に公平であること。」「報道は事実をまげないですること。」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」という法的定めもあり、真実相当性が一定程度担保できなければ、報道しずらいという一面がある。
一方、SNSをはじめとするネットメディアは、既存大手メディア系を除き、責任の所在が不明な場合が多く、あらゆる規制や仕組みがほぼない状態ともいえる。
このように、本来両者の間には、自ずと真実性に差が出ることになるはずだが、そのように受けとらない人々が増えているのはなぜだろうか。
それはやはり、ジャーニーズ問題をはじめスポンサーの不祥事等、国政に関する報道に関しても、忖度や圧力による報道内容への影響みられるなどの事実に加えて、ネット系メディアで、既存マスコミの問題点が広く流布されるようになったことにより、「オールドメディアは真実を知っていても報道しない」「商業主義に陥っている」「真実を自己都合で捻じ曲げて報道している」などという印象が広がり、既存メディアに対する信頼性の凋落につながっていたからではないかと考える。
政治や行政に対する低い評価と無関心
政治や行政に直接かかわることが少ない住民にとって、政治や行政は遠い存在である。
その遠い存在である政治や行政に関するニュースだが、例えば議会においては、どのように広報やホームページ等を充実させ、議会報告会等を行ったとしても、住民に活動内容を伝えることは大変難しい。
過去に私の街でも報告会等で「議会にどのようなことを望むか」といった質問をしたことがあるが、「そもそも、議会が何をやっているところかよくわからない」等と言う答えが大変多かった。
これは、私の街のように、比較的小さな自治体にいても実感することであるので大きな自治体、特に広域自治体である都道府県単位になればなおさらであろう。
伝える事と、伝わっている事の意味は全く違う。
この点に関して、議会も行政も大いに反省し、改善すべきであろう。
しかも、議会や行政に関するニュースは、主に不祥事等の場合に各種メディアで取り上げられることも多い。
いくつかのアンケートや対話集会等で感じられることは、議会や行政に近い人は比較的議会や行政に理解を示すが、遠い方々のばあいは比較的に議会や行政に対する評価が低く、それ以上に無関心層が多いという事だった。
以上のようなことは、兵庫県にかかわらず全国的に言えるごく一般的な状況だろう。
しかし、このような状況下で単にSNSでの発信を多くすれば、今回の様に世論の流れを変えることが出来るかと言えば、もちろん違う。
そこには「ストーリー」が必要だ。
はまってしまった「ストーリー」①
斎藤氏を告発した職員が自死をした。
これは大変悲劇的な事件であり、かつ重大な事実である。
「この責任が斎藤氏側にある」と確定されれば、斎藤氏にとっては致命的ダメージである。
事実を変えることは出来ないので、この責任を何とか斎藤氏以外に置き換えないといけない。
そこで組み立てられた最も卑劣なストーリーが、自死の責任を自死したがわに押し付けるストーリーだ。
自死に至った事実関係をごく簡単に説明すれば…
まず、告発した元職員に対して県が貸与し個人で使用していたパソコンが押収され、その中身が調査された。
その中から、告発内容とは無関係のプライベート情報なるものがでてきた。
その告発内容とは無関係なプライベート情報を百条委員会で公表するように迫った議員がいた。
また、プライベート情報なるものに触れる証言をしかねない証人もいた。
委員会では公式にそれを拒否したが、告発した元職員は証人尋問の前日に自死した。
という事になる。
そもそもそのプライベート情報なるものが自体が真偽不明であり、仮にあるとしても、それは職務上の守秘義務に守られるべきものでもある。
加えて、そもそもそのプライベート情報なるものは、違法とされている公益通報者の探索過程で入手されたものである。
プライベート情報を公開するように迫った議員とプライベートに触れる証言をしかねない証人が、共に斎藤氏側の人物であることは周知の事実なので、単に事実関係からいえば、職員の自死は、百条委員会で公表されかねないプライベート情報を苦にして自死した…という推察が成立し、その責任は斎藤氏側にあることになってしまう。
しかし、その責任を自死した元職員に置き換えるストーリーが作られた。
その、責任を置き換えたストーリーを中心となって主張したのが立花氏と周辺の「アレ」な連中だった。
立花氏ら「アレ」な連中が作ったストーリーを簡単に説明すれば次のようなものだ。
そもそもプライベート情報が入っていたパソコンは県の物であり、県民の共有財産であり、そのにある情報は公開されるべきものである。
適切な手続きで収集された情報を公開しなかったことは何かやましいことがあるからである。
その情報を私は入手したので公開する。
この情報を見ればわかる通り、自死した元職員は公務員にあるまじき行為を行っており、この情報が拡散されることを恐れて自死したものである。
自死の原因と責任は元職員個人にあり斎藤氏には全く関係ない。
そもそも、そのプライベート情報なるもの出所も、真偽も定かではなく、検証することも出来ない。
仮にそのような情報があったとするなら、流出させたことは犯罪行為である。
この主張は、検証も出来なければ、犯罪行為を基にしており、根拠や事実を基に、合理的に考えることができれば到底受け入れることができない主張であり、「はめる」ことができない主張でもある。
しかし、立花氏らはその主張で「はめる」ターゲットをある意味選んでいた。
そのターゲットが、「既存メディアを信頼せず、政治や行政に対する評価も低い無関心層」だ。
その層の一定数が主張を受け入れば、これまで投票に行かなかった層の投票を促し、選挙結果をある意味コントロールすることができると考えたのではないだろうか。
しかし、これだけのストーリーでは、その層の多くをはめることは出来ない。
その層に訴える全体的、かつ魅力的なストーリーが必要だ。
そこで作られたストーリーが「実は斎藤氏は真の改革者であり、改革を阻む既得権者や旧来の県政でぬくぬくと過ごしていた行政職員にはめられた事件だった」「正義は斎藤氏側にあり、悪は議会そして県職員側だ」というストーリーである。
はまってしまった「ストーリー」②
選挙前まで、マスコミは反斎藤一辺倒に見えた。
議会も異例の全会一致で不信任案を可決し斎藤氏は失職、退庁するときには職員からの花束もなく見送りもなかった。
このような状況を見たとき「盗人にも三分の理」ではないが、斎藤氏側にも何か理があったんじゃないだろうか、こんなに一方的な報道でいいんだろうか…と思う気持ちが生じるのはある意味健全でもある。
また、外形的に見れば、斎藤氏が集団でいじめられているようにも見えてしまうこともあるだろう。
だからと言って、このような状況を招いた理由を、根拠と事実に基づき合理的に見れば、決して斎藤氏を擁護することはできない。
しかし、立花氏らがターゲットにしているのは、既存メディアによるあふれた斎藤氏批判の中で、何となく「へ~そうなんだ~でも本当かな~」等と思っている「既存メディアを信頼せず、政治や行政に対する評価も低い無関心層」だ。
そこに、元職員自死のスキャンダルに加えて、「実は斎藤氏は真の改革者だった…」といったストーリーを放り込んだのである。
はめる手口①
そもそも行政も議員も、「既得権益の中に安住し、高い給料をむさぼっている連中」というレッテルが張られやすい集団である。
なので、「実は斎藤氏は真の改革者だった…」等と言うストーリーを違和感なく受け入れやすい土壌があった。
しかしはめるには、はめた相手がはめられていると感じさせてはいけない。
あくまでも自分の意思で選んだと感じさせなければならないわけだ。
そのためには、SNSをはじめとするネットメディア戦略が非常に大きな武器となった。
はめようとしている相手方は、ネット上の情報が玉石混合だという事は十分承知している。
一方で、ネット情報も既存メディアの情報も対等に見ている一面がある。
まず、「実は斎藤氏は真の改革者であり、既得権益と戦ってつぶされようとしている…」といったネット情報にそれなりの根拠づけが必要である。
しかしそれは、あまり難しくなかったように感じている。
根拠なきデマを広めるためには、デマの中に一定の真実を織り交ぜる必要がある。
兵庫県は長く井戸県政が続いたこともあり、いわゆる井戸派の幹部職員も一定数いただろうし、実際行政改革に抵抗勢力はつきものである。
デマの中に織り交ぜる事実には、あまりことを欠かなかっただろう。
それはマスコミ批判も、議会批判も同じである。
ストーリーに一定の事実を織り交ぜることで、たとえストーリーの本筋だデマであったとしてもそのデマに信ぴょう性を持たせることができる。
それ以外にも、違法な探索がされたとされる公益通報の件などでは、外部通報は~三号通報は~等と言った素人には検証しづらい法的解釈を持ち込み、一般的には確定している解釈に対して「解釈が分かれる部分に対しても一方的な解釈をしている」等と言った主張もあった。
その様な手口を用いて、はめるための第一段階である「どっちが真実かわからない…」と思わせることに成功したのだと考える。
はめる手口②
つぎの段階で威力を発揮したのがいわゆる「フィルターバブル」である。
フィルターバブルとは一般的に「ネット上のアルゴリズムがネット利用者個人の検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーにとっては望むと望まざるとにかかわらず見たい情報が優先的に表示され、利用者の観点に合わない情報からは隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立するという情報環境を指す。」とされている。
「どっちが真実かわからない…」と思った人々は、「実は斎藤氏は真の改革者だ…」といった情報を検証するためネット上の情報にアクセスする。
そうすれば、立花らが意図的に蔓延させた「デマの中に真実のちりばめた情報」にたどり着きフィルターバブルが発動することになる。
結果、本人が意図しないままに「ネットで真実」にたどり着いた者たちが増えていったのだろう。
そして、「ネットで真実」にたどり着いた者たちからすれば、誰かに誘導されたものではなく自らが選択した真実だと感じてしまうのだろう。
しかし、ネットで真実にたどりついた者たちだけの票では、斎藤氏の当選はおぼつかない。
次の段階が必要である。
それは、使い古された手口でもあるが非常に有効な「危機感をあおる」手口である。
はめる手口③
立花ら斎藤陣営は、SNS等のネットメディアにより真実を見つけた人々に対してネット上で、そして街頭でも危機感をあおった。
「相手は組織戦だ!このままでは斎藤は負ける!真実がつぶされる!みんなの思いが組織につぶされる!時間がない!兵庫県の改革をみんなの手で進めるために、兵庫県政をみんなの手に取り戻すために、一人一人が斎藤支援の輪を広げなければならない!」等と言って危機感をあおる。
選挙終盤に異例だが、県内の22市長が連名で稲村氏支持を打ち出したことも斎藤陣営からすれば、「ほら見たことか、相手は組織戦、既得権益集団だ!私たちが正しいことの証拠だ!」などと自分たちのストーリーを正当化する道具として使われてしまったのかもしれない。
ターゲットを定めて、作られたストーリをさも真実かのように偽装し、フィルターバブルで多様な情報の中から自ら選び自ら判断していると誤解させ、危機感をあおる…
これが有効に機能し、ネットで真実を見つけた人々が、同じように「既存メディアを信頼せず、政治や行政に対する評価も低い無関心層」に働きかけた結果が、高い投票率を招き斎藤再選へと導いたのではないだろうか。
最後に…
稲村氏は、前回の選挙の斎藤氏獲得票を大きく超える得票をした。
しかし、斎藤氏はそれをも上回り得票数は100万票を超えた。
斎藤氏再選の要因は明らかに投票率が上がったことである。
つまりは、日頃投票に行かなかった人たちが投票したことがこの結果を招いたのである。
これは、民主主義としては良いことなのだが、日頃投票に行かなかった人たちの投票行動の基となる情報が、あまりにもデマにあふれ、誹謗中傷にもあふれていた。
そして、その情報を基に斎藤氏に投票した人たちの多くが、いわゆる善良な市民であり、正義感を持った方々だったと感じている。
それが一番のショックである。
兵庫県政は、そして兵庫県議会はこれから大きな壁にぶち当たるだろう。
その責任を無理やり取らされるのは兵庫県民である。
私は他県の地方議員であり、専門的知見を持ち合わせているわけではないし、さほど見識が高いわけではない。
今はこの程度の分析しか行えないし、この分析が正しいのか間違っているのかの判断にも迷っている状態だ。
しかし、唯一いえることは、今回の兵庫県知事選挙結果は立花一派や斎藤陣営のような卑劣な連中によってのみ引き起こされたのではないこと。
そして、既存の大手マスコミに加え、私たち議員を含め、地方自治にかかわる者すべてが、この結果を重く受け止めるべきだと感じている。