0→1の秘密は未来を描くビジョニング力。価値観でつながるコミュニティの創設者、槌屋詩野さん。
今回の「中の人インタビュー」では、Impact HUB Tokyo(以下IHT)代表取締役の槌屋詩野(以下Shino)さんにお話を伺いました。大学では社会動態論を学び、NGOで最初のキャリアを開始。1人ではできないことを100人でやることの強さを学んだというShinoさん。その後、日本総合研究所で事業プロデューサーを経て、アフリカ、インドの農村部など5カ国で事業立ち上げに関与。その後、IHTを立ち上げるに至りました。
何もなかったところから、IHTを立ち上げようと0から事業を立ち上げる原動力はどこからきているのか。また、コミュニティに携わるようになったきっかけとはなんだったのでしょうか。
今回は、Shinoさんのストーリーに迫りました!
ビジョニングする力は幼少期から
——過去のインタビューで、日本にはないから作ってしまおうと思ったとIHTの立ち上げについての記事を読んだのですが、ないものを最初から、よし作るぞと思って、実際にも作ってしまうのはなかなかできる人がいないと思ったんです。その原動力は一体どこから来ているのでしょうか。
小さい頃から空想が大好きで、空にいる雲とお話をしながら学校も行っていたんですよね。頭の中にいる空想の動物にもすべて名前をつけていました。
あと、黒板や黒板消しとかを見て、物質としてはあるけど本当は実在しないんだなって、ある日はっと思ったんです。私が「それはそこにある」と思っているから存在しているだけなんだな、もしかしたら本当は無いのかもな、と。黒板消しも私が触った気になっているだけだけど、本当は無いのかもしれない。私が主体となる意識なしでは、この世界そのものや様々な物質やコトは実在しないと思っていて、「有る」と「無い」や、「未来」と「現在」の境界線のようなものは曖昧だと考え始めました。その時から、ビジョニングする力はあったんじゃないかなと思うんです。言語化できないものを絵や言葉にして、「世の中そちらに行くから」というように信じ込んだり、人に伝えたりすると、本当にそちらに行ったという経験が今までの人生多かったんです。
——小学校1年生から、世の中や自分の存在について考えていた人はなかなかいないような気がします。ビジョニングとおっしゃっていましたが、どんなものでしょうか。
まず、空想をすることから始まるんだと思います。ビジョニングについては、父に影響を受けていると思います。父は気候変動と二酸化炭素排出量に関する研究者で、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)という世界中の科学者が所属している科学グループがあるんですけど、そこに高度成長期の60年代から、日本から参画してる数少ない科学者の一人なんです。
——お父様が科学者とは驚きです!
高度成長期の60年代から環境問題について研究していたんですよね。父が大学院博士以降研究していたのはエネルギーを最小化することで、IBMから当時日本に1台しかないスーパーコンピューターを借りて効率的な燃焼炉のエネルギー計算をしていました。コンピューターグラフィックスを日本で最初に作ったグループ(CTG)の一人だったりとクレイジーな人かもしれません笑。そんな父の元、家の中ではできないことがあまりない環境でした。超電導だったり、ドラえもんの世界が科学的にどう実現するかというようなことだったり、今後のエネルギーの未来に関しての未来図鑑などの本に囲まれて育ちました。父は今後は、水素社会になるといって、今でも色々なエネルギーシナリオを書いてて、父も空想家だと思います。
——高度成長期時代にすでにエネルギー問題に目をつけていたというのは、かなり先を見ていられる方で、お父様も空想力が優れていそうです。
海外から父の研究者の友達がよく遊びにきていたのですが、炭素で作られた車を開発していたり、みんな妄想家で、オタクが集まっているというか、自分に似た価値観の人が集まっている状態が普通だったんです。
——お金のために働いているというよりは、未来のビジョンに向かって動いている感じですね。
父は「社会に対して大事なことをやっている」と言っていましたが、母は「お金を稼いで」と喧嘩をしたりしていました笑 でもそういう家庭で育ったので、未来について空想しない瞬間がないんだと思います。父や母の教育がパーフェクトだったとは思いませんが、小さい頃から生意気と言われることも多かった私に、母は個性を持って際立つことはよいという感じでしたし、空想していることを人に臆することなく伝えたり、自分の考えをいうことを大切にする家庭だったと思います。
——Shinoさんの未来を描く力のヒントは、家庭環境にもあったように思えますね。次のセクションでは、大学時代にNGOで働いていたShinoさんですが、どのようなことを研究していたのか大学時代のストーリーに迫ってみましょう。
コミュニティとはなにかを考える大学時代
大学では、社会主義思想について研究していたんです。共産主義の中でも色々な流派があるのですが、その中でマルクスの晩年の頃の社会主義で、共産主義へとイデオロギー化する前の思想のリサーチをしていました。そこに至ったのは、市民社会論という国、企業、家庭などが担保できないところをコミュニティが担保できると言う考えをもっていたからなのですが。コミュニティとはなにか?とおそらく大学のときからずっと考えていたんですよね。
——なるほど、そうだったのですね。大学時代にNGOでも活動されていましたよね。
NGOにいたときに、アドボカシー(政策提言)というものが存在するとを知って、マーケティングは売るためだけではなく、ある情報を多くの人にあまねく知ってもらう民主的な選択肢のひとつだと思っていました。デモやニュースになるように情報発信、オンラインで署名を集めることもすべてマーケティングなんですよね。
NGOでは、資金集めや、人がアクションをするためのマーケティングをしてきたので、コレクティブアクションが社会を変える可能性があって、自分のビジョンに近づくひとつのツールであることを納得していました。1人じゃできないことを100人でやることの強さを間近で感じていたんですよね。今はトレンドになってきてしまって、多くの人が消費している「コミュニティ」に対して飽きてしまってはいますが、それでも今でも、コレクティブなアクションを起こしたらどう変化するのかなとかすぐ考えてしまうので、思考回路がそちらにあるのは事実ですね。
——NGOの活動でコレクティブアクションが世界を変える可能性があると体感したShinoさん、大学を卒業したあとはどのようなキャリアを重ねたのでしょうか。
インドの農村部で見た、誰もみたことのないビジネス
2007年からの6年は、途上国に関する仕事をしていました。女性の起業支援として、お金を与えて、返済してもらう、バングラデッシュではじまったマイクロファイナンスというものがあるのですが、ちょうど最盛期にマイクロファイナンスを使ったローカルなマイクロ起業(Micro Entrepreneur) に関するリサーチを行っていました。
実はその中でもおもしろいことがあって、インドの社会起業家、Drishtee(ドリシテ)のCEOとたまたまニューヨークで、バスが隣になって話したんです。ドリシテは、ヒンドゥー語で「ビジョン」という意味で。社会起業家と日本の企業を繋いでプロジェクトを起こしている話をしたら、その晩、彼が他の投資家から呼ばれているパーティに連れていってくれたり、そこから連絡をとりながら、6年くらい一緒に仕事をしたんです。セレンディピティってあるんだなと実感したのと、ものすごく尊敬する人だったので、相手からなにか得て自分が儲けようとは思わないで、そのドリシテという会社にとっても有益になるようなものしかやらないって決めていました。
ドリシテはインドのIT系のコンサルタントだった3人で起業してはじめた会社だったのですが、農村部にITハットという、インターネットカフェを置いて、インドの農村部の人たちにマイクロソフトオフィスを勉強させて、エクセルなどを使えるようになってもらい、農業の閑散期に、世界中から仕事をとってきて渡すようなことをしていました。
彼らと6、7年働いたときにコミュニティビジネスはどうあるべきか学んだんですよね。対話の仕方だったり、価値観の違う、農村部の貧困層と言われる人たちと、今までITコンサルタントだった彼らが対等に座って話をしている姿を目の当たりにしたのです。資金繰りが苦しかったときに、3か月間給与が払えないときが発生したんです。そのときに社員に、「ごめん今月本当に払えないし、いつ払い始められるかもわからないから、僕たちは頑張るけど、無理だったら去っていいから」って伝えたというエピソードがあって、インドは大体の場合、すぐ転職できるのに、みんな残って3か月無給で全員働いたらしいんです。
チームを支えることや、柔軟性や、人を大切にする会社の経営の仕方も学んで、私のロールモデルはそこにあるんです。
あと、受けた親切を、新しい親切でつないでいくこと、ペイフォワードのような考え方があります。私が誰かのキャリアをサポートするのは、私がキャリアをサポートしてもらった過去があるからなんですよね。日本総研の上司がそうだったんですけど、私が起業すると言ったときにすごく応援してくれて、そのときの仕事があったから今のIHTはやっていられていると思います。
——Shinoさんの原点は、ここに。セレンディピティからはじまったドリシテとの縁から、実際に現地で体感したインドでのエピソード。IHTには独特の文化があるように思うのですが、その理由を垣間見たきがしました。
日本にそういう場所がなかったから作ってみようと思った
私はドリシテ側が多国籍企業と対等に付き合えるように能力構築をすることが役割だと思っていたんですけど、役割が終わったなと思ったときに、日本には、同じような同じ価値観の人が集まるような場所がないなと思ったのです。ドリシテがインドで成功できているのも、インドの中にスタートアップのエコシステムがあったからなんですね。Acumen(アキュメン)という世界的なネットワークがあるのですけど、アキュメンから投資を受けた社会的起業家は国境を越えて、横で繋がって仲が良いんです。彼らが経営について学び合っているのを見て、価値観が似てたり、同じようなコミュニティに対するアプローチがある人が世界中と繋がっていて、そこから学ぶってすごいことだなと思ったんです。
それでロンドンの私の住んでいたところの近くにImpact HUBがあったので、イベントで気が付いたら毎日のように通っていて、これはメンバーになったほうがいいなと思っていた矢先、日本に帰国が決まったんです。
このネットワークから途切れるの嫌だなと思って、「日本には今、私と価値観が似てたり、ビジョニングするような起業家たちが降り立つ『空港』のような場所がないから、空港を作りに帰る」という話をしていたんです。だからそういうコンセプトではじめたんですね。実際立ち上げるのは、不動産含めすごく大変だった部分もありました。妄想や空想と実行は必ずしも一致しないんですよね。でもリスクを考え始めたら、始まっていなかったと思います。
——なるほど、やっぱりビジョンして見えていた未来があったのでしょうか。
私の頭の中にある世界観で、コミュニティや、起業する人たち同士が繋がって、誰も作らないようなビジネスモデルできちんと回るものがみえていました。インドでドリシテがやっているのを見ているから、できるはずだと思っていました。彼らは、貧困層が集まるようなところで起業するなんて無理だと周りが言っていたことをやっていたんです。それはもう、友達、社会的資本、信頼、リソースをすべて使っていましたけれど、きちんと集まるようなエコシステムがあればできるんだなと思いました。
価値観にあったものがすぐ手に入る贅沢な時間や空間の提供へ向けて
——今はどんなビジョンの実現に向かって動いているのでしょうか。
事業のコミュニティという意味合いが強かったんですけど、これからは私たちの価値観をベースにした贅沢な時間や空間が、もしかしたら提供できるんじゃないかなと思っています。
Eコマースがここまで発達した現在、それぞれの価値観にあわせてサービスが分散化されていくだろうなという気がしています。だから、地産地消的なものもあるだろうし、取り寄せられたものもあるかもしれないですけれど、価値観に合ったものが、身近にすぐ手に入ることが贅沢だと思うんです。ヨーロッパに住んでいたときに、歩いてすぐのところに、オーガニックのコスメティクスが売っていて、デパートで買うよりずっと、贅沢さを私は感じたのです。
——確かに。価値観にあったものがすぐに手に入るって幸せなことですよね。
ウィリアムモリスという近代デザイナーの祖と呼ばれるイギリスのデザイナーがいるのですが、私は大学時代に、彼について研究をしていました。彼は貧困層のような扱いを受けていた人たちに、自分の家を壁紙で緑で溢れるようにしてあげられるようにと、布の壁紙から、紙の壁紙へと変えて安価に提供して大ヒットしたんですね。彼はデザインの力を使って、あまねくすべての人に、ちょっとした贅沢を提供できるようにしたのです。商業なのですが、民主的であって、QOLが良くなるように、かつ生産プロセスも、アーティストたちが賃金を手に入れられるような工場を作ったりしていたんです。そういうものを提供できたらと思っています。
——ビジョニングで誰もイマジネーションしていない世界を、次々と打ち出していくShinoさん。その発想や行動力の秘密に迫ることができた気がします。インドでの経験から人を大切にしながら、チームを支えるShinoさんの原点も垣間見た気がしました。
次回はどんなストーリーに迫ることができるのでしょうか。乞うご期待です!過去のチームインタビューはこちらのマガジンに保存されています。こちらもぜひご覧ください。