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「努力をしよう」と言いづらい社会なった。

日本社会のさまざまな部分で"現代的"格差が拡がっているため、いわゆる「弱者側」の声がネットではどんどん大きくなっている。
このこと自体は社会問題であるのだし、そういう空気が醸成されていくこと自体はもちろん悪いことではない。しかしある格差の改善が別の格差を生む、等、問題は複雑に絡んでおり、解決へ向かう希望の兆しがほとんど無と言っていいほど見えない暗黒の時代をわれわれは生きていかざるをえない。
男女格差、世代格差、個体としての格差などがネットにおいて議論される風景はTwitterなんかでは特に可視化され、嘆き、議論、そして闘争が繰り広げられている。

もちろん近代以前の身分の格差はもっとえげつないもので、人類は "進歩" して是を克服してきた。医療も社会の厚生も発達し、「生存」というレベルでの最低限の生活は昔よりもずっと安定化してきた。(その進歩が高齢化問題などの別の問題を生んでいるという事実もある)
少なくともインターネット環境を持つことができて広い範囲に向けて意見を自由に言えるだけの暮らしは多くの人が出来ている。
どんな時代も格差はあったし、これからもそれは変わらないだろう。これはハッキリ言っておきたい。

自殺者数はたいして減らず、精神疾患、発達の障がいを持つ人はネットによって可視化されてきた。(データを見ていないので、そういう属性の人たちが本当に"増えた"かどうかはよくわからない)
この文章では強者と弱者、あるいは「定型発達」をした人間と「そうでない人」との軋轢について思うところを少し書いてみる。

産業や景気の変動によって、あるいは文明の高度化などのマクロ環境を背景に、社会に適応することが困難な人が増えた (と仮定する)。個別的には生得的なものなのか、生育環境によるものなのか、原因もさまざまだろう。個人のレベルでは、あまり好きな言葉ではないのだが、社会に生きる個人としての 「勝ち組」と「負け組」の二極化がひろがっているのは事実だと思う。

個々の格差が縮まることを理想だとして、しかしネット上の言論を見ていると分断を深める言葉が多いように感じる。
タイトルにした「努力論」もそのひとつで、対立の内容についてうまくまとめるのは難しいと思うけれど、自分に見えているものを書いてみる。客観視と主観を分離するのは困難なので、あくまで私の印象だ。

「努力すれば報われる」と言っている人たちがいる。らしい。こんなものは報われる場合も報われない場合もある、としか言いようがない。努力という行為が、望んだ "結果" になるには、複数の因子が絡み合っている。
"反努力論側"だって、それくらいはわかっているはずだ。彼らが腹を立てているのは、そのミクロ/マクロの因子を無視して (あるいは意識せずに) 「努力すれば報われる」と言いきってしまう「勝ち組」の無神経さ/ある種の暴力性であり、換言すれば 「弱い側の気持ちなんてお前らはわかっていないじゃないか」「お前らみたいなのが俺たちが生きにくい社会を作ることに加担し、虐げる悪なのだ」ということを言いたいのだろうだろうと思われる。そう思う気持ちは理解できる。
そしてこの視点から発せられる嘆きや叫びはたくさんの共感を(とりわけTwiiterでは)集める。

ここで、私がそうした言説を見ていて「引っかかる」部分がある。
いわゆる「勝ち組」をシンプルに悪として一括りにしすぎな点だ。仮に「弱者がうまくいかないのは自助努力が足りないからである」という無神経な強者の物言いに抵抗するのであれば、強者側、つまり 「人生うまくいった側」 にだって多様な因子があるということを無視している。「俺たちの気持ちなんてお前らはわかっていないじゃないか」は、"うまくいった"側だって同じことを言えてしまう。

また、その「一括り」に関して、かなり暴力的なことを言っている人たちがいる。「強者はサイコパスである」「やつらの大半は自己愛性パーソナリティ障害である」みたいなことを毎日のように言っている。むろんそういう人もいることは私も実人生においても知ってはいるつもりだ。自己愛性パーソナリティ障害=ハラスメント人間、みたいな決めつけも多い。もちろんハラスメントは悪いことなのでなくなっていくべきだ。
しかし、「人生がうまくいっている人間はクズ人間が多い」みたいなレッテルは、「発達障害の弱者はダメ人間である」と、たいして違わないのではないか。
「弱者属性でも定型発達の人間と同じように生きられるようにすべき」 という主張があるとするのならば、雑なレッテル貼りは自陣のイメージにマイナスに働き、分断を深めるだけだと思う。

何らかの弱者属性を持っているために社会にうまく適応できない苦労を広く認知してほしい、という思いを抱える人たちのネットの共感連帯の「目的」が、強者属性を持つ人間への「雑な敵意」となった結果、お前たちなんかに手を差し伸べたくないよ、と思ってしまう人も多いだろう。
また、「発達障害でも妻子を持てた時点で勝ち組だ」という意見もあり、属性内部でも分裂が起こっている。弱者も言葉や態度によっては暴力/権力、ハラスメント主体になりうる。
ある種の変形型階級闘争と言ってもよいだろう。誤解を避けるために言っておくと、つらいのはもちろん弱者のほうだ。

弱者と強者という言葉をつかってきたが、どちらの側も個体としての実態は多様だし、きれいに二極化できるものではなく、弱者と強者のあいだはグラデーションになっている。

「努力をすれば報われる」かどうかなどわからないし、グラデーションのなかで上位に行くほど、努力は報われる傾向はあると思う。本人の身体・精神的な性質、生まれ育った環境などによって社会に適応しやすい人としにくい人はいる。弱いほうは、一生かけても縮まらない差があることを知っているから、ネットに怨嗟の言葉が渦巻く。

私は業務上発達障害の方と多く関わっているし、彼らの持っているポジティブな部分を、自分が責任を負う組織にどうやって貢献させていけるかを常に考えて、コミュニケーションしている。
しかし、ある程度の「努力」は強いる。私の立場として守らなければいけないのは彼らの生活であると同時に、会社組織の売り上げや利益でもある。正規非正規などの問題は当然あるけれど、企業が成長すれば雇用も増えるし、労働者の雇用は安定化する。

今の時代、「組織のための努力を強いる」ことすらハラスメントと言われたりする。もちろん程度にもよるけれども。
ハラスメント上司もまだまだ多いと思うけれど、モンスター部下だって明らかに増えている。強者と弱者が逆転しているケースが多い、つまり定型発達が発達障害に苦しめられているケースもある。
給料をもらいながら「嫌なことはしたくない」と言う人を際限なく許容することは、不可能だ。
「努力はしません」とハッキリ言われたことはないけれど、もし本気でそう思うのならば、人生が好転することはないだろう。努力をすることがなかなか出来ないタイプだけども、自分にできる範囲でやれるだけのことはやります、という意欲が見えるなら、私は出来るだけのサポートはする。

努力という言葉を使わなくてもいい。この言葉は、もはや使ってはいけないものになったように感じる。
しかし、自分が置かれている環境、不幸にも自分自身の持ってしまった性質、それがあまりにも自分ではどうしようも出来ないものであったとしても、ほんの少しでも不安を減らし、人生をわずかでも良いものにしたいと望むのなら、けっきょくのところ「なんとかしよう」とあがくしかない。あがいた結果何も変わらなかったとしても、あがく者にだけ「可能性」が生まれる。

いわゆる努力論者みたいなことを言ってしまったし、あの「界隈」にはこんなことを定型のお前に言われたかないよ、と思う人もいるだろう。それでもしかし、こういうことを言う人間がいたっていいだろうと思う。

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一発買い切りです!

エロ / 色恋 / 育児教育 / 時事ネタ / 労働 /エロス / 人生 Twitterでは言えないこと・言いきれないことなど、上記ネタを…

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