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フェルメールのように生活を美しく切り取る「odol」

フェルメールといえば、庶民の日常生活を切り取って絵にする「風俗画」が有名だ。

昨年、上野の森美術館で開かれた「フェルメール展」に足を運び、生活を切り取る美しさを目の当たりにして衝撃を受けた。

1664年頃の作品、「真珠の首飾りの女」。鏡の前に立つ女性の柔らかな表情は、好きな人とのデート前に、身につけるネックレスをワクワクしながら選んでいるかのように見える。

何気ない日常の瞬間でさえも、外側から絵として切り取るとこんなに美しくなるんだなと、とても感動した作品だ。

先に言っておくが、私はまったくもって美術に精通していない。ただただ自分の感性で絵を見て、何かを感じるのが好きなだけであり、述べているのは解説ではなく私の解釈である。

1660年頃の作品、朝食の支度を思わせる「牛乳をそそぐ女」も、生活の一部を切り取ったものだ。

フェルメールは、現存する35作品中、このような風俗画を28作品残しているという。個人的な解釈だが、日常そのものの美しさをフェルメールは知っていて、それを伝えたくて風俗画ばかりを描いたのではないだろうか。

繊細な日常の描き方をする「odol」

「odol」というバンドも同じように、生活を美しく見せる力があると私は思っている。

手紙の中身に 君なりの個性があって
並べたその文字に見惚れた
君の住む街に四月の花が咲いて
黒く染めた髪が舞う 季節を数えた
その白い肌に月が映り込んで 
化粧をする君に並んだ

ファーストアルバム「odol」の最後に収録されている曲、「生活」。
化粧をしている女性は、この場面で美しさなどきっと感じていない。化粧ノリの良し悪しでテンションが変わってくるぐらいだろう。

しかし、この歌詞の主人公であり女性の恋人であろう男性から見ると、その光景はとても美しく尊いものであることがうかがえる。

暮らしの中には、本人はなかなか気づけない美しさが内在している。私たちの「生活」とは、常にそういう曲面をもっているという気づきを与える歌詞だ。

この後の歌詞には、こう続く。

火が灯る前の朝と夜の間に 
街の光も届かない いつかの君と見た
映画の最後の曲とか 
二人抱きあうあのシーンとか 
覚えてないだろう? 
それでいいけど

夜に化粧をし、朝になる前の時間帯に映画を見る。

ひよっとすると、この男性は夜に働く女性と付き合っていたのではないかと読み取れる。別れてしまった後の思い出を回想している曲だろう。

繊細な言葉選びは、まるで小説のようで文学的だ。

抑揚のない日々も 
いつかの情熱も 
ここに居て欲しくて 土曜日を捨てていた

曲が始まり、3拍目に音が洪水のように押し寄せてくるのは、同じアルバムに収録されている曲「愛している」。

この曲も、日常の一節を切り取った歌詞だ。土曜日しか休みがない女性だったのだろうか。odolは、それぞれの歌詞に出てくる女性像を想起させるのが上手い。

一般的に、歌詞は具体的に人物像やストーリーを描きすぎると、リスナーが自分のものにしづらいと言われるが、odolの場合は逆だ。

上であげた2曲のように、想像しやすい人物像を細部に描くことで、実際にその人たちの生活があるように感じられる。それがまた絶妙に抽象的で、かといって抽象的すぎないため、聴く方はある程度自分の想像も付け足しながら曲中の人物に思いを馳せることができる。

ボーカルのミゾベさんは以前、ツイッターで、「今日は晴れていたから良かったとか、けれど雨が降るとあの喫茶店のスタンプが二倍だから傘さしていってしまうとか、そういう微妙な、他人にとってどうでもいいようなところを歌詞で表現したいのかも」と呟いていた。

根本の部分でそのような考えがあるミゾベさんだからこそ、生活をこのように美しく切り取ることができるのだろう。

直接的に応援するでもない、苦しみに寄り添うでもない。しかし、目の前にあるもの、生きているこの瞬間を見つめ直させてくれるのがodolの曲だ。

美しさと儚さを引き立てるサウンド

なんでもない日常のワンパートを美しく感じさせる要因は、歌詞だけじゃない。人物の描き方が俗っぽくなく小説のような品を感じるのは、サウンドの影響も大きいように思う。

ファーストアルバム「odol」は、全体を通して轟音のギターが前面に出ており、対比的に歌詞の儚さを引き立たせる。
先ほど紹介した「生活」のサビで迫りくるのは、感情が張り裂けそうなファズのかかった轟音ギター。アウトロには、どこにもやれない苦しみを吐き出すかのようなギターソロが来るのだが、ライブで聴くと本当に心を掴まれて毎回号泣してしまう。上記でこのアルバムから2曲紹介したように、私はこのアルバムが大好きだ。

セカンドアルバム「YEARS」は、ファーストの轟音ギターの香りを残しつつも音数が減り、ボーカルが前面に押し出された作品になっていたり、サードアルバム「往来するもの」は、ストリングスなどさまざまな音が増え、表現に広がりが出ていたりと、アルバムをリリースするごとに曲調が少しずつ変わっている。だが、どれもどこか陰鬱さを含んでいる。

その陰鬱さが、美しい歌詞に儚さや苦しさ、切なさなどの複雑に絡み合う感情を与えていて、シンプルにはならない私たちの生活を、ひとつの曲としてパッケージングしているように思う。

最近リリースされたシングル「身体」では、さらに繊細な感覚で歌詞が綴られているように思う。轟音のギターは封印され、やわらかく優しい、包み込むような楽曲になっている。

どんな温もりも肌を通せばぬるい気がした 
いっそ身体はもういらなくなっていた

絵画のように、小説のように映される「生活」

odolのピアノで作曲者の森山さんは、「odolは音楽を芸術と認識している」とインタビューで述べていた。私も、odolの音楽は絵画的であり小説的だなと思う。

生活とは、暮らしている本人にとっては決して美しいだけのものではない。苦しい日もあれば1人でいられないくらい寂しくて切ない日もある。明けてほしくない夜だってある。しかし、外側から、第三者から切り取って描いた「生活」は、儚くて美しいものになりうる。

それを教えてくれるのがodolというバンドの魅力だ。
いつも耳からその概念を思い出せるのは、なんて素敵なことなんだろうと思う。生きていれば様々なことがあるが、きっとどの瞬間、どの場面も美しい。

odolを聴いていると、今ある生活をぎゅっと抱きしめたくなるのだ。

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