大人になってわかること
「死ね」
声変わり前のまだ幼さが残る声色でそう囁かれた時、私は何を思っていたんだっけ?
先日、koalaさんという方の『いつの私と会ってくれる?』という記事を読んで、まったく関係ないのだけれど、あることを思い出した。
小学5年生の時だった。帰りの会の最中、隣の席の男子の声が私の耳元で囁いた。
「死ね」
先生が連絡をしている声、周りが雑談をしている声。全ての音はぼんやりと聞こえ、その言葉だけがはっきりと耳に届いた。少し笑いも含んだような小さな囁きは、語尾を吐息にかき消される。それは一度ではなく、何度も私にしか聞こえない音量で流された。
私といえば、驚くほど淡々とその言葉を右から左へ受け流していた。それは席替えをして直後のことで、彼は私に「死んでほしい」ほど隣の席になるのが嫌だったのだと直感的にわかっていたからだった。だから、家でも「死ねって言われちゃった」と笑いながら言うことができた。口調からも「からかっているだけ、本当に死んでほしいなんて思ってない」と静かに理解していた。
だが、周りはそれを楽観的には受け止めなかった。
その話をした直後、親は学校に連絡し、事態は思っている以上に大事になった。結局、親が学校で担任の先生と話をすることになり、私は親に連れられて放課後の教室に行った。そこでは、彼が先生と向き合って座っていた。彼は瞼が赤くなるほど泣いていて、懸命に零れる涙をぬぐっていた。そして、泣きながら「ごめんなさい」と謝ってきた。なんだかこっちが申し訳なくなるくらい彼は泣いていた。私は、そんな気持ちでいっぱいになりながら、彼を許した。元から怒ってはいなかったし、傷ついてもいなかった。その時は、こっちの方が彼に「ごめん」と言いたかった。
あれから十何年経った今、このことを過去の出来事として傍観できるようになった。今思えば、彼の行為に胸が痛み、私は他人事のように「死ね」と言われたと話したことが恥ずかしい。自分は死という言葉と真剣に向き合えていなかった。事実、数年後、私はそんなことも忘れて彼に恋をしてしまう。目の前のことしか見えていなかった子どもの私は、本当に馬鹿だ。大人になってわかることは、時に自分を我に返らせる。