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あなたの海に溺れてー花瀬いをりさん『ねえ、どこへ行くの?』『君は冷たいね』

花瀬いをりさんの文章は、海のようだ。
海水の中にいるように他に介入されることなく、ただ文字の声だけが静謐な世界に心地よくただよう。降り注ぐ陽光は、決して届かないとわかっていても、頭上で揺らめくそれにどうしようもなく胸を締めつけられてしまう。

Twitterを始めたばかりの頃に出逢った彼女の文章の、空気感、感性、言葉のチョイスに、一瞬で虜になった。

140字小説もさることながら、長文でも花瀬さんの紡ぎだす世界は素晴らしい。

「ねえ、どこに行くの?」「君は冷たいね」の短編二作。

「ねえ、どこに行くの?」は、恋人のような二人のなにげない日常の一ページを切り取った作品。二人の掛け合いが印象的で、二人の間に感じられる温度や、語り口から私のきみへの愛おしさの強弱が切なさとなって伝わってきて、等身大の愛がほほえましい。両想いに見えて、実は片想いなのかなと思わせる作品だった。

「君は冷たいね」は、歪な愛を描いた作品。前半から後半にかけての流れが自然で、明かされた事実に驚かされた。真実を知ってから読むと、二人の会話の無機質さや、"見えているものだけがすべてとは限らない"という言葉の痛々しさが伝わってくる。"ぐちゃぐちゃに残された魚の骨"という言葉が、現実と理想の間でかき乱される私の心情をうまく表現している作品だった。

ストーリー、セリフ、花瀬さんの感性がひかるところはたくさんあるが、特筆すべきは繊細な筆致だ。

深い藍色の海の底で、文字たちがゆたゆたと揺蕩っている。そして時折、水面に顔を出し、小さく息継ぎをくりかえす。
そんな風に、花瀬さんの文章は、いつだってどこか憂いをふくんだ空気をまとっている。誰かを求めて切ない夜も、誰かと幸せを育む時間も、同じ海の中で物語は息をしている。でも、ずっとそこにいるのは苦しいから、句読点を目印にして、ぽつぽつとつぶやくように言葉をとぎれさせる。そうすることで、より淋しい雰囲気を演出しているように感じられた。

そして、海底に棲むものたちがそれぞれの色彩を輝かせながら、物語の本質を知らぬうちに映し出す。
物語全体の色使いも綺麗だ。背景の色彩も自然と物語の本質を後押しする。

「ねえ、どこに行くの?」では、

うすくて、つめたい。灰色の空気。吸い込むと、少し排気ガスのような苦い味がして、飲み込むのを躊躇ってしまった。迷って、赤色の手袋に包んだ手のひらをくぼませて、その空間に、そっと吐き出す。
もしかすると、きみの手は生で溢れているのかもしれないけれど、分厚い手袋をした私には届かなかった。私も握り返す。きみだけは私の熱で、あたたかい思いをしてほしい、と、思う。

物語は幸せでほほえましいのに、二人を取りまく背景は灰色、とどこか暗い色をしている。そのためか、私の手袋の赤色だけが二人の愛情、体温をいっそう強く印象づけるものになっている。

一方、「君は冷たいね」では、

窓にそっと目をやると、濡れた硝子の奥には鈍い、昏い空間が広がっている。室内は蛍光灯の、淡い橙色のひかりに照らされている。橙色に似合わないほど、この部屋は冷たかった。ひかりの前で揺れる埃。外から見れば、この部屋の中は温かいひかりに包まれているのだろうか。

物語は淋しくむなしい感情を孕んでいるのに、二人がいる部屋はあたたかい色で満たされている。そうすることで、私の闇、言動とは裏返しの感情が浮かび上がるように伝わってくる。

最後の最後で小さな波によって、海面の色は鮮やかに変化する。
最後の一文の変化がたまらなく胸に焼き付いて、後を引く。
「ねえ、どこに行くの?」では、物語の背景で鳴いていたうみねこが最後の一文でこう変わる。

学生たちが、わあわあ、と電車に乗り込む中で、耳の奥ではずっと、うみねこが、泣き続けていた。

「君は冷たいね」では、物語のすべてが込められた一文で終わりを迎える。

誰かと一緒に居たい夜。かたちを失くすほど、痛い夜。

意図しているのか、そうでないのかは定かではないが、これは確実に彼女の感性がなせる技で、私はそれがひどく羨ましい。ずぶずぶとはまっていった花瀬さんの文章の海の中は、透明でうつくしく、どこまでも広がっているような気がする。私は一生、彼女に憧れ続けるのだろうなと思った。

最後に、このノートを書く時、花瀬さんのあるツイートを思い出した。

小説の中は水中と似ている。わたしは息を止めて文字を追って行き、苦しくなったところで本を閉じる。上を向いて、息を吸って、気づく。これは息継ぎなのだと。わたしも、苦しくなって、何度も息継ぎを要するような話を書きたい。わたしの話で誰か溺死してくれたらいいな、と思っています。

この言葉を見た時はまだ、花瀬さんを知って日が浅かったので、素敵だなぁ、ぐらいにしか思えなかったのだけれど、今ならはっきりと言える。

私は、あなたの海に溺れています、と。

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読んだ作品📖
「ねえ、どこに行くの?」
https://note.mu/iwolily/n/nc3319ca658b8


「君は冷たいね」
https://note.mu/iwolily/n/nbe8a629696c7

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