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~『北緯43度から見た二つの椅子』という演劇作品が出来上がるまでの創作日記~ 作家のひとりごと 第1信

 今回の作品で扱うゴッホとゴーギャンというと、絵画の作品は勿論ですが、お二人が書き残した手紙がとても印象に残りました。 

 二人が生前残した手紙の数は、合わせると約数千にも及びます。それらは家族、友人、同僚宛に書いたものなど日々の悩みや、作品のこと、生活のことなど多数です。     

 それらは、ほぼほぼ毎日のように書いていたのではないかと推察しました。
 
 この企画は、二人の画家には、到底及ばないけれど、せめて自分が出来ることはやっていこう、実験的に出来る限り自分の創作過程を残して行こうという、一人の劇作家の思いつきです。

 公表する企画がなかった為、溜まりに溜まったバックナンバーから更新を始めます。

 中には当時誤解していたものも含まれるが、その点はご容赦頂きたく存じます。

 読んで行く中で、世の中、こんな馬鹿な奴もいるのだと、温かい目で見てもらえると嬉しいです。

 では早速、第1信からどうぞ。

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2024/2/1 第一信

 今、とある企画が持ち上がっている。

 それは『ゴッホとゴーギャンという美術界の巨人達の二人芝居を創る』という無謀とも云える企画だ。

 時は遡って、約10年以上前。劇団を始めて2、3年の頃のこと。

 札幌市琴似にある、とある古書店の一角で、二人の芸術家が南フランスアルルにある黄色い家でたった2カ月間の共同生活をしたという内容の絵本に出会った。

 ただ立ち読みはしたが、抱えている劇団の公演もあったし、「画家がねぇ。そんなことあったんだ。へえー」位の感覚で、その時は終わった。

 それから頭の引き出しの中で、寝かせて寝かせて何年も過ぎて行った。

 何がきっかけだったかは、思い出せない。

 ただ、何がやりたいか?という企画会議の中で、突如としてこの企画は登場し、僕は気付いたら二人の日記を昼夜問わず貪るように読み漁っていた。

 調べて行く中で発見した、ゴッホさんの憧れた日本の姿。ゴッホさんが思い描いた日本の芸術家達の理想の姿。

 当時の南フランスのアルルは、雪が深々と降っていて、乾燥していて、風土的に北海道と近かったのではないか?
 
 そして驚くことに、南フランスアルルと、私の住む札幌は、同じ北緯43度の線上に繋がっている。
 札幌でいうと、清田区の市役所辺りが北緯43度線上にぶち当たるという衝撃。

 そして何より、ゴッホとゴーギャンが二人暮らしをした年齢に、僕自身がドンピシャだったこと。
 
 あらゆる偶然が結びつき、僕は早速、定期的に日々の自己鍛錬の為に集まっている和泉と雲君にこの話をした。

 二人共、面白がってくれた。半分話は聞いてなかったけど。

 下記の文書は、二人にまず見せた草案の一部だ。

 ここから事実確認や追加資料の確認などであらゆる角度から検証を行っていくことになる。

 進めて行く中で、変わったことも多々あるので混合しないよう、ご注意。
  
 
■タイトル

 「向日葵と椅子ーゴッホとゴーギャンの奇妙な共同生活ー」

■コンセプト
 天才画家二人による奇妙な共同生活。ゴッホのひまわりはこうして生まれた? 

・絵画×演劇
・二人の価値観の異なる画家
・アートとは?
・絵画版アマデウス
・リアリティー(現実)vsイマジーション(想像)

■キャッチコピー
 あなたとの思い出に、ろくなものはございません

■覚え書き
 なぜ今、この作品なのか?ずいぶん前に映画にされていそうなこの題材をまた新たに拵えて、今ここで上演する必要があるのか?その問いについては、些か答えるのに時間が掛かるような気がする。

 アート。とりわけ、絵画の分野で歴史に名を残した二人である。当時の彼らの年齢に、今この文書を書いてる私も近づいた。やっていることは、ゴッホやゴーガンとは異なるものの、アートという広い分野では同じことをしている。当時の彼らと同じく潤沢な金はないし、生活は大変で、周りに頼って生きている。かと言って良くなる兆しもない。

 長くなったが、同じ分野で頑張るライバルのような二人の創作現場、そこで生まれる化学反応、セッションを描きたいという思いが以前からあった。

 そういった人間関係の間には、妬み嫉みと言った感情が生まれて来るものではないかと思う。人は基本、相手よりも優位に立ちたい生き物だ。それは年と共に強くなるような気がする。でも、それらは傍から見たら滑稽で、団栗の背比べだったりする。

 僕は、他者から見たらどうでも良いことに、異常に拘を持っている人間を見るのが好きだ。それは僕自身がそうだからかもしれない。

 今回取り上げるゴッホとゴーガンは、それぞれ出事は異なるが、舞台となる1888年の二人の状況は近いものがあった。

 ゴッホ、ゴーガン共に金もなく、ゴッホは弟テオに生活の一切がっさいを頼りっぱなし。描いた絵画は全く売れず、株の大暴動もあって買い手もいないジリ貧状態。

 そんな中、弟の情けでゴッホに差し向けられたのが、ゴーガンだった。ゴーガンは顎足の保証とそこで描いた絵を買うというテオの条件に了承し、アルルにやって来た。ゴッホのアルルにある黄色い声で、芸術家共同体を創るという目的で。選り好みで決断が罷り通るなら、ゴーガンはゴッホの元には行かなかっただろう。他の画家達でゴッホの誘いに乗るものはいなかった。

 恐らく、ゴッホにはきっと親しく話せる友人がいなかったのではないか?そんな妄想がフツフツと浮かんで来た。

 演劇には他者との出会いがある。それは過去何百年、変わらずに今も残り続けている。二人の出会いが観客に何を齎すのかは、まだわからない。

 ただ、単なる友情ドラマにはしたくはない。友情という易い言葉で終わらせたくはない。観て下さった方が、これまで数多の方々との出会いを通じて感じた負の感情を肯定してくれるような作品にしたい、そんな願いを密かに持っている。

 最終的には袂を分かつ二人の関係を観る中で、それはある種、悲劇的に映るかもしれない。しかし、それは取りようだ。チャップリンの言葉にもあるが、人生はクローズアップすると悲劇だが、ロングショットだと喜劇だ。少し目を細めて喜劇と謳う。どうせならうんと笑える喜劇が観たい。

 二人は、それぞれ別れた後も相手を想い、絵を書き続けていたらしい。二人の関係はそれからも続くのだ。

 人間関係を描く上での最良の手段として僕は演劇を捉えている。この二人の関係にとにかく興味があるのだ。

 僕は、まんまとこの二人の言動に惹かれてしまった。そこで何が起こったのか、どのようなことが起こったのか知りたくなった。それが今の思いだ。それを擬似的にでも再現出来るのが演劇の素晴らしい点であると僕は思う。

 芸術家というのは得てして面倒くさい。面倒くさい奴を相手にするのはもっと面倒くさいと思うが、世の中は大抵、大事なことは面倒くさい。

 じゃあいい歳になって、付け焼き刃で終えられそうな近い題材を選ぶよりも、手に負えないような大物に挑んで行く心意気が今必要な気がして、これを選んだのです。

■あらすじ
 天才画家と謳われるゴッホとゴーギャン(ゴーガン)。当時世間から認められることもなかった貧乏画家二人の共同生活。

■いつ 
1888年9月16日
※その冬、異常気象でこの地域には雪が降った。

■場所
アルルにある黄色い家
※アルルについて
 フランス南部のプロヴァンス地方にあるコミューン。同国内最大面積を持つ。住民の呼称はアルレジャン(Arlésiens)と呼ばれる。

 アルルは地中海性気候で、暑く乾燥した長い夏、穏やかな冬という対照的な季節があり、日照時間は長いが降水量が安定しない。

 アルルは温暖な地中海性気候といわれますが、冬場はかなり寒くなります。地元の人もダウン、厚手のコートなどで防寒をしている。

 雪はめったに降らないようですが、冬場は最高気温は5度くらいの日もあります。夜はより冷え込むので街には人はほとんど歩いていません。

 日本の冬の服装(東京など)で行きましたが、ちょうどよかったです。登場のアルルには、田園地帯が広がる一方で鉄道が走り、近代的な工業が発展しようとしていた。

■登場人物2人

ゴッホ(36) 

 本名はフィンセント・ファン・ゴッホ。
 オランダの牧師の家に生まれ、27歳で画家になる決意を固め、亡くなるまでの10年間に、素描も含め、2000点以上の作品を手がける。生前に売れた作品は一つしかなかった。

 ゴッホは理性がある内は冷静に物事を判断でき、洞察力・判断力にも優れるが、いったん感情が高ぶり理性を上回ると歯止めが利かなくなり、自分の行動や思考を抑制するのが難しい。

 思い込みが激しく、人の役に立ちたいという思いが同居しているがいつも空回り。周りからもうざがられている。
 生活の一切がっさいを弟で画商をしているテオに面倒をみてもらう。

 ファン・ゴッホは1888/2/2。南フランスのアルルに向けてパリを出発する。彼はそこで画家仲間との共同生活を計画した。  

 到着時、アルルでは雪が降っていた。日本を敬愛していたゴッホはアルルに降る雪を見て、ここは日本だと感激した。

 ゴッホはアルルに芸術家共同体を創ろうというのが目的だった。
 しかし知り合いの画家達にアルルに来るよう手紙や絵を送り続けるも相手にされない。
 なぜなら皆、ゴッホの面倒くさい性格をわかっていたから。

 そして程なく、画商をしている弟テオの働きがけでゴーギャンがやって来ることに。弟のテオはゴーギャンに交渉した。

 「顎足、そこ(アルル)で描いた絵は私が買い取ります。」こうしてゴッホが指導者として敬愛する画家ポール・ゴーギャンをアルルに招待した。

 ゴッホは、農民の生活を主題にした初期の作品から、印象派や新印象派の影響を受けたパリ時代の作品を経て、大胆な筆致と強烈な色彩という独自のスタイルを確立するに至る。
 
 とあるが、実際には農民の生活を主題にした作品を書く際には、仕事があるのにモデルをしなきゃならんと農民達からだいぶ煙たがられていたという。やることなすこと空回り。

 ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌとならぶポスト印象派を代表する画家に位置づけられ、表現主義やフォーヴィスムなど、20世紀の芸術に大きな影響をあたえた。

 幼い頃から絵に興味があったゴッホだったが、真剣に画家を目指したのは28歳の時だった。

 画家として活動したのはたったの9年間、そして生前に売れた絵は1枚だけ。ゴッホは亡くなってから評価された画家だった。37歳という若さで亡くなった。

ゴッホに学ぶ、物事をやり続けることの重要性

1. とにかく始めること。 すべてが完璧に整うまで待たないこと。 ..

2.描き続けること。 目標を決めたら、出来上がりの良し悪しに関わらず、達成するまで筆を動かし続けなさい。

3.自分のために働くこと。 よく働いて、自分で物事がわかるようになればなるほど、人の脳はさらに活発になる。

ゴーギャン(40)

 本名はウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン。
 17歳のとき、商船で働き、世界中の海を巡:った。19歳のとき、母親が亡くなる。
20歳のとき、従軍し、希望通り海軍へ配属され、2年間勤めた。

 23歳のとき、母の交際相手のお金持ちのギュスターヴ・アローザの紹介で、パリの一流証券会社に勤め、株式仲買人として働きながら、趣味で絵を始めた。

 その後11年間にわたり実業家として成功し、31歳のときには、株式仲買人として年収3万フラン、副業の絵画取引でも同じくらいの収入を得ていた。

 35歳のとき、ピサロ宛に「画家として生きる!」と決心を伝えつ手紙を送り、会社を辞め、画家として独立する。
 翌年、家族と共に生活費の安いルーアンへ引越すが、絵は売れず、極貧の生活のまま。

 この頃には5人も子供がいた。
 妻メットは5人の子供を連れて、コペンハーゲンの実家に帰ってしまう。その後ゴーギャンもコペンハーゲンへ行き、防水布の外交販売を始めたが、言葉の壁に阻まれて失敗、しょうがなく妻メットが外交官候補生へのフランス語の授業を持って、家計を支えた。

 妻から出て行って欲しいと言われ、37歳のとき、6歳の息子クローヴィスを連れてパリへ戻る。
 パリへ戻ったところで画家として生きていくことはできず、様々な雇われ仕事をこなし、生活は困窮していた。
 息子のクローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校へ行くことになる。

 1886年、第8回印象派展に出品する。この年にピサロと不仲になり、ピサロはその後ゴーギャンを敵視するように…。

 38歳のとき、生活費の安いブルターニュ地方ポン・タヴァンへ移り、ベルナールやセリュジェと出会う。

 そこでは、若い画家たちから印象派の画家として「すごい!!!」と持ち上げられます。
 ここでゴーギャン特有の、単純化した形を太い輪郭線で縁取り、平塗りというスタイル(クロワゾニズム)が出来上がる。
 ただ、この地で出会った仲間の影響を完全に受けている作風なのに、「これはオレが考えた!」と言い出し、周りを敵に回す。

 年末にパリでゴッホと出会います。

 39歳のとき、絵の制作に専念するために、パナマ、そしてマルティニークに滞在しする。原住民の小屋に住んで人間観察をしていたが、病気になり、半年でパリへ戻ります。

 この頃のゴーガンはお金がなく、大変困っていた。ことある毎に「飲み代奢って」と後輩にたかっていた。

 1888/10/23。40歳のとき、ゴッホに呼ばれて南仏アルルの「黄色い家」で共同生活を始める。

 これも、ゴッホの弟であり画商のテオが「君の作品を買うからアルルへ行ってほしい」と頼んだからだった。

 ゴッホから共同生活を始める前に、自画像の交換を求められて描いた作品がある。
 題名の通り、ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンになりきった自画像です。渋い。

 ゴーガンは元海軍軍人、株式仲買人の経験から、ゴッホの下記の点を幻滅し、自身が管理するようになる。

・部屋が汚く、整理整頓が出来ない。
・料理がくそ不味い。テオ宛に送った手紙の中には「絵の具を混ぜたようなスープを作る…」と言った文言も。

 ゴーギャンは、このひまわりを制作しているゴッホの姿を肖像画として残した。

■二人の描き方の違い 

ゴッホとゴーギャンの絵画の描き方の違い。

 ゴッホは激しい筆使い、鮮やかな色彩で知られている。

 一方ゴーギャンは、輪郭性をしっかり描いて面に色を置いていくような、平面的かつ装飾的な画面構成が特徴。

そんな両者の違いが最もよく表れているのは、それぞれの『収穫』作品です。

 一番大きな対立は、ゴーギャンが絵とは画家の内面を表現するもので、必ずしも見たものに束縛されなくてもいいと考えていたのに対し、ゴッホは描く対象を見ながらでなければ絵は描けないと考えていた。

 1886年、33歳のゴッホが、パリに引っ越してきました。

 それまでのゴッホは茶色を基調とした暗い色で描いていたが、パリで印象派のカラフルな絵画を見てからは、作品が明るくなった。

 花はそのカラフルな絵を描く練習にはもってこいのモチーフだったことと、モデルを雇うお金がなかったため、ゴッホはしばらくの間、「花以外は何も」描いていませんでした。

■共同生活の内容

 ゴッホは当初、弟のテオに「2人はいっぱい仕事をして、生活が実に調子よくいっている」と書いた。 

 それに対しゴーガンは「ヴァンサン(ゴッホ)と私は意見が合わない。絵の技法に関しては特にそうだ」と書いた。

 事実ならまったく見解が異なっていることがわかる。

 ゴッホはテオに心配をかけまいとゴーガンとの緊張を伏せたのか、本当にうまくいっていると思っていたのかは定かではないが、少なくとも2人が気持ちよく生活を送っていたわけではなさそう。

 ゴッホはゴーガンとの共同生活で自分の思い描いた生活ではなく、ストレスを溜めていった可能性は大いにある。

 1888年12月未明。
 2人は口論し、関係が最悪の状態になりました。

 事件の1週間ほど前(12/16頃)ゴーガンはかなりゴッホと白熱した議論を交わし、ゴーガンはテオに『2人は一緒に住むことはできない。私たちに必要なのは心の平穏だ』と書いた。

 一方で、ゴッホは、ゴーガンと口論したあとは「頭が放電したあとのバッテリーのようになる」と書いている。

 ゴッホ、ゴーガンともに「価値観が合わず、平穏に暮らすことはできない」と知人への手紙で語っています。 

 しかしその数日後、西の美術館に2人で行き、ゴーガンはパリ行きを取りやめた。

 そして12月23日、ゴーガンの回想録によると23日の夜『私が振り向くと、そこにヴァンサン(ゴッホ)がいた。ヴァンサンは私に言った。あなたは無口になった。だから僕も静かになるよ。と言って立ち去った。』という。

 ゴーガンはその喧嘩が原因で黄色い家を出ることに。

 その1週間後、驚愕の事件が起こりました。憤慨したゴッホは、ゴーガンに馬鹿にされた自分の左耳を剃刀で切り落とした。

 ゴーガンはその日ホテルに宿泊していたが、翌24日に黄色い家に戻ると警察と人だかりができていた。

 また当時の新聞は夜の11時半に『ヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼婦に小さい箱を渡した。中を開けると血だらけの耳たぶの一部が入っており警察に通報した』という。

 共同生活の破綻後、文通はするものの二度と会うことはなかった。

 この時期にゴーガンとゴッホはお互いのことを描いた作品を残していた。

 ゴーガンはゴッホが自身の代表作を描く姿を《ひまわりを描くファン・ゴッホ》という作品に残し、ゴッホはゴーガンが愛用していたのであろう《ゴーギャンの肘掛け椅子》という作品を残している。

 これらの作品からも彼らがお互いに親愛し尊敬していた関係性がみて取れる。

■二人の関係

 ゴッホとゴーギャンが自分の野望と相手の野望との間に揺れ動く。

 2人が関心を寄せるモチーフには、ある種の共通点があった。つまりそれは、人生で何に魅かれるのかということ。
 
 その中で、共に感性が響き合う瞬間があったのかもしれない。

 自身の価値を誰にもわかってもらえなかった彼ら。
 自分の作品を深く理解してくれる仲間と出会う。
 身を焦がすような強い情熱で絵画と向き合う各々の姿勢は仲間として申し分ない。ゴッホは孤独が強かった分、喜びは大きかったはずです。

 「私たちは切磋琢磨しながら自分のスタイルを作り上げていける」そう信じていたのかもしれない。

 しかし、喜びが大きい分、違いが生まれることに激しい憤りが生まれます。

 お互いを尊敬しているからこそ、同じでありたい、わかり合いたい。それを強く願いすぎてしまう脆さ。好きなのに同じではない、
 
 そんな相反するような感情に持ちこたえられなかったのか。
 はたまた、『君は僕の絵を認めてくれていたはずなのに、僕が求めているものとは違う絵を描く。』そんな相手を許せなかったのかもしれない。

 破綻してしまった2人の関係。しかし、破綻したことで、本来の自分を取り戻していけたのかもしれません。それでもなお2人はそれぞれ描き続けます。

■ひまわりについて

 ゴッホは元々、同じ絵を何枚も描く画家だった。しかし、ひまわりに関しては7枚という中でも多くの作品を制作している。

 ひとつひとつがゴッホの背景や当時の心境により雰囲気のひまわりを制作していることが人気の要因ではないかとも思われます。

 そのうちの1つは戦争で焼失してしまいましたが、他のものは現存されている。

 また、ゴッホは実際に自分の目で見たを描く画家だった。

 そのため最初の4作品は1888年8月に実際に咲いているひまわりを見て描かれたもの。残りの3作品は自分の作品を見て模写したもの。

 ゴッホは「黄色い家」を友情や感謝の気持ちを込めた6枚のひまわりの絵で飾る予定だった。後に「12枚描きたい」とさえ言い出したが、結局、花の時期が過ぎてしまったため(8月に描き始めて10月にゴーギャン が来た)、実際に描きあげたのは上の4枚だけだった。
 「12本のひまわり」の作品をモチーフに描かれたものがあります。7つのひまわりの作品の中でも最も有名な「ひまわり」です。

 現在はロンドンのナショナル・ギャラリーに保管されている。
 この作品はゴッホと共同生活していたゴーギャンも「ゴッホの代表作だ」と絶賛した。

 ゴーギャンは譲って欲しいと頼んだが、ゴッホ自身も非常にお気に入りの作品のため、売らず、自分で大切に保管していたそうです。

 絵画に興味がある人なら必ず知っているゴッホの『ひまわり』。元々暗い絵を書いていたゴッホは印象派に出会い、ひまわりを熱心に書いている時期があった。

 またゴッホは、当時はあまり知られていなかった正反対に位置する関係の色同士の「補色」について研究した。

 そのため、ひまわりの絵には青の背景と黄色のひまわりを組み合わせ、お互いの存在を輝かせている作品がいくつかある。

ー時系列早見表ー

1888/8 ゴッホ、ひまわり1~ひまわり4作成する

1888/9/16 ゴーガン、アルルの黄色い家に来ることが決まる

・ゴッホ、ゴーガン用の手摺りのある椅子を購入する。

(ゴーガン、来ることを渋る)

1888/10/23 ゴーガン、アルルの黄色い家に来る

・一緒にカフェの絵などを描く

・1か月ほどして、ゴーガン、ゴッホに耐えられなくなる

・ゴーガン、ゴッホと自分の炊事や掃除、金勘定を担当する

・ゴーガン、ノイローゼになる。パリに帰りたいのが顔に出る。そのことをゴッホに見抜かれる。

1888/12 ひまわり4、作成

1888/12/16 ゴッホとゴーガンは白熱した議論を交わす。ゴーガン、黄色い家を去ろうと決意する。

・ゴッホ、ゴーガン、二人でアルル西の美術館に二人で行く。

・ゴーガン、去るのを取りやめる。

1888/12/23 ゴーガン、黄色い家を去る

1888/12/24 ゴッホの耳切り事件発生

1888/1 ゴッホ、ひまわり5を精神病院で作成

1888/1 ゴッホ、ひまわり6,7作成

■参考サイト

https://gentosha-go.com/articles/-/13025

https://youtu.be/Eqbc1BtF6dU?si=-cTFwiv8RMCOdUCm

■参考映画
これから随時更新。

■流行りの音楽について
1877年12月6日 - トーマス・エジソンが円柱型アナログレコードを開発。音楽・音響・録音技術の歴史が始まる。
1887年 - エミール・ベルリナーがSPレコードの原型である、円盤式蓄音機「グラモフォン」を開発。
1888年 - コロムビア・フォノグラフ創立。1894年 - ドビュッシー 『牧神の午後への前奏曲』初演。印象主義音楽が始まったとされる

-1888年に流行っていたであろう音楽-
愛の挨拶
インターナショナル (歌)
ヴァイオリンソナタ (リヒャルト・シュトラウス)
ヴァイオリンソナタ第3番 (ブラームス)
弦楽四重奏曲 (ディーリアス、1888年)
交響曲第1番 (マーラー)
交響曲第5番 (チャイコフスキー)
交響曲第3番 (ドレーゼケ)
さあ踊ろう!
シェヘラザード (リムスキー=コルサコフ)
ジムノペディ
スペイン行進曲
忠誠 (行進曲)
ハムレット (チャイコフスキー)
プシシェ (交響詩)

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