
~『北緯43度から見た二つの椅子』という演劇作品が出来上がるまでの創作日記~ 作家のひとりごと 第6信
2024/2/18
何とか予定通り行った。ギリギリまで働いてれば何とかなるもんだ。
今日は山下澄人さんのワークショップに行った。連日の参加。時に厳しい言葉が飛び交う現場だが、なるほどと鳥肌の連続。思ったことを列挙しておく。
演技って、表現。ここでは、表現の前の事をやっている。見る方が勝手に考える。これが演技の基本的な考え方。
演技の起源について説明はあまりない。
Shakespeareを例に取ると説明ばかりの台本。ドフストエフスキーの罪と罰を最近読んでいるが、感情がコロコロ変わっていく。
それでも物語として面白いという古典の確かさはある。
台本のあるお芝居をやる場合は、約束がある。その約束を守った上での表現という事になる。
私らがやっているのは、遊び。
偶々嵌まる場合がある。嵌まると上手く見える。でもそれは偶々。音がシリアスになる人は当たり辛い。その感覚がわかってくるといいね。
何となく人は幅を決める。一色に見えないように。でも成る丈、自分でその色をつけないように。入って来たら、入って来たもので喋る。
良いものを見なさい。
毎回、わからない所までは全力でやった方がいい。人間の躰は反応していくから。
悩む必要はない。何かが足りないと考えること。例えば自転車に乗れない時。乗れない時はペダル操作が上手く行っていないとかバランスが取れていないとか、理由が必ずある。
相手が座り方を変えた、それを敏感にキャッチしてね。
飛び立つまでの助走が長いと怠い。本筋に入りたい。寝た状態で始まったものをやる場合は、どうやって起こすかに気を使う必要があるから。
モチャモチャやる、それは余裕があるように感じる。それはそれでいい。でもならもっとホップ(跳ねて)欲しい。
~っぽいというのは、つまり、音が一緒。芝居している人が陥りがちな症状。
聞こうってするだけで内面が動き始める。勝手に動き始めるもの。自分の躰の変化を堪能する。
書かれているものと出る音の間には乖離がある場合がある。戸惑った時は、上に乗る。乗っていく。戸惑った時は下に行かない方がいい。これは人の質もある。
伺うっていうのは、日本人が長年の歴史の中で培って来たもの。
舞台上で役者は距離感を伺う。それは普段の生活の上では大事な局面ものあるかもしれないが、板に立っている時は、礼儀などはいらない。じゃないと共演者に失礼。これは演者と観客の間で差がある。
やっている人が困れば困るほど、役者は大変になるが、観ている側は面白い。
舞台上を親切で満たしたい。
その為には、正面向いてても横辺りで相手を感じていないと。
冷たくしたな、と感じられたら次へ行ける。これには瞬時の判断が必要。相手がやりに来たからやる、自分から行くぞ、それらは生きていないと出来ないこと。共演者同士で状況を見て助け合う事が必要。
僕らはあるテンポ、リズムを自分のリズムだと思っている。変わると、思いも寄らないものが違って来る。職業に寄ってもリズムが変わる。
躰が決まればそっから始められる。助走のような時間は飽きっぽい奴はそこで飽きる。
喋るってのは、堪ってきたものを抜く作業。黙ると溜まる。ゲージみたいなものがあったら溜まって行くイメージ。
普通に、自然にと軽々しく言うが、それらは身体と内面とが必ずしも連動してある必要はない。
山崎努は底が知れない。ズラすと変化、ホップするというか、跳ねる。
「何かやって」と言って、怯えている人がいる。「何かやって」と言って怯えていない人がいる。
怯えていない人は跳ねる必要がある。
これは台本のある芝居にも言える所、ギアが変わる所を摑む。
感情は突然変わる。役者をやってると、感情の変化をグラデーションで考えるが、それは瞬間的に変わるものもある。赤ちゃんみたいに。人はその性質が元々あった。大人になると見えなくなる事が多い。
僕が考えているのは、演じながら書いていく作業に近いかもしれない。
他者からの評価とか、そんなものを度外視した、やりたいからやるの所に創作はある。
ーーーーー
ワークショップを終え、改めて振り返る。なんて濃厚な時間だったろう。
帰り道、今回の作品にフィードバック出来ることはないかを考えながら、新たに届いたゴッホの椅子に纏わる本を読んだ。
椅子の特徴や作り方、何から何まで全部書いていた有難い。
作るかどうかは置いて置いて、参考資料として一通り目を通すべし。
ゴッホの椅子をはじめ、ものを愛した方々の多くの言葉がそこにある。