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~『北緯43度から見た二つの椅子』という演劇作品が出来上がるまでの創作日記~ 作家のひとりごと 第4信
2024/2/16
僅かながらの考察と展望。ゴッホとゴーガンの関係について。
同じ芸術家同士でフラット(平等)なライバル関係だと思っていた二人だが、どうやら、そうではなかったのではないかと考察。
あくまで本人達の関係を直接垣間見た訳ではないので推測の域を出ないが、上手く嵌まれば同業者と言う関係から、また違っ他側面での人間関係を提示出来そうだ。
気付いた事柄を項目別に列挙する。
1つ目、ゴッホとゴーギャンは、お互いの作品を尊重しあっていた点。
お互いをケナシあっていた訳ではなく、是是非非でやり取りしていた。
2つ目は、ゴッホは南フランスのアルルにて、ゴーガンを指導者として呼ぶ腹積もりだった点。
共同体の指導者というと、ゴッホは自分で指導者をやるつもりはなかった。
3つ目は、ゴッホとゴーガンの手紙と自画像のやり取りの際に、ゴッホが描いた絵の端に書いた、親愛なる友、ポールゴーギャンへ。の下りに描かれた献辞「親愛なる友」の部分を後日、ゴーガンが消したという事実。これに関しては、何故なのかが謎になっている。
4つ目は、先日にも触れたゴッホは想像で描くという試みにtryしているのに対して、ゴーガンは絵の描き方にゴッホの描き方を取り入れていないように思える点。これは更なる考察が必要。
5つ目は、火事や金銭の管理がゴーガンが請け負っており、ゴッホとの手紙のやり取りの中で、お金の使い方をゴーガンがゴッホに指摘している、つまりゴーギャンが、俺ならもっと上手くやるとゴッホに指摘している点。
6つ目は、ゴッホにはテオという最大の理解者がいたが、ゴーガンには妻も子供もいるのに、妻のメットからは子供達の様子を伝える文言が一切なかった点。
7つ目は、手紙の文章がゴッホはゴーガンに対して敬語なのに対して、ゴーガンはゴッホにタメ口な点。
これは訳者の解釈が反映されている可能性あり。同じ文書を違った訳者ので比較してみてみようと思う。
8つ目は、ゴッホが手紙の文面と起こした行動からどうもゴーガンに気を遣っているように思える点。
どういう点からだろう、本音を言わずにいるのか、決断を待っているような感じをテオの文書から感じる。
9つ目は、ゴーガンはパリにいたときに後輩の芸術家達に飲み代などたかっていたという点。
ポン・タブェンという物価の安い地域にいたとき、芸術家間でゴーギャンの評価は高かった。若手にたかるというのは中々に傲慢。
10つ目は、来て早々、ゴーガンの絵が売れた点。このことはテオカからの手紙で知ることになるため、ゴッホも知っている。一方ゴッホは絵が全く売れない。これは二人の間の対比となる。
11つ目は、ゴーガン(40)には20歳年下のベルナールという同じく芸術家の後輩がいて、よくそいつと吊るんでいた点。
ベルナールとは、ゴッホとも仲が良い。二人の間で共通の人物の話が出来る。
12つ目は、ゴッホとゴーガンはパリにいる際に他の芸術家団体に触れてはいたが、官僚みたいなその仕組みを嫌がっていた点。(売れた絵の20%を共同体に納めるとか)
13つ目は、ゴッホは南アルルでの孤独な一人生活に限界を感じ始めていた点。
絵を描くのは孤独な作業だ。資料からゴッホにはモデルをやってくれる人もごく一部しかいなかったらしい。ずっと一人でいると、一人ごとが多くなりそうだ。