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透明壮年、桃色作戦

2022年12月4日、渋谷。はじめましての挨拶をした。

桃色の髪の人に纏わる話。

彼女がくれた一枚の手紙、インスタントフィルムに書かれた「生存戦略!」のメッセージへの御礼にかえて、ここに桃色作戦を決行する。

そんな寝言を深夜ひとりで繰り返している。

コイツはそう、透明壮年。




A_透明さについて

終演後、渋谷RINGのフロアには特典会の列が無軌道に伸びていた。人波の中から最後尾札を見つける。札を持つ人に声をかけてそれを受け取り、頭上に掲げる。同じようにやってきた人に札を渡す。ときおり「〇〇さんの列ここですか?」とか「最後尾どこにありますか?」と訊かれる。その都度わかる人がわかる範囲で答える。そうしたふわふわとしたやりとりが重なる中にいながら、ふと僕は自らの透明さを感じていた。

いわゆる地下アイドルと呼ばれる文化圏は、アイドルとファンの距離感の近さが特徴とされるが、ファンとファンの距離感の近さもまた特徴のひとつだろう。ライブハウスという限定された空間のなかで色を得るのはアイドルだけではなく、ファンもまた同様にそれぞれの色を持つのだ。例えばそれは《推し》と同じ色でもいいし、そうでなくとも構わない。それぞれが色を持ち、それはライブハウスという限定的な空間のなかで可視化される。ライブハウスのサイズ以上に遠ざかることができない、その逆説的な近さのなかで、それぞれがそれぞれの色を認識することになる。

そうした空間で、どうして僕は自らを透明と感じたのか。答えは単純で、ほとんど《現場》にいなかったからだ。《現場》、つまりライブハウスの外に出てしまえば、その色は外の色と混ざっていき、その色を誰かに認識される機会も減り、自分で自分が何色かを再確認する機会も減っていく。逆にいえば、《現場》に赴く機会が増えると、透明度は下がっていく。自分がどう思っていても、誰かから何気なく自分の色を教わることがある。

こうした透明度の変動はきっと、必然なのだ。ここ数年の体感をもってそう思うし、むしろそうであるべきだとすら思う。Buddha TOKYOの《現場》において、僕が透明であるのは当然のことなのだ。《現場》に通ったり、チェキを撮って会話を重ねたり、手紙を送ったり、またはSNSでメッセージを送ったり、なにか当人にまつわることを発信してみたり、そうした行動の積み重ねが、その人の色を鮮やかにしていき、透明度を下げていく。付け加えれば、そうして色濃く《推し》ているファンがいるからこそ維持されるものもあるし、それが大きな土壌となり生みだされていくものもある。それは間違いない。僕は分相応に透明であり、それは当たり前のことだったのだ。


・補足_「生存戦略」について

「生存戦略」とは、2011年に放送された日本のアニメ「輪るピングドラム」に登場するフレーズだ。2022年には放送10周年を記念した劇場版が公開され、アニメファンたちの間ではそれなりの話題になっていた(ように思う)。

テレビ放送当時、僕はアニメを頻繁に見ていたこともあり、本作にもそれなりの関心を向けながら見ていた。しかし、当時はあまり深く理解しきれないまま見終えてしまったような気がする。どこか反射的に拒むような、不思議な違和感もあった。その違和感は10年の時を経て、劇場版という形で僕をぶち抜いたのだが、その詳細はまだうまく言語化できない。今もずっと痛みは消えず、冷静な判断をすることも難しいのだが、それは逆にこの作品の重要さを示しているのだと思う。

「輪るピングドラム」は印象的なフレーズが多い。というか、なにもかもが意味深で、それっぽい。言うなればキャッチーであり、言うなれば小癪でもある。「生存戦略」も、そんなフレーズのひとつだ。

現実にその声帯を震わせて、『せいぞーん、せんりゃくぅぅぅーーーー!!!!!!』と叫んだことがある人も、いらっしゃるかもしれない。僕はない。そう言って笑いあえる友人を見つけられるほど柔軟であれば、僕はまだ楽しくアニメオタクを名乗っていたかもしれない。



B_言霊について

持論だが、言霊はあると思っている。僕の「生存戦略」はまだ無音で、言霊の体を成していない。声色と表現するように、声に出るものを色に喩えるのだとしたら、僕の「生存戦略」はまだ透明だといえる。

特典会の列は進み、順番がきた。目の前に立てば、僕は透明ではいられなくなる。はじめましての挨拶と共に名乗った。「はじめましてじゃないでしょ!」と彼女は言った。それはある意味その通りだった。

このライブのひと月ほど前、同じ事務所の先輩グループのライブを見に行ったときのことだ。フロアでチラシを配っていた彼女に話しかけられ、そのとき僕は既に、はじめましての挨拶と共に名乗っていた。この特典会での「はじめまして」はツーショットチェキという意味においてあり、事実関係としてのそれではないのだが、そこは儀礼的な意味だったり、自分なりのスタンスの表明だったり、いろいろゴチャついた考えを経たうえで、放つべき言霊のひとつだった。そこに彼女は「はじめましてじゃないでしょ!」という言霊でカウンターパンチを放ってきた。見事だった。

特典会で話せる時間はそう長くない。最大の目的であった、「生存戦略!」というメッセージへのお礼。そして先のライブが、よかったということ。このくらいが限界だ。

ふと考える。もっとなにか話せることはあっただろうか。例えばschool food punishmentというバンドのこと。彼女が名前に交えた「嘘」という文字と、「fiction nonfiction」という曲のことだとか。例えばある日のnoteにさりげなく書かれていた劇場版「輪るピングドラム」にまつわるエピソードについてだとか。siraphというバンドのこと、江口亮という音楽家のこと、僕が思いつくことは色々ある。そしてきっと彼女から教われたものも色々あっただろう。そしてそれらはすべて、言霊にならずじまいだった。

大量の言霊にできなかったことを抱えて帰るのは、そう珍しいことではない。そんなのは生きている限り当たり前であり、抱えているものを全て放つことができたとして、それが良いことなのかもわからない。


・補足_「透明な存在」について

「透明な存在」とは、(またもや)2011年に放送された日本のアニメ「輪るピングドラム」に登場するフレーズだ。

作中には「子どもブロイラー」という施設が登場し、そこでは集められた子どもたちが「透明な存在」にされていく。この施設のスタッフ(?)が言うには、「透明な存在」になるということは、なにも怖いことではない。ただ、いてもいなくてもよくなるだけ、なのだそうだ。

この「透明な存在」と「子どもブロイラー」にまつわるシーンでは、無数のガラス片が降り注ぐ映像が使われることがある。透明なガラス片は、思い思いに光を反射して輝き、とても綺麗だ。このガラス片というイメージもまた作品終盤まで登場する。

そして、これらは特に作中で事細かに解説されることはないが、イメージとしておおまかに捉えるだけでも充分なのだろう。僕がここしばらく《透明》というときには、どうにも先に書いたようなイメージが重なってきてしまう。それはそれで綺麗だと思うのも確かで、どこか憤りを感じるのもまた事実だ。



C_色について 

言霊を放つとき、そこに自分の色をのせようとしてしまう。「自分の言葉で話すように」という太古の教えが効いているのかもしれない。実に乱暴な教えだ。この教えのおかげで、流行語に逆張りする可愛げのないクソガキがどれだけ育っただろうか。僕が『せいぞーん、せんりゃくぅぅぅーーーー!!!!!!』と叫んだことがない理由は察していただきたい。

斜めに育ってきたかつてのクソガキが、ここにきて「生存戦略」についてつらつらと何事かを書いている。象徴的なフレーズであり、意地悪く言い換えれば、手垢まみれのフレーズ。単に「輪るピングドラム」という作品について考えるために必要となる以上に、このフレーズの色合いに関心を持つことはなかった。ましてやそこに自分の色をのせようなどとは思わなかった。

「生存戦略」はある日、彼女のメッセージとして僕のもとに届いた。アイドルになって感じたこと。noteで書き続けてきたこと。ステージで示してきたこと。その存在が示してきたこと。「生存戦略!」というメッセージには、たしかに彼女の色が重なっていた。

いま僕は「生存戦略」に新たな色を見出し、そこに自分の色を重ねるということだ。僕は分相応に透明だったと書いた。色とは、自ら生み出すだけのものではなく、誰かから見られて教わることもあると書いた。「生存戦略」に新たな色を見出せた僕は、分相応に透明ではあったが、完全な無色透明ではなかった。自分の色を再確認する方法は、《現場》から離れたところであっても見つけることができる。僕のもとに届いた「生存戦略!」の一言、そこに滲んだ新しい色が、あらためて僕の色を教えてくれたのだ。



D_言の葉について

無数の言霊にできなかったことを抱えて生きている。もしも声に出したとして、それがどんな色になっていたのかについては、もはや確認することはできない。

ひとつできることは、言の葉として書きつけることだ。話された言葉はその場にしか届かないが、書かれた言葉はあらゆる場所に届き得る。これはどこかの哲学者の受け売りだが、実は彼女も同じようなことを最初のnoteに書いていた。人は境界を恐れるらしい。言葉を放つということは、それを自分という境界の外側に放つことと同義であり、そのとき人は恐れの感情を抱いてしまうのだそうだ。

境界の内側は何色だろうか。知り得ないということは、透明ということなのだろうか。透明ということにしておけば、恐れなど生じないということなのだろうか。なるほど、どこかの施設で聞いた話に通ずるものがある。いてもいなくてもよくなれば、恐れなど痛くもかゆくもない。なるほど恐ろしい話だ。僕のこの感想を、この透明な倫理はどう説明してくれるのだろうか。

思うに、言の葉はとても原始的であり、透明な倫理に抵抗し得る画期的な発明だ。ひと欠片ずつでも、境界の内側を言の葉として漂わせれば、いつかそこに色が見えてくるはずだ。誰もが同様に綺麗な言の葉を放つことができるわけではない。それはガラス片のように鋭利で恐ろしいものかもしれない。同時に、それはガラス片のようにキラキラ輝くかもしれない。優しく叩いてみれば、グロッケンのような音色がするかもしれない。色も形も響きもバラバラなら、好きな欠片を並べてなにかを作ることも、できるかもしれないじゃないか。



E_桃色作戦について

僕はひとつの欠片を手にしている。その色は、例えるなら桃色に近い。透明に見えるという人もいるだろう。その意見はわからなくもないが、僕にはとても透明には思えない。

透きとおって見えるだろうが、それは透明ではない。いびつな言の葉をもって、自分ではわからない色をもって、それを示す。

これが作戦開始の合図だ。



This is ひよこ