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ルイ15世:フランス王国の盛衰を象徴する王

ルイ15世(1710年–1774年)は、フランス・ブルボン朝の国王として1715年から1774年まで在位した人物です。彼の治世は、絶対王政の栄光と衰退を象徴する時代でもあり、彼の政策と個人的な影響はフランス社会に多大な影響を与えました。ルイ15世は“Bien-Aimé”(愛され王)と呼ばれる一方、晩年にはその人気を失い、フランス革命の前兆を準備した存在ともされています。しかし、ルイ14世の「太陽王」としての強烈な存在感や、ルイ16世とマリー・アントワネットの断頭台での結末に比べると、ルイ15世の存在感はやや霞んでいると言えるでしょう。

幼少期と即位

ルイ15世はわずか5歳で曾祖父ルイ14世の後を継ぎ、フランス国王となりました。彼の幼少期は摂政フィリップ2世(オルレアン公)が政権を握り、フランスを統治しました。ルイ14世時代に築かれた絶対王政の威光は強力でしたが、財政面では大きな負担があり、ルイ15世の即位後にはその影響を引き継いでいくこととなりました。

なお、ルイ15世には息子であるルイ・フェルディナンド(1729年–1765年)がいましたが、彼は王位に就く前に病気で亡くなったため、ルイ・フェルディナンドの息子であるルイ16世が次の国王として即位することになりました。

政治と外交

ルイ15世の治世は約60年にわたり、彼の政策は多くの戦争と外交交渉に彩られています。特に有名なものには、オーストリア継承戦争(1740年–1748年)と七年戦争(1756年–1763年)が挙げられます。七年戦争ではフランスはイギリスと激しく対立し、結果的にカナダやインドにおける多くの植民地を失いました。この外交的な失敗はフランス国内での不満を高め、ルイ15世の人気低下に繋がりました。

内政面でも、ルイ15世は財政改革に挑みましたが、成功には至りませんでした。フランスの財政は次第に悪化し、豪華な宮廷生活や度重なる戦費が国民に大きな負担を強いる結果となりました。また、税制改革を試みたものの、貴族たちの反対に遭い、ほとんど成果を上げることができませんでした。

宮廷と私生活

ルイ15世の宮廷生活は非常に華やかで、ヴェルサイユ宮殿は多くの宴会や行事で賑わいました。彼の寵愛を受けた愛妾たち、特にポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人は、フランス政治にも一定の影響力を持ち、宮廷内外で大きな注目を集めました。これらの愛妾の存在は王に対する批判を強め、彼の治世の道徳的堕落を象徴するものと見なされました。

影響と評価

ルイ15世はその治世を通して「愛され王」とも称されることがありましたが、晩年になるにつれてその評価は大きく変わっていきました。度重なる戦争による敗北、財政の悪化、宮廷の浪費などが国民の不満を高め、次第にフランス社会は革命前夜の不安定さを強めていきました。彼の孫であるルイ16世がその後即位し、最終的にフランス革命へと繋がる一連の出来事が始まります。

まとめ

ルイ15世の治世は、フランス絶対王政の頂点と衰退を象徴する時代でした。彼の外交上の失敗や財政改革の不成功、豪奢な宮廷生活はフランス国内の不満を高め、後のフランス革命の土壌を作り上げる要因となりました。その結果、彼の治世は後世において「失われた機会の時代」とも評されることが多く、フランスの歴史において重要な転換点となっています。しかし、ルイ15世はルイ14世やルイ16世と比べてその存在感が薄く感じられることが多く、彼の治世の評価もまた複雑です。

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