いつからか青春を捧げていた
僕は中学校、高校と野球をしてきた。
両親とも、どちらかと言えば大人しく、本を読んでいるタイプの学生だったのだろう。僕は俗世で"陰キャ"と呼ばれる類だ。
今回はなぜ野球を始めたのかを話そうと思う。
5つの小学校の卒業生から成り立つ中学校には色んな人間がいた。
陰キャを自覚したのはそんな中学校に入学してからだ。40人1クラスが3クラス。
近くの席の女子が僕を"もやし"と呼ぶようになった。誰になんと呼ばれようと気にしなかったが、陽キャに"もやし"と言うあだ名が着かない事だけは確かだ。
僕は背が高く(自慢では無い)、色白で、本を読むのが好きで、絵を描くことも、勉強もまあ嫌いではなかった。
だからと言ってスポーツが嫌い・苦手なわけでは無い。人並みだ。跳び箱だって八段は飛べる。十段だって飛べると思う。
別に陰キャが嫌だったわけでは無いが、誰かからそう思われていると思うと僕の反抗精神が疼く。
決めつけられるのはあまり好きではない。
入学から1ヶ月、そろそろ部活を決めなければいけない。両親は僕が卓球部に入ると思っていたようだ。あの女子も多分、正直僕もそう思っていた。
他にあるのは野球、サッカー、陸上、バスケなどの王道部活。きらきら眩しいくらいだ。
しかし反抗精神は日々増し加わっていき、ある放課後僕はほぼ無意識に野球部に入部届を出していた。渡した直後、冷静さを取り戻す。手は少し震えている。無理し過ぎか。でももう渡してしまった。顧問の先生は僕よりも背が高い、そして僕と並ぶとまるでオセロのコマだ。よく焼けている。
引き返す事はできない。
「いや〜嬉しいよ!木下(きのした)くん」
背中を2回も強く叩かれた。痛い、折れたらどうする。僕はまだ名前を覚えられていないようだ。陰キャの自覚はあるがクラス担任なのだからそろそろ覚えてくれてもいいと思う。紙に書かれた文字を目で追う先生。まあ僕も先生の事は言えない。
教務室に入るとき、先生がどこに座っているか表にある名前を確認しようと思ったが、どの名前が先生か分からなかった。結局
「い、1年3組の先生はいらっしゃいますか…。」
と言った具合に入った。人の名前は覚えられない。
僕に先生を責める権利は全くないのだ。
足早に教務室を去った。
いよいよ部活初日。
僕の想像よりも野球部は大変そうだ。
部活見学の時に見にくれば良かったと後悔している。
完全に舐めていた。
見学当初は卓球部の他に選択肢がなかったので
卓球部と、(同じ体育館でやっていた)女子バレーしか見ていない。
バスケ部はいなかった。
市が管理する別の体育館で練習しているらしい。
卓球部のあまいランニング(体育館2週)を見てからだと、野球部の5キロのランはイカれているようにさえ思える。これからスポーツをすると言うのに、スポーツの前にそんなにがっつりスポーツをしてどうする。おかしいのか。
入部したほとんどの人間は小学校から野球をしていた、ザ・陽キャ野球少年達だった。
流石にキツそうだったが野球はこう言うものだと理解しているのだろう。誰も不思議そうな顔はしていない。僕もみんなに合わせ知ったかぶりをしたが体力は嘘をつけない。
小学校では体育でしか運動をしていなかったためそれが祟った。300メートルで息切れし死にそうだ。
一番早い生徒は18分で走り終えていた。
新幹線かよ。ツッコミを入れた時点で僕はまだ3分の1程を残していた。
頭の声だけは相変わらず元気だ。
先輩や同級生達が次々とゴールしていき僕はほぼ死に近い状態で(大袈裟だ)32分56秒かけてゴール。よく頑張った自分。褒めてやった。
久しぶりに走った。破裂しないのが不思議なくらいに心臓脈打っている。
最高の達成感に包まれている僕はこの時点で忘れているがこれからが部活本番なのだ。バカか。
その日は帰って八時には寝た。
次の日全身が筋肉痛だ。
後悔している。
数ヶ月経ち、余裕を持って5キロ30分以内で走れるようになってきた。我ながらよく頑張っていると思う。
一日目でやめなくて良かった。というか辞めていないのが奇跡だ。
この数ヶ月は動く廃人として、ロボットの様に日々をこなした。
数ヶ月で分かったことがある。
野球部には多分2パターンの人間がいる。
野球バカ(天才)と、野球も勉強も出来るヤツ。
七月にあったテストで明らかになった。
方や23点、方や85点。
相変わらず僕はどちらにも当てはまってはいない。
テスト91点野球ド下手、
でもどうやら僕は掛け持ちが出来るタイプらしい。
この情報はいい収穫になった。
あと他にも、先輩の怖さやお調子者のめんどくささも学んだ。僕はよく"もやし"いじりをされる。最近は少しだが肌も焼けて来た。あだ名も"炒めたもやし"にグレードアップした。どう考えても呼びづらいだろう。でも皆に比べると確実に白い。目立つので早く日焼けしてしまいたい。
僕は野球のルールすらまともに知らなかったが野球部にはザ・好青年と言えるタイプの先輩がいて、親切にも自分の練習時間を削り教えてくれた。
練習は一ミリも変わらず鬼のようなキツさだったが、思っていたよりも楽しんでいる自分がいた。ド下手なのに不思議だ。今までいかに自分が"一生懸命"を避けて来たかが明らかになった。一生懸命やる事は良い事だ。
生きている感じがする。
最近体づくりのためプロテインという粉を牛乳に溶かして飲み始めた。ココア味だ。詳しくは分からないが体づくりにもってこいらしい。
これも野球を始めてから分かったことの一つだが、いかにも運動音痴そうな父は意外にもこういう事に詳しい。
たくさん運動して帰宅するのでご飯もよく食べるようになっていた。母もたくさん食べるようになった僕を見て喜んだ。父の思惑通り体重が順調に増え多少ガタイも良くなったきがする。飛ぶのが少しキツくなった。重い。
練習はやっぱりキツイ。初めの頃に比べれば新田先生(名前を覚えた)が打った球も拾えるようになったがいつも「ワンテンポ遅い!!」とガヤされる。
初めての甲子園は言うまでもなく応援席からだったが、先輩達の夏に対する真っ直ぐな姿や眼差しは僕の目によく焼きついた。本気なのだ。
惜しくも県代表に届かなかった。
こんなド下手な僕がなぜこんなに悔しがっているのか、僕自身わからなかったが人生で一番くやしいと思った時だった。
9月健康診断があった。入学当初は169センチだったが177センチになっていた。通りで関節が痛かったわけだ。こんなに伸びて大丈夫だろうか。
体重も47キロモデル体型から67キロになった。誰よりもおばあちゃんが喜んでいる。健康的だ〜と頭を撫でられたり、手の甲をぽんぽんと叩かれたりする。石鹸の匂いだ。
実戦試合や合宿を通してどんどん上手くなっていた。
新田先生が言ってくれた通り、
僕には伸び代があったようだ。
僕の背番号は....
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ここまで発表したところで終業のチャイムがなった。
僕(木下黌)の作文発表の続きは次回に持ち越し
となった。
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