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那覇の市場と、灘の市場

「県民の台所」として知られる那覇市第一牧志公設市場は、2019年6月から半世紀ぶりの建て替え工事が始まりました。建て替え工事が始まって、風景が変わってしまう前にと、取材を重ねて、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社)という本を出版しました。

 公設市場が一時閉場を迎えると、街並みは想像以上のスピードで変わっていきました。当初は『市場界隈』の出版で取材は一区切りのつもりでしたが、建て替え工事期間のことを誰かが記録しておかなければと思い立ち、琉球新報で「まちぐゎーひと巡り」と題した連載を始めました。市場界隈に携わる40人のライフ・ヒストリーを通じて、市場界隈の――引いては戦後沖縄の歴史と現在とを浮かび上がらせようとする試みです。

 牧志公設市場は、約4年に及んだ工事期間を経て、リニューアルオープンを果たしました。それに合わせて、僕の連載は『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(本の雑誌社)として出版されることになりました。その刊行を記念して、神戸・西灘文化会館で刊行記念トークイベントを開催することになりました。ゲストにお迎えしたのは、灘に関する情報を発信し、さまざまなイベントを企画している慈憲一(うつみ・けんいち)さんです。

 那覇の市場界隈には、戦後沖縄のあゆみが色濃く滲んでいます。ただ、那覇の市場界隈に限らず、昔ながらの商店街が令和の時代に直面させられている課題があります。そうした普遍的なテーマについて考えたくて、市場が連なる灘で、慈さんをゲストに迎え、トークイベントを開催しました。変化していく街と、わたしたちはどのように向き合えばよいのか――。


灘で
那覇の市場の話をする理由


橋本
 僕が那覇の市場界隈の取材を始めたのは、5年前のことなんです。第一牧志公設市場が建て替え工事に入る前に、現在の姿を記録しようと、毎月那覇に通って。建て替え工事が始まる直前、2019年5月に『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社)を出版して、その刊行記念トークイベントを那覇で開催したんです。慈さんはそのトークイベントを聴きにきてくださっていたんですよね。

 その時期、僕はたまたま那覇にいて、「市場の古本屋ウララ」っていう古本屋さんにふらっと行ったんですよ。ほんなら「ジュンク堂で橋本さんのトークショーがある」と。僕は橋本さんの『ドライブイン探訪』のファンやったんで、それで行かせてもらったんですね。

橋本 慈さんは、結構昔から那覇に通われてるんですか?

 そうですね。もう25年ぐらいは、年に3、4回ずつ通ってます。灘と那覇、「な」のつくところにしかいないと――そんなことはないんですけど。那覇だけじゃなくて、いろんなところに行くんですけど、空港が那覇にあるんで、必ず公設市場には寄るという感じで、ずっと通ってきたとこなんですよね。市場のあたりも、空港に行く前に市場の2階にある「道頓堀」に必ず寄って、ビールを飲んで帰るみたいな感じなんで、わりとうろうろしてますね。

建て替え前の牧志公設市場で営業していた時代の「道頓堀」  

 橋本 ここ西灘文化会館の周辺には、市場がたくさんありますよね。すぐそこには灘中央市場があって、向こうには数年前まで畑原市場があって、その先には畑原東市場と東畑原市場がある。僕が初めてこの界隈にきたのは、2020年3月に開催された「畑原市場大感謝会」に呼んでもらったときなんです。

 そうそう。その2ヶ月くらいまえに、橋本さんが旧グッゲンハイム邸でトークショーをされていて。僕はそれを聞きに行って、終わったあとに「こんど畑原市場がなくなることになって、それに合わせて畑原市場大感謝会というイベントをやるので、那覇の市場の話をしてください」と直談判をしたんです。 

在し日の畑原市場(慈さん提供)

橋本 僕は『市場界隈』を出版したあとすぐに、「これから先も市場の取材を継続して、移り変わる街並みを記録しておかなければ」と考えるようになっていたんですね。それで2019年の秋から、琉球新報で「まちぐゎーひと巡り」という連載が始まって、それが今回『そして市場は続く』という本にまとまったわけなんです。だから、初めて灘にきたときにはもう、建て替え工事期間中の取材を始めていたんですけど、灘の市場にきて少し視点が変わったところもあって。那覇の市場界隈には沖縄特有の歴史と文化が色濃くあるのは確かなんですけど、全国各地に市場や商店街は存在していて、古い街並みが共通して直面している現状はあるように感じたんですね。だから、この本の出版記念トークイベントを、ここ灘でも開催したいと思ったんです。 


那覇の「公設」市場と、
灘の「公認」市場


 那覇の市場とこのへんの市場が大きく違うのは、向こうは「公設」なんですよ。あれは那覇市の市場なんです。こっちは、あとで灘中央市場を見てもろうたらわかるんですけど、「公認」と書いてある。公認市場というのは、市営じゃなくて民間の市場なんですね。そこにまず大きな違いがある。もうひとつ、那覇の公設市場はもともと地元の人が買いに行くところやったと思うんですけど、僕が行くようになったころから徐々に観光化した印象があるんですね。それもこのへんと全然違うところで、ここらは観光客なんかほとんどこないんですよ。大きく言うと、そういう違いがある。だって、仮設市場を確保して、同じ場所で建て替え工事をやって、完成したらまた戻すなんて、ここではできないですからね。それはある意味、僕らからしたら恵まれてるなと思うんですよね。 

自然発生的に誕生した那覇のまちぐゎー(市場)。
通り会が独自に設置したアーケードも複雑に入り組んでいる。

橋本 たしかに、そこまでのことができるのは、那覇市が管理する公設市場だからだと思います。ただ、第一牧志公設市場の組合長・粟國智光さんがおっしゃっていたのは、「市場の建て替え工事は、パンドラの箱を開けたようなところがある」と。あの界隈には、公設市場が単体でポンとあるわけではなくて、戦後間もない時期に自然発生的に生まれた闇市がもとになっているんです。闇市のままだと問題があるということで、那覇市が手を入れて、生鮮食品を扱う店舗を「牧志公設市場」としてまとめたわけですね。ただ、この周辺にもいくつも商店が軒を連ねていて、たとえば市場の向かいには水上店舗というビルがあります。そこにはもともと川が流れていて、その川沿いに露天商が立ち並んだところから歴史が始まっているそうなんです。その川がたびたび氾濫することが問題になって、川をふさいで暗渠にして、その上に水上店舗というビルを建てたんですね。これは公設市場より古い建物ですけど、那覇市の建物ではないから、公設市場のようには建て替え工事が進まないと思うんです。あの界隈には古い建物がたくさんあるから、公設市場は建て替え工事を終えられたけど、じゃあ周囲をどうするのかって問題はこれから顕在化してくる。

 水上店舗って、ガーブ川の上に建ってるんですよね。あれはでも、もともとは不法占拠なの?

橋本 あの一帯はもともと闇市だから、権利関係が複雑だという話はよく聞きます。公設市場の建て替え工事に先駆けて、公設市場に面したアーケードが撤去されたんですよ。このアーケードは通り会が独自に設置したものなんですけど、市場に面した区間は撤去されることになってしまって。通り会の方たちがどうにか再整備しようと活動を始められて、市場中央通りに関しては来年新しいアーケードが完成する予定なんですけど、これもかなり大変だったらしくて。「アーケードの再整備をするのであれば、権利を持っている全員の同意をとってほしい」と言われたものの、地権者と不動産の所有者が複雑に入り組んでいて大変だったという話は聞きました。

西灘文化会館に展示されている、畑原市場の模型(慈さん提供) 

 そこに畑原市場の模型があって――それは畑原市場大感謝会のときに作ったものなんですけど、鉄砲みたいな形をしてるのが畑原市場なんです。ここも権利関係が複雑で、それを解きほぐすだけですごい時間がかかったんですね。今残っている灘中央市場のほうは、水道筋六丁目にある嶋田土地の先先代と地主が共同で開発したんですよ。畑原市場ができたのは大正7年なんですけど、もう、むちゃくちゃ流行ったんです。畑原市場に買い物にくる人で水道筋が賑わうような状態で――ようは市場をつくったら儲かる時代があったんですよね。畑原市場と灘中央市場、ライバル関係でしのぎを削っていたんですけども、「公設」じゃないんで建て替えは無理やったんです。仮店舗もなんもなしで、もう、潰すしかない。店を続けたいって人もいたんですけど、ほとんどの人が「もう辞めます」と。それで、もうすぐ完成しますけど、マンションが建つことになって、一階も全部店舗なしになったんです。実はね、灘中央市場にもそういう話がきてたんですよ。

橋本 えっ、そうだったんですか?

 ここを建て替えますという話になったんですけど、店舗はどうするんだという話になって、とりあえず先送りになったんですよね。少し前に旦過市場が焼けましたやんか。市場は火が出ると一気に広がるんで、防火の問題をなんとかせなあかんのですけど、防災空地をつくってなんとか営業しているのが灘中央市場の状況ですね。 

灘中央市場。写真右手に、空き地を利用した憩いの区画が見える。 


土地の歴史に敬意を払う


橋本 この数年のあいだに、100年の歴史を誇る畑原市場がなくなって、灘中央市場もそういう状況にあって、灘の町も大きく移り変わっている時期だと思うんです。そんな灘に暮らしている慈さんが、『市場界隈』や『そして市場は続く』を読んだらどんな感想を抱くのか伺ってみたいなと思って、今回のトークイベントにゲストで出演していただきたいと思ったんです。 

 あれはもう、完全に聞き取りじゃないですか。一店舗ずつなじみになって、そこの歴史を正確に聞き取っていく。ああいうことを、ここでできないかなっていうことは考えましたね。いや、実はね、今度するんですよ。灘中央市場がもうすぐ100周年を迎えるんで、そんときに本を出そう、と。関西学院大学の学生さんにお願いして、2年間かけて1軒1軒ヒアリングをして――橋本さんのパクリですけど、そういうのを残しとかんと。市場の歴史っていうのは、ただ単に「何年に何がありました」っていうことではないっていうのは、橋本さんの本を読んでも感じるところで。橋本さんは「どこの出身か」というところから聞きよるじゃないですか。あれがやっぱり、読んでて面白いし、資料として貴重じゃないですか。なので、橋本さんのお仕事ってすごいなと思いながら、ずっと読ましてもらってたんですけどね。 

那覇の市場界隈にある「むつみ橋かどや」

橋本 少し前に「市場の古本屋ウララ」の宇田智子さんと話をしていたときに、すごく腑に落ちたことがあったんです。どうして記録を残すのかという話になったときに、宇田さんが「わからなくなるのが怖い」という話をされていて、ああ、僕も同じだなと思ったんですよね。当時はそこまで意識的だったわけではないですけど、ドライブインの取材を始めたのもそういう理由だったと思うんです。すでに閉店してしまったドライブインでも、ネット上に写真だけは残っていたりするんですよ。店舗の外観だとか、中の雰囲気だとか、そこで提供されていたメニューだとか。ただ、わざわざお店の人に「どちらのお生まれなんですか」とか、「どういうきっかけで店を始めたんですか」とか尋ねて書き残されていることはほとんどなくて、お店が閉店してしまうともう、たどりようもなくなってしまう。そうやって忘れ去られていくのでいいんだって考える人もいるとは思うんですけど、僕はそうなってしまうことが怖いんです。慈さんも、灘のことをずっと発信して記録に残されてきたわけですけど、それはどういうきっかけだったんですか? 

 やっぱり、地震なんですよね。震災のとき、僕は東京におったんですけど、帰ってきたらうちの町内がぐちゃぐちゃになってて。水道筋はセーフやったんですけど、あんときに「一瞬でなくなるんや」と思ったんですよね。それで神戸に帰ってきて、最初にやったんが「naddist」っていうメールマガジンなんです。そこで自分の記憶を書いたり、取材っていうたら偉そうですけど、残った店に話を聞きに行って。それで「ここのご主人はどういう人で」っていうのを書いたりして、メールマガジンを出してたんです。だから、やりたいことはたぶん似てるんですよね。僕の場合は地震のことがあって、それこそ何も残らないのが怖くて、そういうことを始めたっていうのがきっかけなんです。 

畑原東市場

橋本 だから、慈さんはさっき「橋本さんのパクリ」と言ってくださいましたけど、慈さんはずっと前から町のことを記録に残してきたわけですよね。 

 いやいや、早い遅いはアレですけど(笑)。「naddist」というメールマガジンをやりだしたんが1998年ですから、24年くらい前ですね。もうすぐなくなってしまう50メートルぐらいの路地のことを、「ここのマンホールが」とか一個ずつ触れていって、4000字ぐらいで書いてましたね。それは今もアーカイヴスが残ってるんですけど、僕がnaddistで書いたとこ、結構潰れてるとこも多いんですよ。だから、あとから効いてくるというかね、「ああ、書いといてよかったな」と思うことは多いですね。 

橋本 慈さんは一度地元を離れて、戻ってきたときに「naddist」を始められたわけですよね。僕の場合、出身は広島なので、沖縄とは縁もゆかりもないんです。あるいは、『ドライブイン探訪』のときも、自分が思い入れのある場所を取材したということでもないんです。だから、取材するとき常に「わざわざ外の人間が入っていって、なにか記録できることなんてあるんだろうか?」という自問自答はあるんですけど、「いや、そんなことで悩む前に、とにかく記録しないと」って気持ちになるところもあって。最近、垂見健吾さんが写真家生活の集大成となる写真集『めくってもめくってもオキナワ』を出版されたんです。昔、文藝春秋から出ていた『くりま』という雑誌があって、その最後の特集が「長寿日本一 沖縄の食」で、その撮影で垂見さんは沖縄に渡られたそうなんです。そこから沖縄に移り住むことにもなって、およそ40年にわたって撮影された写真が1冊にまとまっているんですけど、「ああ、あのあたりって昔はこんなだったんだ」と感じる写真がたくさんあるんですよね。それを見ていても、とにかく記録に残しておくと、未来を生きる誰かが「ああ、昔はこのあたりってこんなだったんだ」と感じることができて、その土地に対する距離感が変わってくると思うんです。

那覇のまちぐゎーには、歴史の地層が刻まれている。
こうして旧・市場と旧・アーケードが併存していた風景も消え、歴史的なものになった。 

 それ、僕も結構大事にしてるところで。別に懐かしがるためにやってるわけじゃないんですけど、まちの記憶って積層になっているから、ここの土地を掘れば絶対いろんな時代の記憶が出てくると思ってるんですね。新しいもんを建てるにしても、そこに敬意を払う――まちの歴史に対する敬意は大事やと思うんです。記録を残しておくのは、ただ懐かしがるためだけではなくてね、次のまちをつくっていくときにも絶対大事なもんやと思ってるんですけどね。
 

記録すること/発信すること

 
橋本 『市場界隈』と『そして市場は続く』では、自分の中で結構モードが変わってる部分もあるんです。「もうすぐ建て替え工事が始まって、風景が変わってしまうかもしれない」と取材を進めた前著と、まさに風景が変わっていく姿を目の当たりにしながら取材した今回の本だと、やっぱりモードが変わらざるをえない部分があったんですよね。向井秀徳さんの言葉を借りれば、僕は「孤独主義者」というか、「この感情を誰かと分かち合うことなんてできるわけない」とやさぐれて、ひとりで酒を飲んでるようなタイプなんです。だから、誰かとなにかを共有できるなんてことは想像してなかったんですね。ただ、目の前の風景が変わっていくのを目の当たりにしたときに、「記録に残せればそれでいい」という立場ではいられないところもあって。 

 前のときより、結構踏み込んだ感じですよね。 

コロナ禍の影響で閑散とした那覇の仮設市場(2020年6月16日撮影)。
この日は盛大な一時閉場セレモニーからちょうど1年が経過した日だった。 

橋本 地元紙での連載だったことが影響していた気もするんですけど、ちょっとモードが違うんですよね。それで言うと、慈さんはもともと「naddist」というメールマガジンで発信したり記録したりって活動をされていたところから、今は記録というよりも、イベントをたくさん企画して、人を巻き込んで町を面白くしていくことをされていると思うんです。それは、慈さんの中でモードが変わった瞬間があったんですか? 

 「naddist」やってたときにね、最後ちょっと嫌になってきたんですよ。僕が町のことを書くと、「俺、これ知ってる」自慢みたいな反応が出てくるようになってきたんです。あと、もうひとつ、「昔の灘区は良かったよね」っていうノスタルジーみたいな雰囲気が出てきたときに、「ああ、ここおったらあかん」と思って、メールマガジンやめて、今の状況をどう楽しむかって方向にシフトしていったんですよね。僕は郷土史家でもなんでもないのに、ごっつ揚げ足取られるようになったり、「俺はもっと詳しい」みたいなオッサンらがくるようになって、嫌になって「naddist」やめたんです。さっき言ったように、記録を残すことは大事やと思うから、さっき話した灘中央市場の企画みたいに、提案することはしてるんですけどね。 

閉場間際の畑原市場の様子(慈さん提供)

橋本 今の話にもありましたけど、慈さんの企画するイベントって、ノスタルジーとは全然違うところにあるのが面白いなと思うんですよね。さっき話に出てきた畑原市場大感謝会は、100年続く市場がクローズするタイミングで企画されたイベントだったわけですよね。そういうイベントって、ノスタルジーに満ちたものになりがちな気がするんですけど、そういうものとは別種の精神が根っこにあるイベントだったな、と。第一牧志公設市場が一時閉場を迎えた日、ものすごく大勢の人たちが市場に詰めかけていたんです。それを目の当たりにしたときに、こんなにたくさんの人たちの想いが詰まった場所だったんだと思うのと同時に、「皆、昨日までどこにいたんだろう?」という気持ちにもなったんですよね。市場に限らず、長く続いたお店が始まるってなると、途端に「残念だ」と語りたがる人が出てくるじゃないですか。 

 それ、大嫌いです。ようおるんですよ。毎日なんかモノ買うとった人が「残念です」ならわかるけど、「お前がこおへんからなくなったんじゃ」と腹立ちますね。
 

今のまちを面白がる


橋本 長く続いたものが終わりを迎えるとなったら、どうしてもそういうノスタルジーが漂いがちだと思うんです。ただ、大感謝会は全然ノリが違ったのが不思議だな、と。

 そういう感じにしたくなかったから、市場の話をするにしても、昔話をするんじゃなくて、橋本さんにきてもらって那覇の市場のことを話してもらったんですよね。あと――「裏輪呑み」って知ってます? 100均で売ってるマグネット付きのカゴをどっかに貼り付けて、それをテーブル代わりにして路上で飲むっていうやつなんですけど、あれを市場のシャッターにくっつけて飲み会を企画したんです。もう、「市場に対する冒涜か」と言われそうな話ですけど、そんな感じでひとりで企画して、全部で18イベントやったんです。なんでやったかゆうたら、誰もやれへんからです。ああ、誰かやってくれへんかな、誰もせえへんか、しゃあないなと企画したんが、畑原市場大感謝会です。なんか、色々やりましたね。それはもう、懐かしむというよりも、最後まで記憶に残すためにやる感じです。 

畑原市場大感謝会の様子(慈さん提供) 

橋本 記憶に残すために、イベントを企画する、と。それで言うと、那覇の市場でアーケードの撤去が始まった日は、僕はずっとその瞬間を待ち構えていて、写真を撮っていたんです。何十年とそこにあったアーケードが、今まさに撤去されようとしているのに、それを取材しているメディアもいなければ、行き交う人もほとんど注意を払うことなく通り過ぎていたんです。これは性質の違いなのかもしれないんですけど、僕はそこで目の前にいる人たちを巻き込むような活動は考えられなくて、「せめて自分は見届けて記録に残そう」と、黙って立ち尽くして作業を見ていたんです。 

 僕がもしその現場におったら、マイクで実況しますわ。「あ! 大城さんが今、アーケードの上にあがりました!」ゆうて、イベントにすると思います。そこらへんは、橋本さんとちょっと違うところもあるのかな。 

2020年1月6日、那覇の市場ではアーケードの撤去が始まった。
アーケードの設置にも携わった大城盛一さんが高所に上がり、作業に取り掛かる。 

橋本 実況って発想は、僕の中からまったく出てこないと思います。 

 DJブースを作って、実況と解説を置いて、「××さん、どうですか?」「いや、これ、いよいよ始まりますよ」ゆうて、これは歴史的瞬間なんですよってことを伝えたら、行き交う人が「これってそんなすごいことなのか」って思ったら面白いかな、と。 

橋本 その「面白いかな」っていうのは――どういう心のもちようなんですか。まちに対してそういう視点を持つ人が増えたら面白いなってことなのか、それとも慈さんの性分として、ひとりでじっと見ているよりも、いろんな人を巻き込んでなにかやるほうが合ってるってことなんですか? 

 ああ、僕、巻き込んでるつもりはないんですよ。僕自身、巻き込まれるん嫌なんです。まちづくりって、人を巻き込もうとするじゃないですか。でも、絶対巻き込まれたくない。僕は地域に根ざしてると思われがちなんですけど、自治会とかそういうのは全然入ってないですし、コミットしてないんです。震災後はそれで疲労困憊になったこともあるんですけど、ヨソモノ感覚で進むのが好きなので、ここが地元ではあるんですけど、ちょっと客観的に見る癖はついてるかもしれないですね。だから、「ここの市場、素敵でしょう」みたいなことは、口が裂けても言いたくない。
 

フラットな視点


 さっき橋本さんは「那覇に縁もゆかりもない」という話をされましたけど、だから取材できることってあると思うんですよね。僕は灘ですけど、地元の人間が地元のことを紹介すると、もうひとつ面白くない場合が多いんですよね。もしも橋本さんが那覇出身で、公設市場の本を書いたとしたら、最後に思い入れみたいなんが一個入ってしまうと思うんですけど、橋本さんはドライじゃないですか。僕、あれがいいと思うんですよね。フラットな視点で客観的に市場を書くのが素晴らしいなと思うんです。 

解体工事が終わり、いちど更地になった第一牧志公設市場

橋本 たしかに、外の人間だから、まったく気兼ねなく取材できているところはあるかもしれないです。コロナ禍になって、「Go To 商店街」という政策があったんですよね。助成金を出して、商店街を活性化するためのプログラムを企画させよう、と。那覇のある商店街では、「この通りの歴史をまとめて、買い物客にアピールしよう」という話が出たらしいんですけど、「そんなことやって、売り上げにつながるのか」という話になって、その企画は通らなかったそうなんですね。もしもコミュニティの中で活動していたら、そういう話になるところもありますけど、僕は外から勝手に入って勝手に取材しているから気楽だってところはあるのかもしれないです。 

 橋本さんにも書いてもらった『水道筋読本』、実はあれ、Go To 商店街のお金で作ってるんですね。あれも最初は、「水道筋のマップをつくってほしい」って相談がきたんです。それを聞いたときに、「マップ、いる?」って話になって、それよりかは読み物をつくろう、と。それも、地元の人だけじゃなくて、橋本さんみたいにきたばっかりの人にも文章を書いてもらったんです。僕の案はね、最初は「こんなもんいらんねん」って言われるんですけど、出来てみたら皆、「ええのできたなー!」と。だから、そこまでやり続けることが大事ですね。そこでまた、橋本さんがいいのん書いてくれたんですよ。灘中央市場に「jinan」って韓国料理屋さんがあるんですけど、そこの鉄板の話を書いてくれて。 

橋本 畑原市場大感謝会のトークイベントに出た翌日に、慈さんに連れていってもらったのが「jinan」だったんです。そこで鉄板焼きを作ってもらっているあいだに、「この鉄板は、もともとここにあったお店が特注で作ったもので、そのあとこういうお店が入ってたんだけどやめてしまって、これだけの鉄板はなかなかないから、誰かこれを引き継ぐ人はいないか」と探していたところから、今の「jinan」というお店がオープンした――そんな話を慈さんが聞かせてくれて。自分ひとりで入っていたら、ただ飲んで食べて帰ってたと思うんですけど、この土地の記憶を色々知っている慈さんと一緒に入ったことで、少しだけ地層に触れられたような感触があったんですよね。 

灘中央市場の韓国料理屋「jinan」の鉄板。

 「これは神戸製鋼の何工場で作ったもので」とか、わけわからんことを話してたと思います(笑) 

橋本 そんなふうに引き継がれているものがあるんだと知ることで、風景が少し違って見えてくる。それが面白いなと思って、「jinan」のことを書いたんです。
 

市場のエッセンス

 
橋本 ただ、慈さんに案内してもらうことなく、自分ひとりでこの界隈を歩いていたら、いかにも歴史がありそうな佇まいのお店に入っていた気もするんですね。何十年と続く老舗はもちろん素晴らしいけど、新しくオープンしたお店は駄目なのかっていうと当然そんなこともなくて、『そして市場は続く』でも、3、4回に1回は新しくオープンしたお店を取材しようと決めていたんです。昔ながらの街並みが変わっていくことは残念だと思うけど、永遠に変わることなく今のままであり続けることなんてないじゃないですか。変わっていくことは仕方のないことだっていうことと、変わってほしくないって気持ちのあいだで揺れ動きながら取材を続けてきたんですけど、新しくオープンするものとどう関わっていくのかってことはずっと考えていたんです。ただ、自分の中ではラインがあって、ここがどういう土地なのか、どういう歴史があるのかってことをまったく無視したお店には行けないな、というのがあるんです。那覇の市場界隈には、2014年に「足立屋」という酒場がオープンしてから、どんどん飲み屋さんが増えて、今は飲み屋街と勘違いする人もいるような状況になってるんです。 

那覇の市場界隈は、夕方になるとあちこちで赤提灯にあかりが灯る

 「足立屋」さんって、ホッピーがあったり、焼酎もキンミヤを使ってたり、東京の飲み物を出してるんですよね。 

橋本 はい。「足立屋」は、東京の大衆酒場の文化を沖縄にも根づかせたいとオープンしたお店で、面白いお店だなと思うんですよね。それに、「足立屋」はあの界隈でいち早く酒場を始めたお店でもあるから、そこがどういう土地で、どういう歴史があるのか、わかって出店しているわけです。あのあたりは職住隣接で、1階が店舗で2階が住居というところも多いから、遅くまで営業していたら迷惑をかけてしまうということで、21時台にはもうラストオーダーをとるんですよね。ただ、そこが飲み屋街だと勘違いして出店したところはもう、住民から苦情が入っても深夜まで営業を続けていて、ずっとトラブルになっている。そこを取材するのはちょっと難しいなっていう線引きが、この数年、僕の中にはあったんです。
  この灘のあたりでも、長く続いていたお店が閉まって、新しいお店がオープンすることもちらほらあると思うんですよね。慈さんの中では、こういう店だったら嬉しいけど、こういうのはちょっと、っていう線引きは何かあるんですか? 

 どうやろね。灘中央市場にね、つい最近新しい店が出来たんですよ。なんとね、フレンチ。なんでここで店を始めたんかいうたら、魚屋と八百屋があるからというんですね。食材がまわりにあるから、それを料理する――ようは公設市場の2階の食堂ですわ。そういうエッセンスがわかってる人がきてくれると、大応援したくなるよね。「jinan」もね、市場が好きやからということで、市場で結婚式やったんですよ。市場にバージンロードをつくって、新郎新婦が入ってきたら、各店舗の人らが花吹雪を投げたり、唐揚げ渡したりして。あいつがええなと思うのは、「jinan」をオープンするときにわざとペンキを塗り残して、前にそこにあった中華料理屋のメニューを残してあるんです。前の店に敬意を払うじゃないですけど、そうやって痕跡を残してくれて、「ええセンスしとんな」と。このあたりは、そういうふうに市場にオーラを感じた人たちが入ってきてる感じがするから、せんべろみたいな話にはなってないんですよね。 

灘中央市場「jinan」の壁(慈さん提供) 

橋本 そういう感覚をどうやって引き継いでいけるかっていうのと、ちょっと難しいところもあるような気がして。那覇の市場は、もともと「県民の台所」と呼ばれていて、県内各地から買い物客が集まっていた場所なんです。ただ、県内各地にスーパーマーケットができてくると、わざわざ那覇まで買い物に出かけなくても住むようになって、観光化していったところもある。そういう流れの中で、自分は今何を言えるかって考えると、口ごもってしまう部分もあって。僕が生まれ育った田舎町には市場なんてなくて、最初からスーパーでしか買い物したことがなかったんです。それに、地元にセブンイレブンがオープンしたとき、めちゃくちゃ嬉しかった記憶があるんですよね。そのお店の中には全国的に均質で、田舎町にいても東京と同じものが並んでいるってことが嬉しかったんだと思うんです。だから、「昔ながらの市場って、風情があっていいと思いませんか?」みたいな物言いは、僕にはできないんです。それ以外のアプローチをするとしたら、どんな伝え方ができるだろうかって考えるんですよ。 

 僕ね、市場に関しても、古めかしいからいいと思ってるわけじゃないんですよ。別にもう、びっかびかでもいいんです。ただ、そこに一個一個の商店があって、相対売りというか、店主と会話をして買っていくシステムが一番好きなとこなんですよね。だからもう、びっかびかに耐震工事をやって、上にタワマン積んでてもいいんですよ。ヨーロッパの市場とか行くと、天井高くて広いところで魚売ったりしてて、かっこいいじゃないですか。あんなふうになれへんかなと思うぐらいで、古いからいいとは思ってないんです。だから、エッセンスですよね。変にレトロにするとか、そういうの嫌いです。だから、いいんですよ、全然建て替えてくださいという感じですね。 

リニューアル・オープンした第一牧志公設市場。


再現不可能な痕跡


橋本 市場が建て替え工事に入ったときから、「新しいぴかぴかの建物になってつまらなくなった」とか、「昔のほうが風情があってよかったのに」とか、絶対にそういうことを言い出す人が出てくるんだろうなと思っていたんです。実際に、もうすぐ新しい市場がオープンですとメディアに流れ始めた頃から、そういう意見がSNSで出回るようになって。僕自身、古い建物に対して何も感じないかというとそんなことはないんですけど、「レトロで素敵」みたいな物言いはできないなと思っているんですよね。ただ、今日慈さんと話していて感じたことですけど、たとえ新しい建物に変わっていくんだとしても、そこにかつて存在していた建物の痕跡だとか、そこでずっと働いていた誰かの痕跡が残っていたら、「ここは昔、今とは違う風景があったのかな?」という想像もしやすくて、ひとつ前の地層にアプローチしやすくなるのかな、と。だから、レトロ調だから良いわけではなくて、誰かが使い込んだ痕跡があるのが面白い、と。 

 そうそう。そういうのは故意につくるもんではないじゃないですか。古い市場に良いところがあるとすれば、あの痕跡というのは二度とつくれないというところで。シミじゃないですけど、いろんな歴史の痕跡というのは後からつくられへんもんやから、それがなくなるのはもったいないなという気持ちはありますね。 

那覇のまちぐゎーにある、「足立屋」へと続く路地。

橋本 ただ、そういう感覚を持つ人が多数派なのかというと、そんなこともないんだろうなと思ってしまうところもあって。先月末にもしばらく那覇に滞在していたんですけど、街をぶらついていたら、悲鳴が聞こえてきて。一体何事かと思って、声がするほうに視線を向けると、酒場が立ち並んでるエリアで、どうやらゴキブリがいた、と。 

 ああ、ゴキブリに悲鳴をあげてたんや? 

橋本 あのあたりの飲み屋って、軒先にはみだしてテーブルを並べてるところも多いから、普通に路上なんですよ。僕もゴキブリはすごく苦手ですけど、この季節の沖縄で、飲食店が立ち並んでいるエリアで、しかも路上なのであればもう、「そりゃいるでしょうね」と思わざるを得ないと思うんですよね。とはいえ、すごく苦手で、どうしても声が出てしまうって人もいるとは思うんですけど、悲鳴が連鎖しているのを目の当たりにしたときに、ここを飲み屋街だと思って訪れた人からしたら、ほとんどテーマパークのようにしか見えていないのかもしれないなと思ったんです。そこにゴキブリが出てきたら、悲鳴もあげるだろうな、と。だとしたら、実際に古くからある街並みで飲むよりも、レトロ調の雰囲気をデザインした真新しい建物の中で過ごすほうが、その人たちにとっては快適なんじゃないか、と。 

 レトロ調だと視覚的なところでとまってしまいますよね。においだとか、手触りだとか、ゴキブリだとか、五感で感じられないな、と。前に沖縄に行ったときは、沖縄市に行ってきたんですけど、コザがせんべろだらけになってて、面白いなと思って入ってみたんです。そしたらね、米兵がひとりで日本酒飲んでるんですよ。それはそれで面白いなと思いましたけど、いわゆる基地の前の街という雰囲気というのはなくなってきるなと思いましたね。
 

パラソル通りと掬星台


橋本 ここ数年取材を続けてきたなかで、一番ショックだったのは、パラソル通りがなくなったことだったんです。牧志公設市場衣料部・雑貨部と、水上店舗とのあいだに、パラソル付きのテーブルと椅子があって、誰でもそこで休んでいけたんですよね。でも、そこにたむろして飲酒・喫煙をする人たちが出てきて、近隣から苦情が相次いだことで、那覇市はあっという間に「撤去」という判断に至って――。そこにたむろしてお酒を飲んでいた人たちは、たしかにマナーが良くない感じでしたし、僕がパラソル通りに座っていたら隣に座ってきて、足元にずっと唾を吐かれてたこともあったんですけど、まちなかで佇んでいられる場所がなくなったことがショックだったんです。コロナ禍の中で、まちなかでたむろすることに対する視線が厳しくなった時期もありましたし、「路上飲酒」なんて言葉ができて、公園に佇んでお酒を飲んでるだけでも白い目を向けられるようになって。
 
 そう、最近おかしいよね。 

那覇・パラソル通り。 

橋本 もちろん公園にたむろして、酒を飲んで大騒ぎしたり、ゴミを放置したりするのは論外だとしても、ひとりで粛々と缶ビールを飲んでるだけでも、ネガティブな視線を感じるときもある。でも、街っていうのはただ買い物に出かけるだけの場所じゃなくて、佇んでぼんやりできる場所だと思うし、個人的には、たまには路上で酒を飲みたい日もある。ただ、ここ数年、「公共」の場所だとそういう過ごし方が難しくなったな、と。 

 このあたりだとね、コロナで摩耶山が賑わうようになったんですよ。もともとインバウンドでお客さんがきてた場所なんですけど、それがどんどんおらんくなって、その代わりに地元の人がバンバンくるようになって。なんでか言うたらね、まちなかにある公園で、何したらあかん、これしたらあかんと言われるようになって、公園で酒が飲めなくなったときに、掬星台は無法地帯やったんです。あそこ、公園じゃないんですよ。 

橋本 公園じゃないというと? 

 あれ、空き地なんです。神戸市も特に規制をかけられないから、もうやりたい放題。山の上にベビーカー並びましたからね。夜景を観にくるお客さんは減ったんやけど、そのぶん地元の人らが行きやすくなった。この数年間で、地元の人が地元を見直すってところもあったのかなと思いますね。 

摩耶山頂にある掬星台。 


地元と観光


橋本
 『そして市場は続く』の取材をしていた期間というのは、ほぼコロナ禍とも重なっていたんです。那覇の市場界隈は、人が密集する場所だということで、コロナ禍になって人通りが途絶えた時期があったんですよ。 このあたりだと、コロナ禍の影響というのはありましたか?

 水道筋で言うとね、そんなにお客さん減ってないんですよ。三宮だと、飲み屋さんはがっらがらだったんですけど、こっちは生活圏にある市場であり飲食店なので、そんなに減ってなくて。やっぱり、住んでる人が利用するとこは強いですわ。だから最近はもう、バーがこのあたりに移ってきたりもしてるんですよ。バーンとは当たらへんけど、バーンと下がることもないから、商売的にはそれでええんじゃないの、と。そういう意味では、地元の店は強かったんやなと言うのは感じてますね。
  
橋本 那覇の市場界隈の風景がここ数年で大きく変わったのは、観光客がたくさん訪れる場所だったからというのもあるんだと思います。コロナ禍になって観光客が途絶えると、行き交う人も少なくなるし、地元の人たちからすると「あそこは観光客で賑わう場所だから、今の時期は近づかないほうがいい」って感じは、2020年の段階ではあったと思うんですよね。そこでお店をされていた高齢の店主の方の中にも、「こういう状況だから、もう店をやめたほうがいいんじゃないか」と家族に言われて、店を閉じたところもあって。そういうことが重なって、空き物件の貼り紙があちこちに出て、店が入れ替わったところもある。

神戸・水道筋の賑わい。

 灘中央市場で言うと、小売もしてますけど、基本は料理店に卸してるので、そこの打撃はあったみたいです。それで言うと、昨日かおとついのニュースでやってたんですけど、大阪の黒門市場は観光客で賑わう場所になって、地元の人が誰もこんような時期があったらしいんです。でも、コロナで観光客がおらんくなったら、「これはあかん」と地元の人が買い物にきてくれた、と。ただ、最近また観光客が増えてきて、また地元の人がこんようになったみたいで。 

橋本 那覇の市場界隈でも、「コロナ禍の時期に支えてくれたのは地元客だった」という話はあちこちで聞きました。 

 「コロナのときに地元の人らが支えてくれたから続けられてるんですけど、また観光客で賑わうようになって、地元の人がこなくなって複雑です」って、ニュースでインタビューが流れてたんですよね。そういう話でいうと、このあたりにもね、「観光客を受け入れていこう」ってプランがコロナ前にあったんですよ。「ローカルの旅」みたいな感じにして、観光客を入れてツアーしたらええんちゃう、と。もしそうなったら、やっすいテキヤみたいなんが増えるんちゃうかと心配してたんですけど、結局その話はコロナでなくなったんで、ホッとしました。だから、このあたりもせんべろ街になってた可能性はあるんですよね。

那覇・太平通りの賑わい 。

橋本 観光向けの市場なのか、地元向けの市場なのかって議論は、那覇でもずっと続いている話ではあるんです。旅行で訪れる側からしても、「ああ、地元の人はこういう感じで過ごしてるんだな」と感じ取れる場所に行きたいなと思うから、やっぱりまずは地元の人たちで賑わう場所であってほしいなとは思うんです。ただ、「観光客は相手にしません」となってしまうと、近寄りがたくなってしまう。 

 そう、だから塩梅やと思うんですよね。大谷みたいに二刀流じゃないですけど、どっちもの視点でやるのが大事だと思うんです。 

橋本 さっき慈さんが言ってくださったように、僕はわりと、ドライに街を眺めているところもあるんだと思うんですよね。それは自分が暮らしている街や、生まれ育った街に対しても、どこかドライな視点があって、どれだけひとつの場所に通っていても外側の視点から眺めているところがある気がするんです。その塩梅の匙加減というところは、どんなバランスを保っているんですか? 

 そのへん、難しいよね。僕は勘でそういうことをやってますけど、このあたりにはもうちょっと観光的な外側の視点が必要なんかなと思うときもありますね。ただ、観光的な視点に振ってしまうと、僕らは行かなくなっちゃうんですけどね。 

橋本 そこのバランスがうまく保たれていくことが、賑わいにつながるのかもしれないですね。最初にも話にあがりましたけど、灘中央市場は再来年、2025年で100周年を迎えるわけですね。 

 ちなみに、摩耶ケーブルも2025年で100周年です。2025年って、大阪万博の都市ですよね。だからもう、こっちは摩耶ケーブルと灘中央市場の100周年を記念して、ここで万博しようかなと思うてるんですけどね。 

橋本 そのときはまた、遊びにきます。


(2023年5月5日 神戸・西灘文化会館にて)


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橋本倫史
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