静かな街を襲った悪夢…北九州市マクドナルド事件など,メルマガ - 2024/12/16
読者へのメッセージ(小話): 「メタバース熱」が冷めてしまった。イノベーションが成功するためには、便利さや目新しさだけでなく、『本当に欲しいものか?』という問いへの答えが明確である必要がある。結局、人間が根本的に求めるのは“楽しさ”や“有用性”であり、それが欠けているものは一時的な流行で終わる。メタバースも、具体的な価値提案がないまま流行を煽った結果、多くの人がその虚構に飽きてしまった。技術そのものに罪はないが、それをどう活用するかが問われている。
■今日のトピック
マクドナルドで中学生2人死傷、女子生徒の父「大変心痛めている」 周囲からは活発な印象。この事件、「かわいそうだ」「ショックだ」で終わらせるわけにはいかない。根本的に考えるべきは、なぜこうした事件が起きる世の中になっているのかという点だ。突然の暴力で無関係な命が奪われる――そんな理不尽が繰り返される一方で、社会全体が具体的な対策を講じる動きは鈍いままだ。「犯人」について考えると、普通に日常を送っている人間が突如として他人を刺すとは考えにくい。精神状態や生活環境、過去の経験など、その背景には社会が見過ごしてきた問題が隠れているはずだ。それを無視し続け、個人の孤立や心の闇を放置してきた結果が、今回のような悲劇を招いていると言えるだろう。周囲のコメントにある「明るくて成績優秀だった子が…」という言葉は、確かにその子の人格や生き方を示すものだが、失われた命を取り戻すことにはつながらない。むしろ、私たちが考えるべきは、「なぜその命が奪われたのか」「どうすれば同じことを防げるのか」という行動に移せる問いではないだろうか。事件が起きてから騒ぐだけでは遅い。犯人の行動だけを非難しても、根本的な問題解決には至らない。社会全体で「孤立を防ぎ、心の闇に寄り添う」仕組みを作らなければ、次の事件はまた別の場所で起きる。個人に責任を押し付けるだけの議論で終わらせてはならない。
あと、この事件で気になったのは、「マクドナルドの責任は?」ということです。この事件は無差別殺傷事件の可能性が高く、一般的にこのような事件において、店舗側に刑事責任を問うのは非常に難しい。
刑事責任について
予見可能性: 刑事責任を問うためには、事件を予見できた可能性(予見可能性)があったかどうかが重要になります。今回のケースでは、男が突然店内で凶器を取り出して犯行に及んでおり、事前にそのような行為を予見することは極めて困難です。過去に同様の事件が多発していたり、特定の兆候があったりすれば予見可能性が認められる余地もありますが、現時点の情報ではそうした状況は確認できません。
結果回避義務: 店舗側には、顧客の安全に配慮する義務(結果回避義務)がありますが、今回のケースのように突発的な犯行を防ぐことは、通常求められる範囲の安全管理体制では困難です。例えば、金属探知機の設置や警備員の常駐などが考えられますが、ファストフード店においてそこまでの対策を義務付けるのは現実的ではありません。
以上の点から、現時点の情報ではマクドナルド側に刑事責任を問うのは難しいと考えられます。
民事責任について
刑事責任とは別に、民事責任(損害賠償責任)を問う可能性もわずかながらあります。
安全配慮義務違反: 店舗側は顧客に対して安全配慮義務を負っています。今回の事件で、店舗側の安全管理体制に不備があったと認められれば、遺族や負傷者から損害賠償を請求される可能性があります。ただし、上記で述べたように、突発的な犯行を防ぐのは難しく、安全配慮義務違反を立証するのは容易ではありません。
マクドナルドが今後取るべき対応
法的な責任とは別に、マクドナルドは企業として今回の事件に対して適切な対応を取ることが求められます。
被害者への支援: 遺族や負傷者への精神的・経済的支援を行うことが重要です。
安全対策の見直し: 今回の事件を教訓に、店舗の安全対策を見直し、再発防止に努める姿勢を示すことが求められます。具体的には、従業員への防犯訓練の強化、緊急時の対応マニュアルの整備、必要に応じて警備体制の強化などが考えられます。
情報開示: 事件に関する情報を適切に開示し、社会の不安解消に努めることも重要です。
最後に重複する形にはなるが、この事件はマクドナルドだけでなく、社会全体に大きな衝撃を与えました。二度とこのような悲しい事件が起こらないよう、社会全体で対策を講じていく必要がある。
洋菓子店から「クリスマスケーキやめたい」の声も…イチゴ1パック2000円超!?止まらない材料費高騰で利益率は低下。クリスマスが近づくと、日本中の洋菓子店が慌ただしく動き出す。赤いイチゴと白いクリームのケーキが店頭を飾り、甘い誘惑が街を埋め尽くす。この光景は、もはや日本の「風物詩」と言ってもいいだろう。しかし、この習慣が私たちにもたらしているものは、本当に「幸せ」なのだろうか? それとも、これは企業が仕掛けた巧妙な呪縛なのか?2024年のクリスマスは特に厳しい。イチゴは2割以上の値上がり、チョコレートは数千円単位で高騰。ケーキ1つの価格が4000円を超える中、多くの洋菓子店が「利益が出ない」と悲鳴を上げる。ここで考えたいのは、なぜ日本の家庭は毎年この「贅沢」を続けるのかということだ。ケーキを買う余裕がなくても、「クリスマスだから仕方ない」と無理をする人々。そこには「幸せなクリスマスを過ごさなければならない」という社会的なプレッシャーが見え隠れする。日本におけるクリスマスケーキは、文化ではなく習慣だ。しかも、その習慣は企業によって作り上げられたものだ。それ自体を否定するつもりはない。しかし、本当にそれが必要なのか?という問いを持つことが重要だ。物価が高騰し、経済的な負担が増す中、消費者は「買わない」という選択肢を取り戻すべきではないだろうか。クリスマスケーキが本当に自分たちの価値観に合うものなのかを考えること。それは、単にケーキを買うかどうかだけでなく、自分たちがどのような形で「幸せ」を作りたいのかを問い直す行為でもある。クリスマスケーキは、確かに甘くて美味しい。しかし、その背後にある物語を考えるとき、私たちが「無意識に続けている習慣」に鋭い疑問を投げかける必要があるのではないだろうか。
「25年は「年賀状じまい」が主流に、6割以上が「出さない」。新年の挨拶はLINEが最多。」という記事で考えることは…。
””本当に大切な人への気持ちはどのように伝えるか””
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コンパスを頼りに進め!:迷いの時代に
思春期から抱いてきた「死への恐怖」や「人生の本質」といった根源的な問いは、私に深い探求心を与えると同時に、市場の変化を敏感に察知するための…
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