短編小説『コージン様』
僕の母は、コージン様という神様を信仰していた。
もしかすると仏様だったかもしれない。新年明けての三日目と盆休み、母は必ず家族を引き連れて寺を詣でていた。その寺とはいずれもお不動さんを祀ったものだったと記憶している。とすると、コージン様とはお不動さんの別名かなにかかもしれないわけだ。
新興宗教の類いではないことだけはたしかで、いや待て、思い出した。そういえば、マンションから一戸建てへ引っ越した際、拝み屋が訪ねてきたことがあった。とても偉い先生でかつては大変お世話になったのだと母は言っていたから、もしかするとその関係だったのかもしれない。
ともかく母のモーニングルーティンとは、そのコージン様に一貫分のシャリにも満たない白い飯とおちょこに入れた水道水をお備えすることだった。しかるのちに手を合わせてなにやらぶつぶつ呟く。家内安全を願っているのか、願掛けをしているのか、火伏せのまじないか――後年になってから調べたところによると、荒神様や庚申様という信仰は本当に存在するそうだ。御利益については諸説あるようだが、前者はおおむね火や台所の神ととらえて良いそうだから火伏せの効果は間違いなくあるだろう。後者は三尸なる大陸由来の伝承や病魔退散や、いろいろ出てきてよくわからない。音が同じなので前者が当たりなのではないかと考えるが、それにしては台所ではなく居間に祀られていたのが謎だ――なにを唱えていたのかは、本人に尋ねてもはぐらかされたので、結局最後まで知ることはできなかった。
母が信心深かったかどうかについては判断に迷うところだ。朝のお祈りをのぞけば、母はコージン様を気にかけて生活しているふうではなかった。魚も食えば肉も食うし、大好物は魚の活け造りだった。清貧の徳とも縁遠く、ことにカタカナのブランドには弱かった。一方で家族の大事となると、途端に朝な夕なに手を合わせ始める。僕の受験とか父の昇進とかが差し迫るたび、母はなにごとか口の中で呟いて九十度の礼をしてまたひとしきり呟くのを三十分は繰り返していた。
僕は長らくそれを自己満足だと考えていた。なんせ僕は小学受験に失敗している。中学でも失敗した。高校は第一志望に受かったが、後に試験結果を受け取ってみればギリギリもギリギリ、受かったのはほとんど奇跡みたいなものだった。
受験の日の朝、母は僕の両手をとって自身の額に押し当て、ぶつぶつと何事か唱えたのち、おごそかに宣言したものだ。
「これでコージン様が宿ったからね。絶対に大丈夫。お母さんが祈っておいたからね」
僕は多少は勇気づけられて試験に臨み、そして絶望した。苦手な数学と英語では一番苦手な部分が出題されていたし、もっとも得意とする理科では教科書のコラムみたいな、こんなの出ないだろうと思っていた部分に重きを置いた記述問題があった。国語では思い出せない漢字があったし、社会ではこれも苦手な応仁の乱についての出題があった。これは落ちたと思ってしょんぼり帰宅したわけだが、そんな僕を母はご馳走を並べてニコニコ待っていた。そんなの相手に真実を言えるか。少なくとも僕は言えず、黙って好物のすき焼きを食らった。
結果、惨憺たる有様ながら合格していたわけだが、母はそのひどい点数が並ぶ紙をありがたそうに神棚に供えた。助けてくれてありがとうございます、とは直後に母が言ったことだ。首の皮一枚で繋がったのはコージン様のおかげというわけである。僕はといえばケッと胸の内で唾を吐いていた。高校合格はたしかにお情けだった。しかしその情けとは、僕が時間いっぱい難問にかじりついて諦めなかったからかけられたものに他ならない。それを否定されて面白いわけがなかった。
大学入試では、だから、僕は絶対に祈らなかった。母がどうしてもと言って聞かないのでしぶしぶ天神様には詣でたが、購入した学業守は学習机の引き出しに入れっぱなしにしたし、合格鉛筆は書きにくいからと言い張ってシャープペンシルをかたくなに使った。
母はこの時も僕の手を押し頂いて祈っていた。
「コージン様が助けてくださるからね。絶対に大丈夫。お母さんが祈っておいたからね」
僕はやはり内心でケッと思いながら、しかし、大勝負の前に親子喧嘩などごめんだったのでありがとうと言っておいた。
結果は見事な不合格の山だった。滑り止めにも、滑り止めの滑り止めにも落ち、僕は浪人生と相成って――遊び歩いた。実に楽しい一年であった。僕が通うことにした予備校は良くも悪くも本人のやる気主義で、どこぞの予備校のように欠席している生徒の家へ電話をかけるなどというお節介を焼かなかったのだ。
おかげさまで僕はすっかり馬鹿と化した。もともと希望していた大学から数ランクも落として、それでも合格できるかどうか。その様といったら、進路指導がそう言って頭を抱えるほどで、確実に合格となると名前さえ書ければ合格できる類いしかないとさえ断言されてしまった。
そこで僕は手を挙げたのだ。じゃあ、漫画を学びたいと。
高校の頃、僕は漫画アニメ同好会に所属していた。そんなところへ入会届を出したと知った母は、当初は大反対した。僕が選ぶ部活は県大会があるような立派なものだと信じていたところにこれだったので、裏切られたとでも思ったのだろう。目を三角にして怒る母をなだめたのは意外なことに父だった。普段は母のやることなすことニコニコ全肯定し、母が命じるのであれば荷物持ちでもタクシーの運ちゃん代わりでもこなす人である。それが本人の意志とか希望する進路とか言って反論してきたものだから、母はたじろいで怒りを引っ込めた。こうして僕は同好会を続けられることになり、アニメについてはそれほどでもなかったが、好きな漫画を読みまくれる放課後を手に入れたのだ。
漫画を描くことに関しては、アニメ同様さほど興味がなかった。同好会の中には東京のイベントに足繁く通う剛の者がおり、誘われてカットイラストや数ページの四コマ漫画を寄稿することはあったが、これを楽しい、続けたい、もっと上手くなりたいとは僕は欠片も思わなかった。
そういうわけで漫画専門学校のパンフレット片手に言ったことは、つまり、逃げである。
あと二年は遊ぶぞという宣言でしかなく、それは両親ともにわかっていたはずなのだが、案に相違して二人は揃って許可を出した。父に至っては「とうとうお前も夢をみつけたんだな」と目を潤ませさえしたのだから驚きだ。母はといえば――これがさっぱり覚えていない。怒られた記憶はない。それでもなにか言われたに違いないと思うのだが、頭に浮かぶのは専門学校の受験日が近づくとやはり三十分を超えるお祈りを捧げていた、妙にちんまりして見えた背中だけだ。
その専門学校の試験なるものは実に簡単であった。というか、子供だましにもほどがあった。解答用紙に書き込みながら、間違った答えを全部の欄に書き込んだとしても合格するに違いないと思ったものである。
こうして、絶対にコージン様のお導きやお情けあってのことではなく、金を産むメンドリたることを認められて僕は漫画専門学校に入学した。そうして、意外なことにハマったのである。なににとは言うまでもあるまい。漫画を描くことに、である。
漫画の科学、あるいは美学とでも言おうか。ひとつコマを小さくするだけだけで理解しやすくなる、ひとつ構図を変えただけで表現力が上がって見える、ひとつ言葉を削っただけでページ全体が洗練される――講師が見せる手法はまさしく魔法で、僕はすっかり魅了されてしまった。
遊ぶことなど頭から抜けていってしまい、むしろ抜けていったことにすら気付かぬまま、僕は漫画制作に明け暮れた。もっと上手い絵を、もっといい台詞を、もっと面白い話を、その一心が頭の天辺から足の先までを貫いていた。
この頃は両親にずいぶんな迷惑をかけたと記憶している。漫画制作の現場が紙と付けペンの時代からパソコンやタブレットモニターの時代へ変わろうとしていた時期だった。今では月々数千円で使えるお絵かきソフトが当時は買い切り十何万しか選択肢がなく、また上達とともにテクスチャ作りだ左右反転だと手を広げるのは今も昔も変わらぬはずだが、それに必要な機材の価格がまた今ほど安くもなく――ちなみにそれぞれの機材は今のように小型化されていなかった。僕は段々と学習机では満足できなくなり、父に頼み込んで広いワークデスクを買ってもらった――そんなこんなで掛かりはかさむ一方であった。
その上に僕は地方暮らしだった。描いた漫画を投稿することはできても持ち込みとなると難しいわけで、僕はまたしてもその辺りを父に頼み込んだ。父は一度目は快く送り出してくれた。二度目も頑張れよと言って遊ぶ金さえくれた。けれども三度目、四度目となるといい顔をしなくなった。
それというのも、僕の描いた漫画が箸にも棒にも引っかからない駄作だったからだ。
自分で言うのもなんだが、僕は絵に関しては上手い方だった。台詞については学校一とさえ言われていた。しかし、話作りがてんで駄目で、どう駄目なのかというとなにも思いつかないのである。漫画を描きたいという気持ちはある、ネームを描くのすら好きで、できることなら二十四時間全てを漫画に費やしたいと思うほどだ。だが、語りたいことなくして漫画は描けない。
おもしろい話などひとつも思いつかなかった。自分が読んでみたい漫画を描いてみろと言われれば、頭の中は白夜の空さながらの白一色になった。そうこうしているうちに提出期限や約束の日付が近づいてくる。焦りのままにとにかく手を動かしてみる。なんとか仕上がりはする。だが、そうして描いたものは話の立ち上がりからして意味不明だった。オチに至ってはもはや投げやりというか、自分で読み返してもこんなクソ漫画どこのどいつが描いたんだと怒りがこみ上げてくる始末だ。
困り果てていた僕を助けてくれたのは母だった。
「ちゃんとお願いしておいたからね。絶対に大丈夫。コージン様を信じなさい」
「今度は面白いって言ってもらえる。絶対に大丈夫。コージン様がついてる」
「頑張れば必ず芽は出るの。絶対に大丈夫。コージン様が叶えてくださるからね」
その頃の母は毎日、コージン様に祈りを捧げていた。朝のルーティンだけではなく、僕が夜遅くに帰ってきてもじっと頭を垂れているということがよくあった。やがて父が新幹線代を出し渋るようになると、母はコージン様の棚を探って小さな神殿の裏から銀行の封筒を取り出してこう言った。
「頑張ってきなさい。絶対に大丈夫。コージン様が応援してくれてるよ」
その日も僕は母が隠していた金で東京に出てきていた。欲しい画材があるのだというとその分も余計に母は握らせてくれて、そして、久しぶりに僕の両手を押し頂いた。
「コージン様が見守ってくれてる。いつも一緒にいるからね。約束したからね。大丈夫。絶対に大丈夫。お母さんが祈っておいたからね」
だが、やはり駄目だった。編集者から名刺も貰えなかったことに落ち込んで、しかしぼんやりしている間に新幹線の出発時間になってしまうので、僕はともかくも新宿にある画材屋を目指していた。地元ではまず見かけない巨大広告に目を奪われつつ、慣れぬ人混みで右往左往しつつ、スマホのナビゲーションに従っていた時だ。次は信号だ右だと言っていたスマホが不意に着信音を奏で始めたので僕は飛び上がった。
電話をかけてきたのは父で、持ち込みの結果を聞かれるのかと思ったら、途端に憂鬱の固まりが胃の底に落ちてきた。僕は悩んだ末に着信拒否させてもらうことにして顔を上げ、すぐにまたスマホを見た。再び着信があったのだ。相手はやはり父である。これは出ないと収まらないやつだと嘆息して僕は電話に出た。
「もしもし? 父さん?」
父は無言だった。しばらく待ったが息づかいひとつ聞こえない。ははあと僕は考えた。きっと誤操作だ、カバンの中を探った時かなんかに指が触れたんだな。念の為に「切るよ」と告げてから僕はスマホを耳から離そうとし、動きを止めた。スマホの向こうで音がしたのだ。父の声には聞こえなかったそれは、暴風が洞穴をこじ開ける音とか木の根が引きちぎれる音とか、そういう自然のあげる悲鳴に似ていた。
「もしもし? もしもし?」
それでも僕は、間抜けなことに、そんなふうに声をかけた。父はようやくそれに応えてくれ――その先の記憶は曖昧である。画材屋に行かなかったことはたしかだ。新幹線に飛び乗ったことも、病院に駆けつけたことも現実にあったことだ。けれど、大型連休中の窓口でどうやって帰りの切符を押さえたのかとか、大病院の中でどうやって父と合流したのかとか、細かいところはどうしても思い出せない。ともすれば前後の記憶さえ入れ替わる始末で、先の話だって理屈を考えればそうであったはずという推測である。ともかく僕はどうにかして実家のある場所までたどり着き、そして見た。
母が死んだ。
川で溺れた子どもを助けようと飛び込んで、そのまま溺れてしまったらしい。着衣のまま泳ぐのは難しいですから、という声が耳の奥に残っている。誰が言ったのか、もしかすると警察だったのかもしれない。子どもは助からなかったそうだ。どころか、溺れる二人を助けようともう一人が飛び込んで、そちらは命だけは助かったが意識がないと聞かされた。子どもの母親は川辺で泣き叫ぶばかりだった為に無事であったというが、この場合、なんの救いにもならないだろう。
葬儀の記憶も火葬場の記憶もほとんどない。次に僕がはっきりと意識を持ったのは、実家の自室で天井を見つめている場面だ。
コージン様は母を助けなかったのだなと思った。毎日毎朝、白い飯と水道水を供えてお祈りして、坊さんのように身を慎んでいたわけではないにしろ、母なりに信じて願い続けてきたのだろうに、結局は神も仏もないというのがこの世の真実なのだ。だって、そうではないか。もしも本当に神仏がいるのだとしたら、己を信じる人間を救わずにいられるだろうか。その人間が最後に救おうとした者を、せめて救わずにいられるだろうか。
それからの僕はすっかり気力を失ってしまった。漫画を描く気にもなれず読む気にもなれず、だからといって遊びもしなかった。ただ学校に行ってはぼんやり席に座っていた。心配した友人が呑みに連れ出してくれても、盛り上がる人々を眺めているだけだった。
ツボヤが話しかけてきたのは、それから少し経った頃のことだ。イラストの描き方を専門に教えている講師で、彼が見込んだ生徒は必ず仕事を得るという噂があったと記憶している。
「お前、詩を書け」ツボヤは一方的に言った。「短い言葉並べるの、得意だろ。詩を書いてそこにイラストを描けばいいんだよ。イラストも自信あるだろ? 話が作れないなんて気にすんな。お前、ほら、写真撮ってまわってるじゃないか。同じようにすればいいんだ。お前っていうカメラに映ったことを、そのまま詩とイラストにすればいいんだよ。んで、それをネットにアップしろ。いいな、必ずやれよ。やり続けろよ」
それだけ言って去って行くツボヤをぼんやりと僕は眺め、そして言われたとおりにした。本来なら青春の反発心だの若さゆえの敵対心だの抱く場面だったろう。だが、そんなものを抱く気力すら失っていた僕は、その時の気持ちをそのまま詩にしてイラストを添えたものを新しく作ったSNSアカウントに投稿した。
反応は良かったのだと思う。本当にそれだけしか投稿していないというのに、いくつか評価がついた。もっとも当時の僕はこんなもんだよなと思い、しかし、ほかにしたいこともなかったのでツボヤに従い続けることにした。
投稿を続けていくうちに評価は増えていき、やがてはコメントまで付くようになった。といっても評価とコメント合わせて五十行くか行かないかである。僕はこんなもんだよなと思い続け、それでも言われたとおりに投稿し続けた。
漫画から詩に転向して三ヶ月位した頃だろうか、唐突にバズるということを体験した。
その詩は母を喪ってからめっきり老け込んでしまった父を題材に採ったものだった。投稿して一時間しないうちに評価が千を越え、その日が終わる頃には万単位になっているのを見て僕は恐れた。なにかとんでもないことが起こっている。どうか早く終わりますように。
僕の意に反して椿事は続いた。アカウントのフォロワーは右肩上がりに増えていった。評価が千を越えることが珍しくなくなり、月に数回は万行くようになり、そのたびにフォロワーが増え、ついには仕事の依頼が入った。あるウェブマガジンの隅を定期的に埋めてほしいとのことで、悩みはしたが依頼文が学生相手でも丁寧だったのが決め手となって僕はそれを受けた。
連載を続けるうちに僕は徐々に気力を取り戻し、それゆえだったのだろうか、仕事も段々と増えていった。紙の雑誌への掲載からミニグッズ制作から、学校を卒業する頃には個展を開けるところまで来ていて、これには僕を嫌っていた講師でさえ褒め言葉を口にしたほどだ。
書籍が出て、カレンダーが出た。思いついて投稿を有料と無料に分けてみたら、これも案外売れた。電子書籍を出すことを次に思いついて、四季をテーマに四冊同時刊行してみた。こちらも無料版の閲覧数が良かったのが主な理由だが、それなりの金になった。
仕事が増えると読者が増え、それを理由にまた仕事が増える。良いサイクルが出来上がっていて、当時の僕は有頂天になっていた。なにしろ、為すこと全てが良い方に転がるのである。このまま生きていくのだろうなと僕は思い、そんな時、不幸がまた電話から始まった。
知らない番号からかけてきた相手を、僕は最初詐欺師だと思った。
その相手はこう言った。借金を返せ。そんなもの生まれてこの方したことがなかった僕は、はいはいと言うかたわらで警察のウェブページを検索していた。ところが相手の言い分をよく聞いてみれば、たしかにそれは身に覚えがあることだったのである。
専門学校時代の友達が、脱サラしてカフェを開きたい、多少は借金する必要がある、保証人になってくれと言ってきたことがあった。せめてそこで父に相談していれば良かったものを、当時は有頂天の頂上にいた僕は深く考えることもせず名前を書いてしまった。友達は名前を貸してくれるだけでいいと言ったし、僕の方もまさか友達が騙してくるとは思っていなかった。かてて加えて若き僕は夜逃げ、高飛びという言葉は知っていても、そんなものが現実に起こるとは想像もしていなかったのである。
友達が残したという借金の額を見て僕は青ざめた。ほとんど身ひとつで事業を興した僕の常識と現実のカフェの開店資金とには、あまりに大きすぎる開きがあった。到底、返せるような額ではなかったのだ。
今さら父に相談したところでどうにもならない。漁船に乗ったら返せるだろうか、あるいは臓器を売るのはどうか。詩の報酬を全額返済に充てたとしても三年、五年――悩む間にも電話はじゃんじゃん鳴り、やがて家のドアがうるさく蹴られるようになった。
そうなったらあとは早かった。転がり落ちるように精神は落ち込んでいき、動悸息切れが日常になり、ベッドから出られない日が出てきて、当然のこととして仕事はまったくはかどらなくなった。何本か持っていた連載を切られた。仲良くしていた編集者からの連絡が途絶えた。僕はどんどん追い詰められていき、そしてある時、ふと気付いたのだ。
あ、これもうダメだ。
その日の夕刻、僕はネクタイを二本結び合わせたものを握りしめて部屋をうろついていた。わかっていたことではあるが、探しても探しても梁だとか欄間だとか、それを掛けられる場所が見つからなかった。頭さえ抱えながらうろうろしていると、ふとドアノブに目が留まった。尻さえ付かなきゃいける。僕はそう思ってドアノブと自分の首にネクタイをかけた。
カーテンを引いたままの部屋は薄暗かった。その薄闇に夕日の色が細く長く延びていた。専門学校卒業を機に引っ越してきたこの部屋でも使うことにしたワークデスク、使い倒して傷だらけになってしまったライトボックス、色とりどりの水彩ペン、色紙やコピー用紙の束、全部とお別れだと思えば感慨深かった。そして、そうと感じた途端に全てが楽になった。重りが詰まったようだった手足も、誰かに掴まれているようだった喉も、痛みの塊となっていた胃も、不思議なことにつらくはなくなっていた。
僕はゆっくりと腰を落としていき、それに伴ってネクタイが目の端で垂れていくのを観察した。人は最後、こういう光景を見るのか。己が死ぬ原因を妙に達観した気分で見つめながら死ぬ。きっとこれまでに死んだ全ての人間がそうだったんだろう。
ネクタイがピンと張った感触を合図に僕は一気に体から力を抜き、そして見た。
白い足袋のつま先が忽然と部屋の中央に現われていた。あっけにとられて見守るうちに、その白は刷毛で掃いたように天井へ伸びていき、やがて帯が現われて着物の胸元が現われた。首から顎、鼻から目が現われた瞬間、僕は息を呑んだと思う。
母がそこに立っていた。何人もの男を従えて、ピンと背筋を伸ばして、本当にそこにいたのだ。
母が従えていた男たちがいつ現われたのかはわからない。彼らは気付いた時にはずらりと横一列に並んでいて、めいめいがきらびやかな甲冑や着物をまとい、だというのに顔の印象はまるで掴めなかった。見えないのではない。見えているのにわからないのだ。
「あなたならできる。絶対に大丈夫。お母さんが祈っておいたからね」
そんな声が聞こえた。懐かしい音だった。かあさん、心の中で呼んだ。まるでそれが聞こえたかのように母は微笑み、そして、どすんと尻が床にぶつかった。
なにが起きたのかわからないまま首元に手をやれば、そこにはなにもなかった。振り返ってみるとネクタイの結び目がほどけていた。ハッとして母のいたところに目をやったが、そこには誰もいない。なにかがいた気配すらない。
そこで気付いたのだが、母が従えていた男たちは十人以上いた。それがずらりと横に並んでいたのは明らかにおかしかった。一人暮らし用のこの部屋にそんな人数が並べる余裕などない。なのにどうして彼らにはそんなことができたのだろう。
腰が抜けたようになってしまい、座り込んだまま疑問を頭でひねり回していた僕だったが、ふとそれが脳裏に兆して嗚咽した。それ、朝が来るたびに母が口の中で唱えていたこと。全部がすっかりわかってしまった。母の祈りはきっと、己の為のものではなかったのだ。だから、コージン様は溺れる母を助けなかった。否、きっと助けることができなかったのだ。
「母さん」
床に伏して僕は泣いた。泣いて泣いて泣きまくって、気が晴れるとすぐにワークデスクについてパソコンを立ち上げた。どんなことでもできる、気力が腹の底から湧き上がってきていた。
借金を返し終えられたのは、ずいぶん後になってからのことだ。苦労という苦労は全部した気がするし、友達のことは恨んだし、肝心な時になにもしてくれない世間への恨み節も酒に任せてけっこう叫んだ。それでも詩は書き続けた。書いて描いて、全ての借りを返して祝杯を挙げた夜だけは書かなかったが、それ以外は書き続けた。
そして今、僕は六十を目前にしてまだ詩を書いている。きっとこれからも書き続けるだろうと確信しているし、それと同じくらいに信じていることがある。僕は神にも仏にも祈らない。この先なにがあっても、寺にも神社にも詣でないだろう。
僕の一生分は母が願ってくれていた。であれば僕は、目の前にある現実をひとつひとつ確実にやっつけていくだけだ。憂うことはなく、嘆くこともない。道はきっと繋がっている。
絶対に大丈夫という母の声がこだまする。その響きが耳から失われないかぎり、きっと僕は絶対に大丈夫なのだ。
ただひとつ、この年になったからこその心配がある。母は多分、縁結びを願うことだけは忘れていたのに違いないと思うのだが、どうだろう。なにせ、いいなと思った女にはことごとく男がいたし、付き合うところまで行ってももれなく振られた。年を食ってからは金目当ての女しか寄ってこなくなってしまい、そもそも食指が動かなくなった。独りが寂しくなって、思いきってペットショップへ行ってみれば店が潰れている。保護団体に行ってみたらすげなく断られた。友達は多いし、仕事で知り合った人からの声掛かりは多いが、しかし、これは。
いつか、もう少し先になるであろう答え合わせが怖いような、しかし楽しみなような、最近はそんな気がしている。