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気がつけばそこにあるもの
娘が読んでくれと持ってきてくれる絵本の中に、絵葉書入りのクリアファイルが追加された。そのファイルには、自分の父がリハビリを兼ねて作成した絵葉書や切り絵が何枚も挟まっている。父の日があったので、父のこと。
兵庫県出身で端々に緩めの関西弁。ボールを一緒に蹴ってくれたし、凧揚げもしたし、釣り堀によく行った。色んな場所へ連れて行ってくれて、たまに作るポトフが美味しかった。若い頃の写真はちょっとだけ石田純一に似ていた。ちょっとだけ。面白いことを言っていた覚えはないけど、面白いと思ってもらえるような発言を多々していたのは覚えている。
自分が小学5年生の冬に、父は脳卒中で入院した。午前中に知り合いのサッカーチームの手伝いをして、続けて午後は息子の試合を車で観に行く予定だった。午後、出発しようとしたその時、「シートベルトが締められないよ」と発したが、口が曲がっていたという。母が直ぐ電話をして家から緊急搬送された。自分が病院に着くと酸素マスクを装着した父がいた。血圧が高く、午前中に薄着でゴールを運ぶなどの力仕事をしていて、寒暖差で倒れてしまったのではないかという話だった。
対処が早かったおかげもあって(心臓が強いらしい)、仕事復帰が出来るまで回復した。しかし病気をして以降、沸点が低くなった。よく怒るようになった。
中学2年生の時に両親が離婚した。父は実家のある兵庫県に帰った。母姉自分は祖母の家の市川市に引っ越して、苗字は戸籍上、河野から佐々木に変わった。
離れて暮らしてから初めて会った父は眼鏡をかけていた。初めて見た。新大阪駅のホームで目の不自由な人がいた時には、腕を差し出して次の駅まで送り届けていた。初めて見た。お好み焼きを食べて、ホテルに泊まって、次の日はUSJで遊んだ。これまでと変わらなかった。むしろ優しかった。
翌年の夏は、父の家のベランダでBBQをした。美味しかった。楽しかった。この時は一人で行ったが、「来年もまたBBQやろうや、皆で来たら」と言っていた。ちょっと関西弁が強くなっていた。
次に会ったのは病院だった。倒れるのは二度目で、ベッドにいた父はBBQが出来そうな姿ではなかった。回復したが、それ以降は歩行器を使うようになった。日常生活が出来るようにリハビリ頑張ってと声を掛けた。また元気にBBQ出来ると思っていたから。
それ以降も兵庫の家に何度か行った。デイサービスの人が出入りするようになって、ベッドやトイレに手すりが付いていた。そんな生活ぶりなのに何故か免許証を取得していて、新車のワーゲンを車庫でぶつけて廃車にしていた。高血圧なのに寿司やピザのデリバリーばっかり頼んでいた。
自分が車を運転出来るようになって一緒に出かけた時は、デパートでスヌーピーのぬいぐるみを持ってニヤニヤしていた。買わないよ。姉の娘に会った時はとても嬉しそうだった。
その後、自宅での生活が困難になり車椅子で行動するようになった。リハビリ施設を転々としながら、現在父は特別養護老人ホームにいる。
兵庫の家は売りに出すことになったので、掃除と荷物整理をした。服が多い、小銭が多い、物が多い。見事に息子に受け継がれていた。
そこで目に留まったのが冒頭のクリアファイルである。リハビリチュー。。。ウナギの食べたい今日この頃。。。因みに絵心は全部姉の元へ行ってしまった。
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父の身体や環境が変わっていく中で、自分は父に変わらないことをずっと求めていたのかもしれない。変わらなければいけなかったのは恐らく自分自身であったと思う。辛くても悲しくても現状を受け入れて生きていく。自分がコントロールできるものをどうにかする、その解釈が出来るようになったのはこの経験もありそうだ。
最後に、Mr.childrenのInnocent worldで締めます。
愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気が付けばそこにあるもの
気が付けばそこにあった愛は、何かを言いたい書きたくなる親譲りのものでした。
完