価値と成果にコミットしたコミュニケーション -農村社会学から考える根回しの本質...とか-
どうも、世界中のヒトや組織の可能性を拡げたい、長谷川です。
株式会社アトラエで、組織力向上プラットフォーム Wevox のデータサイエンティストをしています。現在はカスタマーサクセスのチームに所属して、主にクライアント企業のエンゲージメントを分析してのレポーティングや、いわゆるCS Opsと呼ばれるような、カスタマーサクセスのプロセスを最適化する仕事を中心にやっています。
さて、せっかくクリスマスに向けたアドベントカレンダー企画の一環だしと、"愛"をテーマにいっちょ語ろうかと思っていたのですが、社内で何人かに熱弁してみたところ反応が芳しくなかったのでやめました。
25歳の若造が語る愛は、まだ浅かったのかもしれません。出直します。僕のメンター(御年32歳)は大声で愛を叫んでました、悔しいです。
代わりに、年の瀬ということで、今年を振り返っての学び(であり、来年への課題)をつらつらと書いていこうと思います。
めちゃくちゃに内向きで、社外どころかアトラエ社内に向けてですらなく、自分用の内省・整理をそのまま出力したような文章ですが、この歳末アドカレシーズン。世間は大量のnoteで溢れ返っているので、斜に構え逆張り人間の僕は、ニッチ戦略と言い張って、あえてこれでいってみようと思います。
あまり内容とは関係ないですが、@kawamura_seiyaの素敵な写真と共に、パラパラと流し読んでください。
コミュニケーションは難しい
のっけから、なんて当たり前のことを。
思えば僕の人生は、コミュニケーションの成功体験と失敗体験の繰り返しに彩られてきたのですが、社会人になってからもそれは変わらずでした。
入社して7ヶ月とちょっと。1番フィードバックを受けるのも、それ以上に強く自分で課題感を持っているのも、結局コミュニケーションの部分です。
言語化はそれなりに得意。ロジックも強い。クサいものに蓋をしないで、ちゃんと口にできる。得意なことを並べてみると、なんとなく悪くはなさそうな言葉が並びますが、たしかに偏った感じがします。
なんだか片側のステータスだけが高くて、バランスが悪い感じ。真ん中に引き寄せるためには、何をどう意識すればいいのか、取組案を2つ挙げてみました。
1. 率直さと配慮のバランス
「遠慮はするな、配慮はしよう」じゃファジーすぎ
チームや組織が本気で価値や成果に向き合うためには、いつでも誰に対してでも、全員が自分の考えをはっきり口に出せる関係性が重要であることは、おそらくアトラエに限らず一般的な常識として、合意が取れるでしょう。
一方で、コトを前に進めるためには、相手を思いやってコミュニケーションに配慮する必要があるということも、それほど異論なく受け入れられるのではないかと思います。
(ここで言う配慮には、単に言語表現や態度をマイルドにする以外に「今言うより別の機会に話した方がスムーズかも」「直接言うより自分で気づいてほしい」「私が言うよりこの人に言ってもらった方が受け入れやすいかな」といった気遣いも含みます)
思ったことはちゃんと伝えつつ、その伝え方には工夫しようね、という話です。めちゃめちゃ正しいと思う。でもこの整理、甘くないですか?
もしチームや組織が正義に反する(と自分が思う)意思決定に転がっていってたら、時には殴ってでも止めなきゃいけないこともあります。全て剥き出しで想いをぶつけて、ちゃんと相手の心まで刺しにいかなきゃいけないその時に、「どっちも大事」なんてファジーな整理では、日和って踏み込みきれないかもしれない。
反対に、些細なズレに突っかかり続けて、チームのパフォーマンスを停滞させてしまう可能性もあります。
判断基準は「コトに対してどんな力を加えたいのか」
僕は「今、私は/私たちは、コトのベクトルに対してどんな力を加えたいのか」という問いが、上のような率直さと配慮のバランスの、判断基準になるのではないかと思います。
根本的なコトの進行方向に大きな齟齬があるのなら、配慮なんて劣後。究極殴り合いになってでも、ちゃんとお互いの思考と感情をさらけ出しきって、同じ方向を向けるまで理解しあうことを何より最優先にする必要があるかと思います。
一方で、基本的な方向性が一致しているのなら、とにかくスピード感を持ってコトを進めることが重要。本質的でない些細なズレを完璧に擦り合わせるより、それらを多少許容しても、チームが気持ちよく走れることを最優先にコミュニケーションを取っていくべきでしょう。
実際には、これらはグラデーションになっていて、その都度「今、自分が/自分たちが、本質的なコトの方向性に関して、どれだけズレているのか」を意識することで、自分のコミュニケーションがコトを進める推進力になっているか、逆に阻害要因になってしまっているかを、メタ認知していく感じかな?と整理しています。
特に僕は後者の、本質的でない些細なズレに囚われてしまうトラップに嵌まりがちなので、そちらに重心を置いて意識しないとです。
(配慮の中でどれだけ率直な想いを伝えられるか。率直な想いをどれだけ配慮を込めて伝えられるか。というチャレンジは、これとはまた別軸で、一生向き合っていかなきゃいけないテーマ)
2. MTG外での議論
僕は、オフィシャルな議論の場以外でのコミュニケーションに強く意味を見出しています。学生時代からそうですが、この7ヶ月の間により一層そう考えるようになりました。
特に、人間関係を築くための雑談的なコミュニケーションではなく、業務と直接関連した内容について、しかしMTGとはまた違った場で、少人数で議論するということに、大きな価値を置いています。
その理由を説明するために、やや遠回りですが、大学時代に『農村社会学』の講義で聞いた「根回し」の起源について、お話しさせてください。
(※伝聞かつ記憶だけで、ファクトは一切チェックしてないです。1年前まで研究者のタマゴしてた人間とは思えません、ごめんなさいmm)
農村社会学が語る、根回しの起源
その講義では、まず日本の農村におけるコミュニティのあり方の特殊さが語られました。
海外では、宗教や人種など、思想や価値観の部分が近しい人同士でコミュニティが形成されます。一方、日本は地形が山がちで、集落同士が断絶されがちなこともあり、地理的に近い場所に住んでいる人同士でコミュニティが形成されてきました。
(たとえば「町内会」みたいな概念が、海外には無いことを思い浮かべていただけると、わかりやすいのではないかと思います)
このように、ただ近くに住んでいるからというだけの理由で形成されたコミュニティでは当然ながら、もともと思想の近い人同士で形成されたコミュニティよりも合意形成が難しくなります。かといって山で分断された集落では人の流動性も無いため、不満を持つ人が別のコミュニティへと移ることも叶いません。
そのため、ディベートや多数決のような、強者が総取りするような意思決定の方法を採ると、コミュニティ内部に続々と不満が溜め込まれていき、社会が成り立たなくなってしまいます。そうした環境のなか、コミュニティの構成員みんなが漏れなく合意を形成するために発明されたのが、根回しだと言うのです。
一般的には「根回し」というと、日本人特有の悪しき風習だ。意思決定スピードを落として生産性を下げる。そういった悪いイメージが先行しているように思います。根回しの価値を評価している人も、どちらかと言えば「現実的に組織の中で物事を円滑に進めるために、必要になってしまうテクニック」という、ある種の妥協の産物として、根回しに価値を見出している印象です。
しかし実際には、少なくとも日本の農村社会においては、それが最も合理的な意思決定の方法だった。というのが、講義の主旨でした。
根回しの本質=井戸端会議(マジ)
根回しと言うと、なんとなく裏取引のようなニュアンスを感じてしまいますが、ここで言われている「根回し」の本質的な価値は、そうした「必要悪」的な要素ではありません。これは大切なポイントです。
要は、ステークホルダー全員参加の場でのみ議論が行われると、どうしてもA or Bの対立構造が生まれやすく、議論がウルトラCを発想しようとする方向へ向かずに平行線を辿る時間が長かったり、ともすると強者や多数派がその他を圧迫してしまうことにもなりかねません。
なので、全員参加の会議とは別に、1対1など少人数での話し合いの場を設け、じっくりとお互いの持っている情報・考え・感情を共有することで、全員が腹落ちする結論を得られるようにしていく。というのが、先述した農村社会学の講義で語られた、根回しの本質でした。
そう考えると、根回しとは「全体会議の外で行われる、少人数での議論」のことであり、いわゆる「壁打ち」や「1 on 1」も、根回しの1種と言えそうです。
しかし、ここまでくると日常的な「根回し」という言葉のイメージからは、だいぶ乖離を感じてしまいます。言葉の悪印象がミスリーディングに働いてしまうのも嫌なので、ここから先は「根回し」のことを「井戸端会議(マジ)」と呼ぶことにします。その辺でゲリラ的に発生するけれど、マジ(真剣)な議論のことです。
アトラエに井戸端会議(マジ)は必要か
さて先述の講義に沿って、海外の宗教や人種のコミュニティと、日本の農村社会のコミュニティになぞらえて考えれば、思想や価値観の重なりに徹底的にこだわって採用しているアトラエは、世の中一般の会社と比べて「海外のコミュニティ」に近い組織だと思います。
根回し=井戸端会議(マジ)が必要無い組織。無くても成立する組織。実際、いきなりチーム全員のMTGにアイディアを持っていっても、全然建設的に議論が成立します。
が、それでも僕は井戸端会議(マジ)があった方が、よりスムーズにコトが運ぶ(シーンが多い)と思っています。
全員が価値観や意志を強く持っており、組織としてもそうした「どうあるべきか」への執着がアイデンティティそのものであることや、自律分散で役職が無く、意思決定者も定まっていなければ、誰かの意思決定に従わなければいけない理由も無いことは、一般的な組織よりも遙かに強力かつ漏れの無いメンバー間の合意を要求するからです。
ベースの価値観の一致は高いが、要求される一致レベルも高いので、「無くても成立する」が「あった方がいい」。
まとめると…
アトラエには絶対的な"価値や成果の担保"への強さがある
アトラエは、原理原則・本質論をとても大事にする組織です。そのため本質に立ち返って「コトの進む方向を変える」コミュニケーションは、強度・頻度どちらの面でも、とても高いレベルで行われます。
誰でも対等に議論できる組織でもあります。強者-弱者や多数派-少数派といった力関係で発言権が決まることはありません。1つのテーマに対して全員参加でバチバチやり合うことができます。
これらはいずれも、どちらかというと組織がネガティブな方向に転がりそうなとき、それを食い止めるために大きな威力を発揮するコミュニケーションな気がします。
たとえば売上優先で顧客への価値提供をないがしろにしたり、組織のチーム感が失われてバラバラになってしまったり。そういった"妥協"や"闇堕ち"的な展開を阻止して、価値と成果を"担保する"ようなパワーです。
ここのコミュニケーションへの強さは、たぶん世の中でも随一で、これはアトラエの大きな強みです。アトラエのアイデンティティを成り立たせている重要な要素だと思います。
アトラエがそうであるのと同じように、僕自身も根っこはわりと、こちら側のコミュニケーションが強いと自己認知しています。
だからこそ"価値や成果を伸ばす"コミュニケーションを模索したい
一方で、その強さは上手く乗りこなさないと、フェーズによって足かせにもなりえると思っています。
Just Do It !!の場面で、些細な相談のたびに原点に立ち戻ったり、思いつきの粗いストーリーを雑に放り込んでチームを混乱させてしまったりすると、必要以上にMTGが嵩み、行動量を確保できなくなるリスクがあるからです。
そういった、価値や成果を"伸ばす"べき場面では、本質的でない些細なズレに囚われすぎないようにしたり、非明示的に・緩やかに・ソフトに各メンバーの意志を揃えていったりするコミュニケーションが、よりパワーを発揮しそうです。
僕はこっちがまあ苦手。今は井戸端会議(マジ)の量だけで、どうにかここを補っている感じなので、そこにもっとPDCA回して質を上げたり、別の手札を増やしたり、コトの進行を意識して議論中のメタ認知高めたりが必要ですね。というのが来年の課題。
全ては価値と成果のために
そう。ダラダラとややこしいことを書き連ねてきましたが、大事なことはただひとつ。「それは価値と成果にコミットしたコミュニケーションなのか?」という純粋な問いだけです。
譲っちゃいけない価値や成果を守るために、いつでも誰にでも剥き出しの想いで殴りかかれることも大事。それができない大人になんて絶対なりたくないし。
でも、それはともすると、コミュニケーションの細部を妥協する甘えにもなりえる。ちゃんと価値や成果に向き合ったのなら、もっとワンセンテンスに、一挙手一投足に、神経を通せるはず。
我らが大将(@moriyaman0:Wevoxの事業責任者)は3年かかったと言ってたけれど、ざんねん僕なら2年でできる。来年の目標は「アトラエで1番、コトを1歩前に進めるやつになる」ことにしよう。
深夜テンションで風呂敷を広げて、あとは来年の自分に託します。こんなん広げ得、託し得ですからね。ここまで読んでくださった皆様は、長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。どうぞ他の社員のブログも読んでいってみてください。
後半はいらすとやのお世話になってばかりで、エモ写真の挿し込みどころが無かったので、特に意味は無いですが最後にそっと添えておきます。マックのポテトをかきこんでるのが僕です、探してみてね。
アトラエメンバーによる #アドカレ2023_アトラエ は以下よりご覧いただけます。
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