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爛柯(らんか)

淵は深く、岩肌から広く滝が流れ込んでいる。12月28日、冬。やんばるの最深部。

水辺にはサクラツツジが咲いている。葉は艶々していて石楠花のような…と思って足を踏み出すと黒い淵。
足元にイジュ(伊集)の白い花がいくつも流れてきた。 薄くピンクがかったツツジに加え、暖冬とはいえ、初夏にしか咲かない白い花々が広がる光景に、心がざわめく。
森の奥から甘い匂いがする。


トンネル手前、川の下流から大小10ぐらいの滝を登ってきた。小さい滝は1~3メートルの高さ、大きいものはダラダラ坂だが7、8メートルほどの高さになる。
そのたび登ったり、脇に巻いたり藪を漕いだり。河口から中流のここまで直線距離にして1キロ足らず、蛇行を加味してもたかだか2キロ行程にそんなにたくさんあるとは思っていなかった。
誰も行かないので、例えばネット上にも情報はほとんどない。

でも、登るたびに違う風景や生き物に出遭わし、足を止められなかった。
越冬中のリュウキュウアサギマダラの、青磁色の群れ。
国内でも一番重量のある蜘蛛、オキナワオオハシリグモ=Dolomedes orion。その足先は、学名通りオリオン星のような銀色に光る。あるいは夜光る目玉から採られたか。
オキナワテイショウソウは渦巻きみたいな白い小さい花。その細かな造形にしんと胸を打たれて。

ここで標高150メートル。もうすぐ林道に架かる、馴染みの橋に出られる距離だ。そうすれば舗装の道で河口の車まで戻れるだろう。
目の前の滝を登り、もう一つ滝を登ると(え、まだあるの?)、最後だろうという滝が見えてきた。
深く長い淵の向こうに、とうとうと音を響かせる、竜のような。高さはこれは垂直で、6、7メートルほどか。無理だなと思った。この気温と簡易な装備ではあの滝と濡れた岩肌は越えられない。
滝を巻こうと周りの岩に足を掛け、イルカンダのつるにしがみつき、着いた先は垂直よりもっと急な崖。太もももえぐられるような具合。仕方がない、撤退。日が暮れてしまう。

滑るようにもと来たルートを戻る。ちょっと疲れた、という気持ちをなだめながら小さな滝をショートカットで降りようとして、5メートルほど滑り落ちてしまった。滝壺の水の中で、ああ頭は打たなかった、よかったと思っていると、バンザイの格好の右肩が不自然に曲がっている。脱臼した。 僕は肩が外れやすいのを忘れていた。左肩はそれで手術をしているくらい。

平たい大きな岩に這い上がった。思い切って肩を伸ばせば、関節は滑るように収まるはず。あれ、戻らない。痛みに肩が抵抗している。そのままうずくまってしまった。
経験はないけれど、と、陣痛のように痛みの波が来る。それを追うように、吐き気もする。硬い岩もつらく、川辺から林の縁に倒れこんだ。まずいまずい、このままだと筋肉が硬直して戻らなくなる、その前に…でも肩関節はむなしく押し戻されるばかり。川辺の高台で、森を見下ろす。

冬日に光るやんばるの森。静かで豊かで、でも人里は遠い。休んでいると、今度は怖くなってきた。このまま肩がはまらなければ、この川は降れまい。ここで一晩過ごすのだろうか。
もうとおから携帯の電波は通じないまま。 怖さが声になって溢れてくる。わあぁ、わあぁー。でも僕の声はこんなにも響かなくて、森の緑に吸い取られてしまい。それで叫ぶのもやめてしまった。

夜が落ちてくる。
もっと柔らかくて楽な場所に行かなくては、と思って何かの遊びかトレーニングのように片手で木々を伝い、草を這って崖のくぼみに体を押し込む。
それでも体がひんやりするのは、上下長袖ではあるけれど、ほとんど水着のようなものしか身に着けていないからだ。 いま動けなければ、明日の朝6時ごろに下山。町までは…救助、迷惑などなど。息をつめて考える。泣きたい。眠りたい。でもできない。
このまま誰にも見つけられなければ?

ぼんやりしている。真っ暗で、生暖かい風が吹いて…横たわっていると、呼吸とともに地面がゆっくりと動いているような気がした。息づかいと明滅。積もる落ち葉の中の、地這性の蛍が光っている。吐く息と似たリズムで、あちこちで、視線の限りに。
光があるなら、と心が少し静かになる。このまま土になるのも悪くないなと思う。痛みと吐き気からは解放されるだろう。
でも身に着けたナイロン、プラスチックはうまくは腐るまい。  


昔むかし中国の木こりが森の中で迷いました

すると童子たちが、白黒の碁を打っています

気がついて見ると手の斧の柯はすっかり爛れ

いつの間にか何十年もの時が過ぎていました


冷えてきて、身体を動かさなければとも思うけれど、もう真っ暗だ。こわばって体が自由にならないので林の底を腰からずり降り、崖の縁の木にまたがる。明るい時に見たら、恐ろしい光景なのではなかろうか。
空を舞う蛍も現れて、いよいよ浮世離れ。ほの白い川も眼下に見えて、闇に目が慣れてきたのかなと思ったら、月が昇り始めた。おなかが空いてきた。


誰かが遊んでいた。くつくつと騒ぎ始めた。木々の向こう、50メートルくらい川上だろうか。
先ほど落ちた滝壺に、生き物がいる。黒い鳥、カラス? まさかこんな夜に。いや、あの形はヤンバルクイナ。さっき僕が這い登った平たい岩の辺りで水浴びをしていた。その周りではここかしこで羽を広げて乾かしたり、のびのびと身づくろいをしている。5羽か6羽かもっとか、いつも見るせわしい姿と違って、のびのびしている。
そのすぐそばで、白く長いにょろにょろしたケモノが水を飲んでいる。黒いのもいる。この地にイタチはいない、オコジョもいない、じゃあれはマングースか。白いマングースっているの? 誰か教えてほしい。白色アルビノか。
こんもりした丸いキウィみたいのは、ケナガネズミなのか。
登ってくる月に、広げたヤンバルクイナの翼が浮かび上がる。生態系がどうなっているのか分からないけれど、種の異なる動物が、同じ場にたくさんいる。満月の照り曇りが、溢れる動物たちと影とを惑わせる。

!! 川下から、人が3人昇ってきた。 白い岩と水しぶきに照らされている。動物を観察するのだろうか、赤い小さなサーチライトを持って、互い楽し気にささやき交わす。
先頭の人は赤いジャケット、中ほどはベージュ、後尾はグレー。小柄な。
あれ? 小柄な。

月夜で遠近が狂うけれど、身長150センチにも満たない、県内外の人でもないような。しなやかな身のこなしがどこか異国の人のよう。
急な岩肌を軽々と登ってくる。眼下20メートルほどの距離を横切っていく。

思わず叫んでいた。「すみません! チョコレート持っていませんか!」。
おかしいけれど、そんな言葉しか出てこない。誰も僕の声が聞こえないようにこちらを見向きもせず、川岸を上の滝へ登っていく。言葉が届かない。唐突すぎたかな?

そして滝壺にたどり着いたと思ったら、沢山の動物の群れの中で三つの影はひとかたまりになり、岩の上でうずくまった。急に人には見えなくなった。体高80センチほどだろうか、ケモノが何匹か重なって見える。体色のベージュやグレーは消え、茶がかった色にほんのり赤みだけが残っている。
自分は何を見ているのか。

少しずつ近づいた。片手で、木を伝いながら、ゆっくりと。30メートルほどの距離まで。たくさんの動物がうねうねと動く。月の光も動く、蛍も空を舞う。動物の群れに突入したら? 何かの調和を壊すだろうか。
赤いのが振り返り、こちらを見て目が光ったと思ったらそれは舞いたなびく蛍で、そして本体は素早く滝の上に消えていった。

痛みがぶり返す。さんざめく生き物の気配を淡く感じながら、月の沈んだ暗い林縁を、少しでも風の当たらない所を這いずって探し、夜が明けるのを待った。大陸からの寒気が覆い始める。夜が長い。想定の3倍長かった。
見上げた木々にたくさんの白い蝶が止まっているのが見える。夜明けの光とともに、それらは蝶ではなく、花だとわかる。冬なのに、初夏に咲くはずのエゴノキの花。

季節の最初の寒さ、13℃ほどの川を降る。脱臼した右肩をなおぶつけ、かばう身体は膝下が石で切れ、水温が体力を奪うと如実に知る。車にたどり着き暖房をフルにして体温を戻し、食べ物を詰め、2時間片手で運転して血まみれで救急科へ、にこにこした外科医が全員検分しに来たのち処置してもらい、ウチに戻った。

そして思う、僕が昨夜見た赤い生き物は何だったのだろうかと。
そして帰りの、1つ川下の滝壺で光っていた、1匹の魚の死骸のことを。
大きく光る銀色の魚、体長30センチほどのオオクチユゴイ、キジムナーの好物といわれる目玉だけがくり抜かれた。

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