私ばかりを語る人
仕事ができる人の特徴の一つに、スタンスをスイッチングできるという点がある。
社内である施策を打つ場面において、
ステークホルダーの目線、
経営者の目線、
マネージャーの目線、
所属する部署のメンバーとしての目線、
一般社員の目線といった複眼的な目を持つことができるか。
また、
法的、
財政的、
社会情勢的、
経済情勢的といった今自分達が置かれている環境を俯瞰的に眺めることができるか。
成果を生める人は一つひとつの目から事柄を点検し、世間での流行りや常識に囚われず、自分たちの立場を冷静に見極める。自分にその目がなければその目を持つものを巻き込み、俯瞰できなければ人の助けを借りて高見に登る。
それとは対局なところに、「私」しか主語がない人がいる。
目線は私から見えることに限られ、置かれた環境は自分にとって都合の良いように解釈と想像で彩られている。
そういう人に特徴的なのは、
人に質問をすることがない、
目線は常に私しかないから、語る言葉には主語がない、
言葉の語尾のほとんどに「(私が)思う」がついてまわる、
自分にとって心地の良い結論や方向が導かれるような行動をとる、
物事に優先順位がなく、自分のアンテナに感度高くひっかかったことばかりに目がいく、などがある。
自分以外の目線がないから、多くの場合はその人の願望や都合の良い解釈ばかりを周りのメンバーは突きつけられる。誰の目線にも、どんな環境にも基づかないから、一体なぜその人はその意見にたどり着いたのかコンセンサスがとれることはなく、どんなに聞いても納得感が得られないまま、徒労感が積もっていく。
土俵の上でただ一人、見えない相手と相撲をとり続けている。いつになったら終わるのか、そもそも何と向き合っているのか、観客からはいつまでたっても見えてこない。
経験的には、そういう人は素直でまっすぐ、一生懸命な人が多い。優しさもあるから人に対して世話を焼きたいにも関わらず、自分の解釈の世界に生きているせいで、独りよがりな思いやりに終わることが多い。相手の望むことや期待することはそっちのけで、自分がやってあげたいこと、ただできることだけをやってあげる。相手にとって、それは時に的はずれなこととなる。
ほんの少しだけ変わればいいだけだ。
「私」ばかりを主語にするのではなく、「あの人は」「会社は」「法律では」と語ればいい。
「解釈」や「想像」でロジックを組み立てるのではなく、「事実」を集めて組み立てればいい。
そのためには人と交わり、人に問いかけ、そこで得たこと、知ったことを言葉にのせて語ればいい。
自分一人に生きてしまうと、新しいことへの扉は閉ざされ、今の自分というフィルターでしか世界が見えてこない。その人にすれば、それはそれで幸せかもしれないが、周りの人にとってはいつまでもその人と分かりあえることのない時間を過ごすこととなる。結果として、答えの見えない他人の解釈の世界に頭を悩ますか、その人とは距離を置くことしか周りには道がなくなってゆく。