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ハンコレスと社会全体のIT化

河野行革相を中心にして、一気にハンコ廃止運動が加速しそうです。

印鑑そのものが悪者になっているように思えて、関連産業に従事している人にとってはたまったものではないでしょうけれど、そもそもは押印が無いと進まないシステム・業務を作って維持している人達の方が悪いわけで、その点は可哀想かなと思います。

そうは言っても、3・11後に節電による冷房の利用抑制からクールビズが一気に普及したように、コロナ禍後の日本社会ではハンコを使わないシステムが定着するかも知れません。

コロナ禍に時代が変わる、パラダイムが変わるというような大げさな言いようには与するつもりはありません。ネクタイにしろハンコにしろ、もともと面倒だなあと思っている人が多かったから、節電や在宅勤務をキッカケに一気に変わるものなのだと思います。

急激に全てが変わったわけではなく、変えてもいいんじゃないか?、という意識の共有化が悲劇をキッカケに生まれたのではないでしょうか。

また、変わるにしても変わったものはネクタイ・ハンコの製造に携わっている人には悪いですが、無くても成り立つけどあった方が良かった、というものだったということです。

ネクタイが無くてもワイシャツは着られますし、ハンコが無くても書類は成立します。どうしても無くせないところにはネクタイもハンコも存在し続けます。

日本においてのハンコ文化は、志賀島で見つかった金印あたりから始まっているのかも知れませんが、そもそも誰もが印鑑を持つ時代になったのは結構最近です。それまでは花押などの署名か、一揆の血判状にあるような指紋か、あるいはそもそも本人確認が不要だったかのどれかです。

資本主義経済が定着し、書類に個人や法人が押印して契約書やら申請書やらを作成するようになったのは20世紀以降でしょう。押印が日本文化の一つではあるのでしょうけれど、何かを犠牲にしてでも残す文化かどうかというと、難しいところです。

最近のAmazonではヤマト運輸が運ぶときは押印が必要ですが、Amazonサービスプロバイダが運ぶときには押印は必要ありません。個人の認め印やシャチハタ印はそもそも偽造が簡単に出来るので、もう必要性は今回のコロナ禍から始まった押印批判から無くなるでしょう。

本人確認として、大きなお金が動くような契約の際に使用される実印は残るかも知れません。ただ、これも印鑑カードを使って印鑑証明を発行できることと、その実物の実印を持っている人間が本人として扱われるという仕組みですので、印鑑カードや実印を別のものに置き換えることが出来れば、実印システムも不要になるはずです。

ただ、そこまでのシステムは社会的に整備されていませんので、実印はしばらく残るでしょう。それこそ何のためのマイナンバーカードなのだと言いたくもなりますが、マイナンバーのシステムも問題がありすぎるのですぐには置き換えられないはずです。いずれは変わるでしょうし、究極的には生体データを公的機関に登録しておいて、必要に応じて認証する仕組みになるでしょう。指紋、掌紋、瞳の虹彩、顔などが今でもありますが、最終的には本人の遺伝子・ゲノム情報も利用されるかも知れません。

結局はデジタル化・IT化を個人も企業も行政も全てひっくるめた社会全体で出来るかどうか、ということが問われてきます。このコロナ禍で新しく出てきた問題ではなくて、ただ顕在化しただけの話です。

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