勉強は生産的か消費的か
子どもの頃の勉強は、親や教師から言われてやらされるもの、というのが相場ですが、大人になってからの勉強は基本的に自分から進んで行うものです。
大人の勉強には、自分の仕事で必要な資格試験とか、昇進のための試験もあれば、外国旅行のために外国語を学ぶとか、純粋に何らかの分野の知識・教養を得るための学びもあります。
いずれにせよ、大人になってからの勉強は、今現在しなくても生きていける状態なら、する人としない人に分かれるでしょう。
分かれるだけならいいのですが、面倒くさいのが
「大人になっても勉強する意味ある?」
「何のために勉強しているの?」
「その勉強はお金になるの?」
とか言われることです。
どうだっていいだろうと突き放せば良いだけではありますが、一応考えてみたいのが、勉強という行動は何か?ということです。
具体的に言うと、勉強は生産的な行動か、消費的な行動か、という疑問です。
例えば資格試験に合格して将来的に収入が増えるのであれば、生産的と言えなくもないですが、勉強している時点では収入は増えていません。何なら資格予備校への支払やテキスト代などのためにお金を費やしている状態です。勉強しているだけでは生産的な行動は全くしていません。
勉強のために時間と労力を費やしているわけですが、勉強することにより知識や教養を得て、それが楽しみになる人だっています。そういう人からすれば、勉強はコンテンツの消費と同様であり、消費的な行動と言えるでしょう。
単なる教養・知識を身に付けるだけなら消費的行動ということは問題ありませんし、お金にならない勉強と言われても納得せざるを得ません。しかし、資格試験や昇進試験などのための勉強であれば話は違ってきます。
勉強した時点では消費的であっても、将来的に試験合格や就職、開業によって成功に至れば、生産的な行動に必要不可欠だった準備に様変わりします。準備なら生産的とは言えないのじゃないか、と反論されそうですが、準備も主たる行動と一連のものであり、欠かせないのなら生産的行動の一種と見なすべきです。
そう考えると、勉強は将来の結果によって生産的行動か消費的行動かのいずれかに変わる、ということになります。
法律用語的に言えば、
将来の成功を停止条件として、勉強は生産的行動となる。
といったところでしょうか。何をもって「成功」というかは、それこそ人によるとは思いますが。