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言葉の壁があるからこその外国文化体験

英語が世界の共通語となりつつあります。そして、日本人も英語をもっと話せるようになるべき、という理屈は確かに理解出来ます。英語を話せるようになることで世界中に行くことが出来ます。また日本に来る外国人に対しても英語でコミュニケーションを取ることも出来るようになります。

そうは言っても、世界中の人々が英語を話すようになると、そもそも外国旅行の醍醐味の一つが減るのではないかと思います。言葉の壁があること、お互いの言葉が理解出来ないところからお互いに言葉を学ぶことというのも、外国に行くことの一つの魅力だと思うのですが、どうでしょうか? 言葉の違いは文化の違いでもあり歴史の違いでもあります。

もちろん言語の違いイコール文化の違いとはならない場合もあります。同一言語でも文化が異なることも多いですし、逆に一つの文化の中に複数の言語が存在することもあります。しかし多くの場合、国家の違い、文化の違い、言語の違いというのはそれぞれが密接につながっています。パスポートを使って外国に行き(EU圏内だと不要ですが)、自分とは異なる言葉を話す人と出会い、初めて接する文化を体験する、ということが外国旅行の意義というか意味でもあると思います。

言葉が文化に対して影響を与える一面があることは確かだと思います。特に現代ではインターネットの普及により、英語によるコンテンツを同時にアメリカでも日本でもスリランカでもガーナでも南極でも見ることが出来るようになりました。その影響力は計り知れないものがあります。すぐに全世界で同じ影響と結果が発生するとは限りませんが、少しずつ同質化していくことでしょう。英語を使えるメリットと英語を使えないデメリットを考えると、英語を話せなくて良いと考えられる人、団体、政府というのはまず存在しないはずです。

既存メディアが同時代を解釈する以上のスピードでネットコンテンツの普及は進んでいきます。世界中の人がNetflixで同じドラマを見ている時代になりつつあるということは、社会や人間の違いにどのような影響を与えるのか。

同じものを見たからといって同じ人間が出来るわけではありません。それぞれ解釈の違いはありますし、育っている文化も違います。しかし、同じものを見ているのだから同じ意見を持つはずだと短絡的に考えてしまうとすれば、かえってトラブルが増えてしまうのではないでしょうか。

「自分はこう考えているのだから他人も同じように考えるはずだ」
という浅慮によってかえってもたらされてしまうトラブルというのはよくあります。

英語の共通語化という便利さの享受と引き換えに、他者との違いを認識できなくなるとしたら、意識して相互理解をしようとしなくなってしまい、お互いへのリスペクトも無くなってしまうのではないでしょうか。

将来的に、高性能な自動翻訳機が普及して、会話時に言葉の違いによるタイムラグはほぼ無くなると思います。いっそのこと英語の共通語化よりも自動翻訳機の方が言葉(とそれに伴う文化)の保存が行われてマシなのかも知れないとすら思います。

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