人件費も生産性も売上利益も上がらない社会からの脱却
日本の労働生産性が低いということは、しばらく前からずっと訴えられていますが特に改善される方向に動くこともなく、ただただ労働者が低い労働生産性で商品サービスを生み出し続ける状態となっています。
そんなことない、生産性は向上している、という向きもあるでしょうけれど、そもそも他の国だって生産性は向上し「続けて」います。他国と同じペースで向上していても、比較すれば低い順位となってしまいます。
労働市場が買い手有利である状況が、失われた30年の間でもほぼずっと続いていたので、企業側としては特に生産性を気にすることなく、安い賃金で多くの人間を雇う人海戦術で売上を上げる方を選んできました。
そりゃその方が楽で手っ取り早かったのでしょうけれど、そのツケは労働人口が減少し始めたときに払うことになります。
四半世紀以上続いたデフレマインドからの脱却が出来ないまま、労働者不足の時代を迎えても生産性も賃金も上がらない日本社会に明るい未来が待っているとは到底思えないのですが、変わる時代は来るのでしょうか?
日本では在来の思想なのか儒教の思想なのか、あるいは武士道によるものか知りませんが、勤労は美徳であり休暇は罪悪と見なす考えは昔からありました。休む暇も無く働かねばならない状況であれば、もちろんそれはそれで正しいのでしょうけれど、そうではない時代になってもまだ、休むことを憎み、労働時間を長くすることでしか売上を上げられないであれば、生産性が上がらないのは当然です。
もしかしたら、欧米諸国での労働生産性が日本より高いのは、キリスト教における安息日の存在があるからでしょうか。休み無しで働き続けるのは宗教的罪悪だという認識があるからこそ、労働者に必ず休みを与えないといけない、というルールは欧米では受け入れやすいのかも知れません。もちろん、産業革命後の悲惨な労働環境はありましたが。
企業側も労働者側も休みがあって当然だとすれば、必然的に労働者一人当たりの生産効率を向上させないと売上は上がりません。休み無しで馬車馬のように働かせる、あるいは働くことが当然な社会と比べると、労働生産性を向上させるモチベーションが高くなるのは当然です。
アジア社会、特にコメ文化圏では単位面積当たりの食料生産量が多く、一般的にコムギ文化圏よりも人口は多い社会が発達します。そのため、一人当たりの効率を良くするよりも、人を多く集めて人海戦術で何とかする志向が生まれるのは無理もありません。
しかし、人口減少社会に突入することになっても、労働生産性が上がらないとしたら限界が見えていると言わざるを得ません。
日本は人件費も上がらないままですが、人件費を上げずに生産性を上げるなら、相当なレベルでのIT化が必要ですが、その分野こそ遅れているのが日本です。もはや八方塞がりのようにも思えますが、少なくとも人件費も上がらないのに勝手に生産性もIT化も進むはずがありません。
以前、「先ず隗より始めよ」の故事成語について書いたことがありましたが、
元々は古代中国の戦国時代、今の北京付近にある燕という国の国王が、
「隣国の斉が我が国を苦しめた屈辱を晴らしたいが、今は国力が不足していて無理なので優れた人材を得て雪辱したいので紹介してくれ」
と郭隗という人物に言い、それに郭隗が
「昔の君主で、馬を買ってくるよう頼んだ部下が死んだ馬に大金を積んで買ってきたことに怒った人がいました。それに対して部下は、『死んだ馬に大金を積んだのだから生きている馬ならもっと高く買うだろう』考える馬売りが今に良馬の売り込んでくるでしょう、と答えたそうです。そして一年経たずに優れた名馬を売り込みに3人も来ました」
「もし、王が優れた人材を欲しいなら、まず私、郭隗を破格の待遇で雇ってください。そうすれば、私より賢明な人がいくらでもやってくるでしょう」
と言ったことから出来た言葉です。
この「先ず隗より始めよ」という言葉は、成功したいなら人にお金をかけろ、という言葉です。人件費をケチってはいけないと言う教訓です。
資本主義における労働市場で、十分に流動性が確保されていれば、人件費は製品・サービスの質に直結します。「生産性を上げる」能力を持った人や制度設計できる人そのものが、人件費の高い企業に流れるからです。
これからの日本は、本当に人件費も生産性も、そして売上利益も上がっていく社会になるのでしょうか?