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政治家に存在する、演説という能力と結果という責任

政治家の一つの技能というか、重要な資質として説明する能力があります。もちろん説明が下手でも政治家として実力があり出世するような人もたくさんいますし、演説が得意絵も政治家として成功しない人もたくさんいますが、重要なポジションにいる人の演説や記者会見は必ず注目されます。

2月末の休校要請を行った時の安倍総理の演説は不信感や不安を与えるだけでしたが、結果的に政策としては間違っておらず、むしろ完全に収束してないのにいま学校再開することに反発が出るくらいです。その後がアレがアレでアレすぎてアレでしたが。

感染が急に拡大していったアメリカではトランプ大統領の反応や政策が不満や批判を集める一方で、世界的な大都市であるニューヨークでは自治体のトップが感動的な演説を行っていました。

リーダーの技量が問われる「危機対応スピーチ」
https://project.nikkeibp.co.jp/atclhco/012400039/041500016/

スピーチが絶賛されたニューヨーク州のクオモ知事ですが、結果的にニューヨークは大変な自体になってしまいました。こういった医療崩壊と被害の大きさの責任追及はされないんでしょうかね。

もちろん、知事に出来ることは限られますし、知事一人の責任にしてしまうのはアンフェアかも知れませんが、演説の上手さだけで評価するというのもアンフェアでしょう。

今のところ、このコロナウイルス対策の不手際によって政権が崩壊した国というのは聞かないですが、それなりに落ち着いてきたらどの国でもその国なりに追求が始まるでしょうね。

ただ、現実に現れた結果ではなくて、対応が妥当だったかということで判断される場合もあると思います。医療設備の充実度や高齢者の割合、人の出入りの多さ、国境の特殊性(海に囲まれているか陸に囲まれているかなど)、国民のライフスタイルなど、短期的な政策ではどうしようもない要因で感染者数や犠牲者数が変わっているはずですので、100%を現時点での政権に責任を負わせるのも難しいはずです。

演説が得意でも政策で失敗しているケースもあれば、政策が失敗していなくても演説が下手くそなケースもあるでしょう。もちろん、演説も政策もダメダメなケースもありますが。

どちらかと言えば、希望を与えれば現実が過酷でも生きていけますし、希望が無くても現実が悪くなければ生きていけます。

演説が上手くて人の心をつかむことが出来れば、どんな過酷な状況でも組織を率いていけるという証明でもあります。

おそらくフィクションのはずですが、三国志演義で曹操が、行軍中に水が無くなり兵の不満が高まる中で、向こうに着けば梅の木があるぞと兵たちに呼びかけて口の中に唾液を出させて乾きをしのいだり、軍糧の管理者を無実の罪で横領していたとして処刑して兵たちの不満を和らげたエピソードを思い起こしてしまいました。

もちろん、この曹操みたいな明確な嘘や処罰などは行っていないにしても、ニューヨークの惨状を棚に上げて大統領候補に擬するような称賛を行うのもあまりに無責任ではないかと思います。

「事件は会議室で起きてるんじゃない!」という名台詞になぞらえると、「被害は記者会見場で起きているんじゃない!」といったところでしょうか。

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