駆け込み寺的かつ治外法権的な週刊誌
この1月ちょっとで週刊誌が報じて大問題になった性加害問題が2つも出てきましたが、そのような一方的かつ自分たちが責められない形での報道を行っていることについて、批判も色々出てきました。
確かに、週刊誌が性加害そのものを告発するのではなく、「性加害を訴えている人がいる」ことだけを報じるのは、週刊誌が訴えられないため、あるいは訴えられてもダメージを少なくするための自衛手段であることは間違いないでしょう。加害疑惑がある人と週刊誌が直接対決するのではなく、被害者と加害者を戦わせて高みの見物で金儲けするのですから非難も当然です。
ただ、被害を訴える側にとって週刊誌のみが最後の砦になっている場合もあります(今回の2件がそうだと断じるわけではありません)。例えば自身で確たる証拠を持たず警察に訴えても却下されたような場合であればやむを得ないこともあり得ると思います。これについては、被害届が受理されている伊東純也のケースは当てはまりませんが。
いわゆる欧米でもあったMeTooなんかは、法的責任が消滅しても倫理的責任を追求するものですが、問題は倫理的責任の有無や是非を裁く機関がないことです。歴史的に見れば宗教組織がそれを担っていたのでしょうけれど、近代以降の法治国家においては、宗教組織による断罪の重要性は大きく減じました。
その代わりに台頭してきたのがインターネット上のSNSであり、被害の訴えがそのまま全世界に拡散されます。正しかろうと正しくなかろうと拡散されることで、倫理的圧力を掛けることが可能になります。
マスメディアに関してはその尻馬に乗っているだけではあるのですが、日本においては週刊誌はマスコミ内でも特殊な存在です。記者クラブに属さず、記者クラブ所属のメディアが報じないネタで成り立っている部分も大きいです。もちろん、記者クラブ自体が世界的には特殊ではあるのですが。
週刊誌が特殊な存在であるからこそ、被害者にとって最後の砦になり得ます。昔の駆け込み寺のようなもので、一般社会における法による縛りから抜け出して、被害を訴えることが出来ます。一種の治外法権ですが、江戸時代においては駆け込み寺も寺社奉行管轄だったので完全に法の支配を受けないわけではありません。
同じく、週刊誌も法の支配を受けないわけではなく、やり過ぎたら潰されるでしょう。それは法的だけではなく、社会的にやり過ぎだと思われたら、週刊誌もその存在は保てないでしょう。社会のためにならなければ、存在する理由もありません。