春秋左氏伝_中巻のコピー

「楽則能久」と「好きなことで、生きていく」

「座右の銘は何ですか?」と聞かれたら、私は「楽則能久」と答えます。

「楽しければ永続きできる」という意味ですが、それだけだと遊びほうけているキリギリスが得をするような印象を受けてしまいそうですので、長めに説明してみます。

この「楽則能久」という言葉は、古代中国春秋時代を記録した「春秋左氏伝」に出てきます。「春秋左氏伝」という書物は、「春秋」(作者は孔子とされています)という歴史書に、後で左丘明という人が注釈を付けたと言われている書物です。実際にはもっと後の時代の成立と言われていますが、それはともかく、この 春秋左氏伝の「襄公二十四年」という箇所に、「楽則能久」という言葉が出てきます。

少し長いですが引用してみます。引用元は岩波文庫の全3巻のうちの中巻286〜287ページです。ちなみに、晋という国が当時の二大大国の一つで、鄭という国はその同盟国ですが中規模の国です。

 范宣子が執政の座につくと、諸侯の[晋への]礼物の額がかさむようになり、鄭の人はこれに心を痛めた。二月、鄭伯(簡公)が晋に赴くに際し、子産(公孫僑)は子西(公孫夏)に書簡を托して、宣子に次のように書き送った。
 子(あなた)が晋国を治められてより、近隣諸侯は令徳などまるで耳にせず、聞くは重き礼物のことのみ。僑(わたくし)は不審に堪えませぬ。国家を導く君子は、財物無きを気にかけず、令名無きを気にかける、と僑(わたくし)は聞いています。諸侯の財貨が[晋の]公室に集中すれば、諸侯は[晋から]離叛するでしょうし、もし吾子(あなた)がそれで利益を得れば、晋国内部で離叛がおこるでしょう。諸侯が離叛すれば、晋国[の盟主]の地位は崩れるし、晋国内部で離叛がおこれば、子(あなた)の家は崩れる。そのことがおわかりになりませんか。財貨などは何の役にも立ちません。
 令名は徳を載せて運ぶもの、徳は国家の基礎をなすもの。基礎にひびが入らぬよう努むべきではありませんか。徳あれば楽しく、楽しければ永続きできます。『詩』の
  楽しめる君子こそ、
  邦・家の基なれ。
 とは、令徳があるからです。
  上帝、汝に臨む、
  汝の心を二つにするなかれ。
とは、令名があるからです。思いやりによって徳を発揮されれば、令名は載せられて行きわたります。かくて遠方諸侯も到来し、近隣諸侯は安心するのです。「子(あなた)のおかげで我は生きている」と人に言われるか、それとも「我から搾り取って子(あなた)は生きている」と言われたいか。象が象牙をもつためにわが身を滅ぼすのは、それが財貨だからです。
 范宣子は納得して、さっそく礼物の額を減らした。

さらに補足すると、范宣子とは大国である晋の事実上の最高権力者で、鄭伯は鄭の国の君主です。子産は鄭の国の閣僚級の人物ですが、その時点ではナンバー3か4あたりのポジションにいました。

要約すると、強大な盟主の最高権力者に対して、同盟国とはいえ遙かに力が劣る国の4番手くらいの大臣が、

「あなたは金を集めることばかりしているから、周りのみんなから嫌われているのに、なんでそのことに気付かないの? このままだとあなたのいる国は周りから背かれ、あなた自身や家も潰されますよ? 人のためになることをすれば楽しめるはずだし、そうすれば永続きできます。感謝された方が憎悪されるよりもいいじゃないですか」

という手紙を送り、受け取った方は納得してそのようにした、ということになります。

かなり無理はありますが、現代に当てはめてみますと、横暴なアメリカ合衆国大統領(容易に想定できますね)が同盟国に迷惑をかけている状況で、その同盟国の中の一つ(イギリスや日本よりも小さいと考えた方が良いでしょう)の内閣の4番手くらいの大臣(首相、外相、蔵相の次あたり)が、アメリカ大統領に対して、「あなた嫌われてますよ、このままだと潰れますよ、人のために行動しなさいよ」と言っちゃうようなものです。

もちろん現代世界とは異なり、何かあれば直接的な軍事行動が実行される可能性は高いわけですから、相当無茶な諫言であったことになります。

さて、話を「楽則能久」という言葉に戻します。
先ほど引用した中にある、
「徳あれば楽しく、楽しければ永続きできます。」
が本文では、
「有徳則楽、楽則能久」
に当たります。読み下せば、「徳あれば則ち楽し、楽しければ則ち能く久し」ということになります。

つまり、「楽則能久」の中の「楽」は単なる享楽的な、何も考えずに楽しみを追求するということではなくて、利他的・社会貢献的な行動によってもたらされる楽しみのことを指します。その「楽」を行うのであれば、その行動も自分自身も永続き出来る、という意味の四字熟語と言えます。

さて、一方で最近というか数年前ですが、YouTuber自身やあるいは取り上げる側の表現として、「好きなことで、生きていく」という言葉がよく出てきました。

好きなことで、生きていく - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLQntWbrycbJc1ojIZ8IkKTAZGmHcasZgO

YouTube Japanの公式チャンネルがこういった動画を出していますから、YouTuberは自分が好きなことで生きていくことが出来ますよ、というアピールでもあるのですが、当然のことながらそれほど簡単なことではありません。

YouTubeも別に簡単ですよと言っているわけではないのですが、好きなことで生きていくということはある意味、大変な道でもありますし、「好きなこと」というものの定義も難しいです。

一部のYouTuberが道義的あるいは法的に問題のある動画を撮影してアップロードすることに対して、非難されることが多くなってきました。もちろんそれは当たり前のことなのですが、そういったYouTuberにとって、非難されるべき内容の動画を作ることが本当に「好きなこと」なんでしょうか?

単なる収入のため、ということであれば分からなくはないですが、それなら嫌々ながらもサラリーマンなりになった方が、収入の安定性でいうと確実だと思うのですが、そうでもないのでしょうか。

こうなってくると、「楽則能久」の「楽」と、「好きなことで、生きていく」の「好きなこと」が決定的に異なってしまいますが、もう一つ、「楽」という言葉の意味を考えたいと思います。

歴史、日本史の教科書で織田信長について取り上げるときに、「楽市楽座」というキーワードが出てくると思います。楽市楽座とは、それまでは商工業者が結託して自由な商売を広く出来るようにはしていなかったのですが、政治権力をもってオープンな市場を作り出すことによって、その勢力圏内で経済活動を活発化させて最終的に税収を増やすことが目的の政策です。

この「楽市楽座」自体は別に織田信長が創始者ではなく、戦国時代当時複数の戦国大名などが開いていたのですが、ここで出てくる「楽」という言葉は当然ながら「楽しい」という意味ではありません。

楽市楽座という言葉での「楽」は「自由」「free」という意味であり、制限が無い、ということです。

楽=自由であり、自由であることは楽しいということにつながります。

楽市楽座の楽は自由だと書きましたが、自由という概念や権利はどんなことをしてもいい権利ということではありません。正確には、何しても良いけどそれで生じる責任が伴います。何をしてもいい権利を得る代わりに、何をすべきか自分で判断して実行するという義務が発生するのです。その義務に関して理解出来ない未成年者は自由を制限されますし、法律に違反し犯罪を犯した者はこの義務を理解出来ていないのだから、刑務所にて自由を制限される、ということになります。

YouTuberにとっての「好きなことで、生きていく」の「好きなこと」は、「楽則能久」の「楽」に当たるはずですが、それは「楽」という漢字の意味に当てはめれば、「利他的な行動で得られる楽しみ」であり、かつ、「責任を伴う自由」をも意味します。

ここまで話を展開していけますと、「楽則能久」と「好きなことで、生きていく」は同じ主旨として説明できるようになります。

楽則能久という言葉は、人のためになるということは楽しいことだし、そういうことは永続きできるのであって、人の楽しみを奪っても永続きはしないし自分も幸せにはならないのだ、ということを意味します。

誰かを楽しくさせることが自分も楽しくなるための基本であり、そうすればそれ自体長く続けられます。逆に言うと、嫌なことは永続きしません。それは仕事だろうと趣味だろうと同じです。そして「嫌な」という気持ちは自分が感じるだけではなく、誰かが「嫌な」ことも永続きしないのです。

人のためになることで楽しむことでそれは長く続けられ、自分にとっても得になります。決して人(他人のみならず自分も)を傷つけて得られる「楽」ではないのです。

自分も他人も楽しめることであれば、長く続けられるのだということは、このように昔からある箴言であり、今にも通じるテーマでもあると思います。

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