義憤は私怨
メロスが激怒したのは義憤に駆られてでしょうか? それとも私怨によるものでしょうか?
以前のnoteで、世直し系YouTuberを名乗る不埒者の大半は金儲けが理由だと、書きましたが、もう一つの理由を忘れていました。
「自分やその主張が世間で認められていないことに対する恨み」
です。
社会的に恵まれないポジションにいること、貧しい暮らしをしていること、家庭や職場で揉めていること等々、憤懣を抱えている人は世の中にたくさんいます。大半の人は愚痴を言ったり、ヤケ酒を飲んだり、スポーツをしたり、趣味に没頭したりして、ストレスを発散することでなんとか生きていますが、そのストレス発散方法が世間に対する攻撃に向くと厄介です。
そしてその厄介者を槍玉に挙げる私人逮捕系YouTuberもこれまた厄介ですが、多分、私人逮捕系YouTuberの中にも、自分が世間に受け入れられていないやるせなさから、自身が正義の存在だと主張して顕示する欲望を満たすために行っている人もいるでしょう。
少なくとも動画のコメント欄や、SNSのフォロワーなどには賞賛され、自分が世間的に良いこと・正しいことをしているんだという自己満足感は得られるでしょうし、自分を認めない周囲の人間に対しての反発心も和らぐでしょうね。
つまりは、義憤を装う私怨というわけですが、これは結構判別が難しい問題かも知れません。YouTuberではなくて例えばマスメディアの組織レベルあるいは個人レベルで、特定の人物や団体に対する私怨を持っている場合に、その人物や団体を批判したとすると、義憤か私怨かは第三者には全く分かりません。
岸田首相のことを「増税クソメガネ」と呼ぶ人が、日本社会の問題から義憤に駆られて言っているのか、自分の生活の苦しさから恨みに思って言っているのか。少なくとも国会でこのネタを出している議員はどちらかというと、国政上で自分を用いないことへの私怨のように思えます。とは言っても批判されてなんぼの首相をかばうつもりはありませんが。
今の世にあって、政治や社会の問題に対して純粋に義憤をもって取り組む人もたくさんいるでしょう。とはいえ、自分が当事者としてネガティブに関わらざるを得なかったからこそ、問題に気付いて取り組むというケースも多いです。これは私怨と言えなくもないですが、あえて言うなら「良い私怨」でしょう。
冒頭の話に戻りますが、「走れメロス」において、メロスが激怒したのは無辜の人を殺し続ける、かの邪知暴虐の王に対して義憤を抱いたからです。全くもって私怨ではありません。
では、そのメロスが妹の結婚式の間だけ死刑を免れるために指名した、身代わりのセリヌンティウスが縄につながれている間に一度抱いた、メロスの裏切りの可能性は義憤なのか私怨なのか?
少なくとも、セリヌンティウスにはメロスを疑う資格があるというか、メロスを疑ってもしょうがない立場ではあります。それでもお互いに最後には信じ合って約束を果たしたからこそのラストシーンなのですが、熱い友情を見て改心する暴君は現代の世にいるでしょうか?