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死にたがっていた自閉症の友人と生きる意味を考えた事

自閉症の友人との出会い

私は大学1年生の春に自閉症(自閉スペクトラム障害:ASD)の友人に出会った。
彼女は一見明るくとてもよく喋る、人懐っこい人柄の女の子だった。
その子と初めて会った時の思い出は『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』という映画を観に行った事。彼女がその映画を観たがった理由は初めはよくわからなかったが、その映画はダウン症の男の子の話だった。
後にその映画を観たかった理由は彼女自身が自閉症(自閉スペクトラム障害)を持っていて、「障害」に興味があるからだという事を教えてくれた。

私は初め彼女に自閉症というコミュニケーションを不得意とする障害がある事は信じられなかった、そして彼女はこれまでの19年間の人生で人に自分の障害のことを打ち明けた事はほとんどないと言っていた。
彼女は「よく喋る」のだが、一緒にいる時間を重ねていくうちに自身の興味のある事をマシンガンのように永遠と話す特性や、いつもは明るいのにご飯を食べている途中で電池が切れたように寝てしまう事があり、自閉症の症状やそれ故の疲労感・心身の状況に波がある事に私も気付き始めた。

「自分はなぜ生きていなきゃいけないのか」を聞かれた。

ある時彼女と会う約束をしていた際に腕に包帯グルグル巻きで待ち合わせの場所に来て驚いた事があった。それは生きている事が苦しい故にリストカット(もはやリストカットではなくアームカット)しまくった後だと知ってビックリした。その際に「自分はなぜ生きていなきゃいけないのか」を聞かれた。
何で生きているのか唐突に聞かれても、実際に死んだ事がないので分からないのが正直な所だったが、その時はネットで検索して出た記事を彼女に見せた記憶がある。

私はその後に思わず自閉症 自殺で検索してしまったのだが、自閉症の人の多くが40歳未満で死亡という記事を発見し、2017年のアメリカの研究によると自閉症の平均寿命は36歳、「自閉症の人の多くが40歳の誕生日を迎えられる事はありません」という文面があり驚愕した。
自閉症は脳神経に障害がありコミュニケーションが苦手な障害なのだが、それ故社会的な孤立で自殺するケースや、不安症状が多いゆえの心臓病(未解明な部分も多い)、あとは事故が主な死因の原因であるという。
事故が死因である理由は初め記事を読んだ時はあまりわからなかったが、実際に自閉症の友人を見ているとよく理解できた。
彼女は自閉症の二次障害でパニック障害を患っていて、突然車が走っているところに飛び出していく事があった。私は事故で警察沙汰になったその日から自閉症の人の多くが40歳未満で死亡の記事の信憑性を感じ始めてしまった。

自閉症の友人の生きづらさ

自閉症の彼女は相手の気持ち・考えを適切に想像出来ないので、人と話す時に周りの人・テレビ等、他者の話し方ややり取りのパターンを全て暗記して、「この時はこう返す」と機械的に返しているという。
場面ごとに他の人の人格を自分の中に取り入れているので人と関わるだけで疲れるとよく言っていた。じゃあ人と話すのが疲れるから人と関わるのを辞めるか?と言ったらそんな事は(人と話す頻度を減らす事は出来たとしても)不可能であろう。人とのコミュニケーションが苦手な自閉症の彼女は「人との関わりなしに生きていく事は不可能で、じゃあなぜ私は人の気持ちが分からない脳の神経で生まれたのか、生きている方が辛いのではないか」とよく言っていた。
そして「普通の人間になることもない自分は、何かで優れていなければ社会の排除の対象になる」と言い勉強を始めとして色々な事を必死に努力していた覚えがある。
彼女は体をボロボロにしてまでも誰よりも必死に生きている事を痛感した。

SNS

そして彼女のSNSの文面で長文を発見したのだが

生きていて人の気持ちが分からないし人間関係で苦しい経験が多い故に人間不信であり、失敗がフラッシュバックのように起こる。頑張って大人になる日まで生きてみて、それでも辛かったら20歳になる前の日に死のうと思います。

の様な文を読んだ。彼女は当時19歳だったので、もしかすると1年もしないうちにもう彼女は生きていないかもしれない、そう思うと精神的に苦しかった。10代のSNSなんてinstagramによる
人と遊んで楽しい自慢・幸せ自慢か学校・バイトかったるいのtwitterくらいしか知らなかったのに、こんな悲しいSNSの使い方がある事を初めて知り、周りの他の健常者の子とこうも違う事に人間の不平等さを感じた。

年齢が年齢で病気・寿命で人が死んでいくケースは一般的でそういうものかと思うことも多かった。しかし10代の子が自分で選んだわけでもないのにいわゆる生まれつきの障害で苦しみ、自分の身体をカッターで切ってボロボロになる程生きる事が苦しい状況になり、死ぬ事を選ぼうとする、そう言った事実が自分の友人の出来事として起こっている。もし彼女が死んだとしたらもう彼女と映画を見ることは無いし彼女のマシンガントークも声も聞くことはできないし、姿ももう見ることが出来ない、そう思うと骨折した時も浪人した時も泣くことがなかった自分でも、辛くて泣いてしまった。自分は彼女のことを見殺しにしたくなかったし、彼女が生きてくれる為に何ができるか必死に考えた。

ホームページを作った事

彼女は自分の障害(自閉症)に興味があり、彼女のマシンガントークの多くは自閉症に関してのことだった。その際に自閉症を含む発達障害や精神障害に関する情報を掲載したホームページが作りたいと言い始めた。私は彼女が生きていてくれるなら何でもやろうと考えていたので承諾し、ホームページを作り始めた。

それから彼女は少しずつ明るくなっていた。最初ホームページを作る際に必要なプログラミング言語のHTMLとCSSを勉強して、「新しいHPを作ったよー!」とデモを見せてくれた。私はもちろんHTMLとCSSでホームページを作ることも凄いと思ったが、それ以上に元々死にたがっていたのに、目標のできた彼女が何かに向かって頑張っていて明るくなったことがすごいと感じた。(結局プログラミングを使わないwordpressというものでホームページを作成したが)
また彼女はものすごい勢いでホームページの記事を作成していきどんどんホームページが出来上がっていった。なお彼女は言語能力が高く自身の体験談など書いた際にとても心に刺さるものがあった、だから私自身も周りの人にホームページを見て欲しいと広報し始めた。(またSNSの拡散も多々した)

ホームページは広告を貼ることで収益が得られるのだが、googleの審査を通るのが難しかった。だが何度も申請した結果申請が通った際に彼女はすごく喜んでいた。
そしてそのホームページは大学内で話題になり大学から取材を受ける事になったり、後に朝日新聞から連絡が来て新聞に載せさせて欲しいと言われて彼女は喜んでいた。
その際に「私たちは次にどんなすごいことができるかな?」と言っていたのを今でも覚えている。新聞に作ったものが載るのも嬉しかったが、それよりも人間不信だと言っていた彼女に「私たち」という自分と他者を含めた主語が出てくることや、「何のために生きているのか分からない」と言っていた彼女に「次」という言葉が出てきたことが本当に嬉しかった。

自閉症の友人の20歳の誕生日

そして彼女の誕生日が来た。頑張って大人になる日まで生きてみて、それでも辛かったら20歳になる前の日に死のうと思いますと言っていた彼女が、ちゃんと誕生日を迎えて成人したことが自分にとって本当に嬉しかった。彼女が20歳の誕生日を迎えたことが私の大学生活の中で一番嬉しかったことであり、誕生日の尊さを知った経験である。

彼女が言っていた言葉として、人が生きることを泳ぐ事に例えた際に、水の流れに沿って歩いていける人・逆らって別の方向に行ける人・もともと流れなんかない砂浜を歩いている人、いっぱいいると思うけど多分私は水の中で溺れている人なんだろうなと思う、と言っていたことがある。もし彼女が溺れながらも必死にもがいて生きているとすれば、私も例え溺れかけたとしても、彼女と一緒に泳いでみたいと切に思う。

障害は個人にあるのでは無く社会にある

彼女は20歳になる事はできたが、障害が治ったわけではないのでおそらくまた人間関係で苦しい思いをし希死念慮に襲われる事は予想できる。
また私の自閉症を持つ友人は時頭が良く賢かったり、経済的・家庭状況に恵まれているなど先天的な障害を除いて恵まれている方だったが、自閉症の人でかつ彼女より条件の悪い(例えば勉学が苦手、経済的・家庭的に恵まれてない)とすれば、生きることが更に苦しく自殺の道を選んでいるのだろうかと考えてしまう。

障害を扱う会社の企業理念で「障害は個人にあるのでは無く社会にある」という言葉があるのだが、私は大いに同意する。(自閉症含む)発達障害は先天的なものだが、社会の仕組みが対応してくれれば生きやすくなり「障害」という概念が無くなる日が来るかもしれない。(これは身体障害にも同様に言える)またいわゆるパーソナリテイ障害と呼ばれる人格障害も(後天的なものは)おそらく本人が好き好んでなったわけでは無く、家庭や学校・職場などの集団で被害を受けたり苦しい思いをしたことが原因の大半なのではないだろうか。そうだとすれば「あいつは障害者だ」と指を刺されながら生き続けるのは何かが違うのではないかと感じるし、レッテルを貼る事も時には必要かもしれないが一番周りの人や社会がするべき事は当事者が一人の人間として「生きやすくするための改善策を一緒に考える」事なのではないかと思う。

死にたがっていた自閉症の友人と生きる意味を考えた事

また私が全国大学メンタルヘルス学会に参加した際に聴講した精神科の松本俊彦さんの講演の「希死念慮を訴える人は、死にたいのではなく今直面している問題を解決したいだけです」という言葉が幾度も蘇る。また「死にたいの向こう側の気持ちを考える事」が重要だという話を聞いたが、いかに当事者に寄り添える行動をとるかが重要なのであろう。私は生きる意味を自閉症の友人と考えた結果

①(自分のやりたい事において)自己実現をする事
②人と喜びなどの感情を共有できる事

の二つではないかと考えた(とても個人的な意見なのでもちろん他のベクトルも存在すると思う)

私は「自閉症の友人にこんないい事をしました!」とアピールしたいわけではない。むしろ生きる意味や障害について考えさせられたり、人と何かをやった中で今までで一番嬉しかった経験をもらった。彼女に与えてもらったものの方がむしろ多いと今では考えていて本当に感謝している。

だから私は今後の人生で障害などのハンデを持ち「生きづらい」と思う人の障壁を除き、自分で生き方をデザイン(自己実現)できる様な環境を作り、今が辛い人が少しでも希望を持って生きてくれる社会を目指して、自分の人生を賭けるべく活動・研究をしていきたい。


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